第2話 悪魔の囁き

 翌朝、私はいつものように少し早起きをして、夫のために朝食を用意した。

 キッチンに立ち、ベーコンをフライパンに落とす。脂が爆ぜる音が静寂を破り、香ばしい匂いが立ち込める。

 昨日までなら、この匂いは吐き気を催すだけの不快なものだった。不妊治療の薬の副作用で、嗅覚が過敏になっていたからだ。

 けれど今朝は違う。

 私の胃の腑は、驚くほど静まり返っていた。まるで嵐の前の海のように、不気味なほど凪いでいる。


「おはよう、美咲。……体調はどうだ?」


 寝癖のついた髪を手で撫でつけながら、貴之がリビングに入ってきた。

 その顔には、完璧に計算された「妻を労る夫」の仮面が張り付いている。眉の下げ方、声のトーン、私を見る瞳の揺らぎ。すべてが演技だということに、なぜ今まで気づかなかったのだろう。


「おはよう、貴之さん。ええ、昨日は少し休みましたから、だいぶ楽になったわ」


 私は振り返り、微笑んで見せた。

 鏡を見なくても分かる。今の私は、昨日までの「儚げで従順な美咲」そのままだろう。

 心の中にどす黒いタールのような殺意が渦巻いていることなど、彼は露ほども疑っていない。


「そうか、よかった。あまり無理をするなよ。君の体は、君一人のものじゃないんだから」


 貴之は私の肩に手を置き、満足げに頷いた。

 『君一人のものじゃない』。

 その言葉の裏にある意味を、私は正確に翻訳する。

 ――お前の体は、俺が遺産を手に入れるための道具だ。壊れない程度に機能してもらわなきゃ困る。


 私は彼の手を振り払いたい衝動を、熱いコーヒーを飲み下すことで押し流した。

 喉が焼けるような熱さが、私に現実を自覚させる。


 まだだ。

 まだ、感情を表に出してはいけない。

 昨夜、あのパイプカットの同意書を見つけた時、私は決めたのだ。

 ただ離婚届を叩きつけるだけでは生ぬるい。彼が積み上げてきた嘘と欲望の城を、彼自身の手で完成させた瞬間に、土台から爆破してやる。

 絶頂から奈落へ。それが、私の三年間の激痛と裏切りへの釣り合う対価だ。


「行ってきます。……愛してるよ、美咲」

「ええ、いってらっしゃい」


 玄関で見送る私に、貴之は習慣的なキスをして家を出て行った。

 ドアが閉まり、鍵がかかる音が響く。

 その瞬間、私は洗面所へ駆け込み、口元をごしごしと乱暴に拭った。


「……汚らわしい」


 鏡の中の自分と目が合う。

 そこに映っていたのは、もはや悲劇のヒロインではない。

 獲物を狙い定めた、冷徹な狩人の目だった。


---


 その日の午後、私は神田かんだ恭介きょうすけが院長を務める『神田レディースクリニック』へ向かった。

 予約は入れていない。表向きの理由は、先日処方された鎮痛剤が合わないという相談だ。だが、真の目的は別にある。

 昨夜、貴之のスマホに届いた通知。

 『源造の爺さん、まだくたばらないのか?』

 あのメッセージの主である神田と、貴之の関係を確実な証拠として握る必要があった。


 クリニックは午後の診療が始まる前の休憩時間だった。

 受付には誰もいない。看護師たちは奥のスタッフルームで昼食をとっているのだろう。静まり返った待合室を通り抜け、私は院長室へと続く廊下を音もなく進んだ。


 貴之の車が駐車場にあるのは確認済みだ。

 彼は「外回り」と称して、頻繁にここへ来ている。治療の進捗を確認するためではない。悪友同士、密談を楽しむためだ。


 院長室のドアが、わずかに開いていた。

 中から、下卑た笑い声が漏れ聞こえてくる。


「――で、どうなんだよ? 昨日の採卵は」


 神田の声だ。粘着質で、神経に障る響き。


「ああ、三つ採れたらしいよ。まあ、どうせ受精しないがな」


 貴之の声。その軽薄な調子に、私の血液が沸騰しそうになるのを必死で抑える。

 私はバッグからボイスレコーダーを取り出し、録音ボタンを押した。赤いランプが点灯するのを確認し、ドアの隙間に耳を澄ませる。


「傑作だよな。種のないお前が、『頑張ろう』とか言って励ましてるんだろ? 美咲ちゃんも哀れなもんだ。必死に痛い思いをして、股を開いて……全部無駄骨だっていうのに」

「言うなよ。俺だって心苦しいんだぜ? 見てて痛々しいからな。……ま、笑いを堪えるのに必死で、顔が引きつりそうになるけど」


 ドッと二人が笑う声が響いた。

 私は壁に手をつき、身体を支えた。

 彼らにとって、私の苦しみは酒の肴でしかない。

 毎日のホルモン注射で腫れ上がった腕も、採卵のたびに削られる子宮の痛みも、生理が来るたびにトイレで声を殺して泣いた絶望も。

 すべてが、彼らのコメディだったのだ。


「しかし、源造の爺さんも頑丈だな。末期ガンで余命半年って言われてから、もう一年だろ? しぶといったらありゃしない」

「全くだ。あの老害がくたばれば、俺は晴れて権蔵ごんぐら家の当主様だ。美咲には適当に理由をつけて離婚を突きつけて、慰謝料代わりに端金でも渡して追い出せばいい」

「おいおい、俺への報酬も忘れるなよ? この三年間、適当な診断書を書いたり、培養液を調整したりして協力してやったんだからな」

「分かってるって。遺産が入れば、お前の借金くらい一発で消せる。あの女は、最高の金づるだよ」


 金づる。

 その単語が、私の心の中で決定的な引き金を引いた。


 そうか。

 私は人間ですらなかった。

 彼らにとって私は、養父・源造という巨大な財布の紐を緩めるための、ただのヅルに過ぎない。


 怒りを超えて、ある種の感嘆すら覚えた。

 ここまで腐りきっているのなら、もはや罪悪感を持つ必要はない。

 情けなど、一ミリも残す必要はないのだ。


 私は静かにレコーダーを止め、バッグにしまった。

 踵を返し、音を立てずにクリニックを出る。

 夏の日差しが眩しい。

 けれど、私の心は凍てつくように冷え切っていた。


 帰り道、私はスーパーマーケットに立ち寄った。

 今夜は、最高のご馳走を作ろう。

 貴之が大好きな、手の込んだ料理を。


 精肉売り場で、私は一番高い牛肉のブロックを手に取った。

 赤身に美しくサシが入った、最高級の肉塊。

 その重みが、私の掌にしっくりと馴染む。


「……養分になるのは、どっちかしら」


 私は肉塊を見つめ、小さく呟いた。


---


 広々としたシステムキッチンに立ち、私は包丁を握った。

 研ぎ澄まされた刃先が、キッチンの照明を受けて冷たく光る。


 今夜のメニューは、特製のビーフシチュー。

 野菜を切り、肉を切り、時間をかけて煮込む。

 「家庭の温かさ」を象徴するような料理。それを、裏切りの証拠を握った手で作る皮肉。


 まな板の上に、洗った人参を置く。

 鮮やかなオレンジ色が、貴之が着ていたネクタイの色に見える。


 トン。

 包丁を落とす。人参が輪切りになる。

 トン、トン、トン。

 リズミカルな音がキッチンに響く。

 

 ――君なら頑張れるよ。

 ザクッ。

 ――二人で頑張ろう。

 ザクッ。

 ――愛してるよ、美咲。

 ザクッ。


 貴之の言葉を思い出すたびに、包丁を振り下ろす手に力が入る。

 固い人参が、抵抗なく断ち切られていく。

 それはまるで、貴之の指を、手首を、嘘を吐くその舌を、切り刻んでいるような錯覚を覚えさせた。


 次は玉ねぎだ。

 皮を剥くと、白くてツルツルとした中身が現れる。

 貴之のうわべだけの清潔感を連想させる。

 包丁の切っ先を突き立て、二つに割る。

 ザクリ、という湿った音がした。

 

 目にしみる刺激臭が鼻を突く。涙が滲むが、それは悲しみの涙ではない。玉ねぎの成分に対する、単なる生理現象だ。

 私はもう、心では泣かない。


 そして、メインの肉塊。

 ドサリとまな板に乗せる。

 赤黒い肉の塊は、まるで剥き出しの心臓のようだ。


 私は包丁を構え、肉の繊維を見極める。

 筋を断ち切るように、刃を入れる。

 ググッ、と肉が裂ける感触が手に伝わる。

 脂身と赤身の境界を切り裂き、一口大に切り分ける。


 もし、これが貴之の肉体だったら。

 そんな妄想が脳裏をよぎる。

 私を騙し、嘲笑い、三年間の時間を奪った男の肉。

 こうして切り刻んで、煮込んで、ドロドロに溶かしてしまえば、私の恨みも昇華されるのだろうか。


 いや、だめだ。

 そんな単純な死を与えてはいけない。

 死は救済だ。苦しみからの解放だ。

 彼には、生き地獄を味わわせなければならない。

 全てを手に入れたと錯覚させ、天国まで持ち上げてから、梯子を外す。

 希望を与えてから、絶望で塗り潰す。


 鍋にバターを溶かし、肉を放り込む。

 ジュウウウッ、という激しい音と共に、肉が焼ける匂いが立ち上る。

 私は木べらで肉を転がしながら、炎を見つめた。

 

 その時、ふと古い記憶が蘇った。

 養父・権蔵ごんぐら源造げんぞうの言葉だ。


 私がまだ中学生だった頃。

 源造の書斎に呼ばれた私は、彼が狩猟で仕留めた鹿の剥製の前で、説教を受けた。


『美咲、この鹿がなぜ死んだか分かるか』

『……逃げ足が遅かったからですか?』

『違う。油断したからだ。「自分は安全だ」と思い込み、草をむのに夢中になっていた瞬間に、俺に撃たれた』


 源造は葉巻の煙を吐き出しながら、冷酷な瞳で私を見下ろした。

 その目は、実の父親を自殺に追い込んだ時と同じ目をしていた。


『この世はサバンナと同じだ。食うか、食われるか。それしかない』

『……』

『お前の父親がなぜ死んだか。それは奴が「善人」ぶっていたからだ。人を信じ、情けをかけ、脇が甘かったから、俺に食い殺された』

『父を悪く言わないで!』

『事実だ。いいか美咲、よく覚えておけ。奪われたくなければ、奪う側に回れ。他人の肉を食らってでも生き延びろ。それが我家の法度はっとだ』


 あの頃の私は、その言葉を嫌悪していた。

 人間はもっと尊いものだと信じていた。

 けれど今、皮肉にもその教えが、私の唯一の指針となっている。


 貴之も、神田も、私を「食い物」にしているつもりなのだ。

 安全な場所から、無防備な草食動物を眺めるように、私を嘲笑っている。

 ならば、私が肉食獣になるしかない。

 ヤツらが油断して草を食んでいる――私という金づるに群がっている間に、喉笛を食いちぎるのだ。


 鍋の中では、赤ワインとデミグラスソースが黒く濁った海のように煮えたぎっている。

 私はそこに、隠し味のビターチョコレートを一欠片、落とした。

 甘くて苦い、復讐の味。

 

 鍋の蓋を閉める。

 密閉された鍋の中で、圧力が高まっていく。

 私の心の中に閉じ込めた感情のように。


---


「ただいま。いい匂いがするな」


 夜、貴之が上機嫌で帰宅した。

 私はエプロン姿で出迎える。


「おかえりなさい。今日は貴之さんの好きなビーフシチューにしたの」

「おっ、すごいな。何かいいことでもあったのか?」

「ううん。ただ、昨日迷惑かけちゃったから、そのお詫びにと思って」

「そんな、気にしなくていいのに。美咲は真面目だなぁ」


 貴之は無邪気に笑い、食卓に着いた。

 湯気を立てるシチューを前に、彼は子供のように目を輝かせる。

 

 向かい合って座り、私もスプーンを手に取った。

 貴之が肉を口に運び、咀嚼する。


「うん、うまい! 肉がとろとろだ。やっぱり美咲の料理は最高だよ」

「ふふ、よかった。たくさん食べてね。……栄養をつけてもらわないと」


 私は自分の分のシチューを口に運んだ。

 濃厚なソースの味が広がる。肉は舌の上で崩れるほど柔らかい。

 美味しい。

 夫への殺意をスパイスにした料理が、これほど美味しいとは知らなかった。


 貴之は私の視線に気づかず、夢中で食べている。

 その無防備な首筋。緩んだ表情。

 

 私は食べながら、頭の中で計画のピースを組み立てていた。

 復讐には、絶対的な武器が必要だ。

 貴之が最も欲しがり、そして最も恐れるもの。

 

 それは「遺産と子供」だ。

 彼を遺産が手に入れる直前まで泳がせ、同時に、彼の嘘(パイプカット)を暴くトリガーとなる存在。


 だが、当然ながら彼との間に子供はできない。

 なら、どう切る?どう煮る?どう溶かす?


 …ひらめいた。


 自分でも驚くほど冷静に、高速に頭が回っている。

 体中の血液が脳へ行き、計算速度を速めたのだろう。


 この屋敷、莫大な遺産、そして権蔵家の全て。

 それらを継ぐのは、貴之でもなければ、神田でもない。

 私の復讐心が生み出す、美しき怪物だ。


「……美咲? どうした、手が止まってるぞ」


 貴之の声で、私は我に返った。

 彼は心配そうに私を覗き込んでいる。


「あ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていて」

「不妊治療のことか? 大丈夫だよ、そんなに思い詰めるな」

「ええ……そうね」


 私は艶然と微笑んだ。

 今までで一番、美しい笑顔を作れた自信がある。


「私、決めたの。もう迷わないわ」

「え?」

「次は、絶対に妊娠してみせる。貴之さんの……いえ、私たちの『希望』を、必ずこのお腹に宿してみせるわ」


 貴之は「お、おお、頼もしいな」と少し気圧されたように頷いた。

 その瞳の奥に、「また言ってるよ」という嘲りの色がちらつくのを、私は見逃さない。


 笑っていればいい。今のうちは。

 私は残りのシチューを飲み下した。

 胃の中で、温かい肉が重く沈んでいく。


 この計画は女としての尊厳を捨てる行為かもしれない。

 けれど、この地獄から這い上がり、ヤツらを地獄へ突き落とすためなら、私は悪魔に魂を売ることさえ厭わない。


 食べ終えた皿の上で、ソースの痕跡が黒い染みのように残っていた。

 私はナプキンで口元を拭い、静かに、しかし力強く心に誓った。


 ――見ていなさい。

 私の体が、あなたたちの墓標になる。


 食後のコーヒーを淹れるために席を立った私の背後で、貴之が満足げなげっぷをした。

 その無様な音が、私の中のカウントダウンを開始させた。


 復讐のレシピは書き上げた。

 あとは、極上の猛毒を仕込むだけだ。

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