第8話「石ころの行方」
---
### エピソード・エピローグ「石ころの行方」
交番での号泣の後、彼女は富樫に付き添われ、児童相談所が連携する女性支援センターにひとまず保護されることになった。
新しい土地での孤立、DVのトラウマ、そして未来への不安。それらが積み重なり、彼女は心をすり減らしていたのだ。
俺は、器物損壊と公務執行妨害(警官たちの前で彼女を叩いたため)の疑いで、再び富樫の世話になることになった。
**【数週間後・家庭裁判所前の廊下】**
審判は、意外なほどあっさりと終わった。
富樫と、彼女が書いてくれた「彼がいなければ私は死んでいた」という嘆願書のおかげで、俺の処分は前回と同じ保護観察の継続となった。自転車の弁償代は、親父が頭を下げて分割で払うことになった。
「…行くのか」
裁判所の前で、富樫が空を見上げながら言った。隣には、少し痩せたけれど、どこか吹っ切れたような顔をした彼女が立っている。今日、証言のために来てくれていた。
「はい。今度は、もっとしっかりしたサポートを受けられる施設に移ります。そこで、ちゃんと自分の足で立てるように、頑張ってみようと思います」
彼女はそう言って、俺の方を向いた。
「…ごめんなさい。また、あなたを巻き込んでしまって」
「別に…」
俺は、ポケットに手を突っ込み、そっぽを向いて答える。
「あの…この間は、ありがとう。あなたが怒ってくれなかったら、私、まだ死ぬことばかり考えてたと思う」
彼女は、深々と頭を下げた。
「…もう、死ぬとか言うなよ」
「うん。言わない」
彼女は顔を上げ、少しだけ微笑んだ。それは、俺が初めて見る、涙に濡れていない笑顔だった。
心臓が、ドクンと音を立てる。
富樫が、わざとらしく咳払いをした。
「さて、お別れだな。次に会うのは…まあ、ない方がお互いのためだろう」
その言葉に、俺たちの間に沈黙が落ちる。
彼女は、遠くの施設へ行く。俺は、この街で生きていく。もう、会うことはない。
わかっている。これが、一番いい形なんだ。
彼女が、富樫に一礼し、背を向けて歩き出す。
これで、終わりだ。
あの夜のキスも、交差点の叫び声も、全部思い出になる。
「……」
俺は、ただその背中を見送ることしかできなかった。
だが、数歩進んだところで、彼女がふと立ち止まり、振り返った。
「あのさ!」
遠くから、彼女の声が飛んでくる。
「私、あなたの名前、まだ聞いてなかった!」
そうだ。俺は彼女の名前を知っているのに、彼女は俺の名前を知らない。
俺は、ポケットから手を抜き、腹の底から叫んだ。自分の名前を。今までで一番、大きな声で。
彼女は、俺の名前を一度だけ、唇の形で繰り返した。そして、満面の笑みで、大きく手を振った。
「忘れない! 絶対に忘れないからね!」
そう言って、今度こそ彼女は雑踏の中へと消えていった。
俺は、その姿が見えなくなるまで、ずっとそこに立っていた。
隣で、富樫がニヤニヤしながら俺の肩を叩く。
「フッ…青い春だな、まったく」
「うるせえよ、おっさん」
悪態をつきながらも、俺の口元は、自分でも気づかないうちに緩んでいた。
忘れない、と言ってくれた。
それだけで十分だった。
いつか、どこかで再会する日。その時、俺はどんな男になっているだろうか。胸を張って、もう一度、自分の名前を名乗れるだろうか。
空は、どこまでも青く澄み渡っていた。
俺が投げた石ころは、長い旅路の果てに、ようやく静かな水面に落ちたのかもしれない。その波紋がどこへ届くのかは、まだ誰にもわからない。
俺は、未来に向かって、ゆっくりと歩き出した。
彼女がくれた「忘れない」という言葉を、道しるべにして。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます