第12話 消失
退院の日、秋の陽射しは容赦なく明るかった。
11月中旬。空は抜けるように青く、風は冷たく澄んでいた。世界は何事もなかったかのように美しく、それが逆に残酷に感じられた。
病院の玄関前に呼んだタクシーに、彼を乗せる。松葉杖を抱えた彼の動きは、かつての流れるような身のこなしとはまるで別物だった。一歩ごとに躊躇があり、痛みを堪える表情が浮かぶ。体重をかけるたびに、顔が歪む。運転手が心配そうに声をかけるが、彼は小さく首を振るだけだった。
私は助手席に座り、バックミラー越しに彼を見た。彼は窓の外を見ている。その横顔には、何の感情も浮かんでいない。
「大台には、戻らないの?」
助手席から後部座席の彼を振り返ると、彼は窓の外を見たまま答えた。
「実家には、もう帰れない」
その声は、淡々としていた。感情を削ぎ落としたような、平坦な声。
「製茶会社も、辞めた。身体がこんなだから、仕事にならない」
彼は3ヶ月前まで、大台の実家が経営する製茶会社で事務の仕事をしていた。だが、もうそれももうまともにできない。
彼の両親からは、何度も連絡があった。入院中も、退院後も。息子を引き取りたい、面倒を見たいと。母親は泣きながら電話をかけてきた。父親は何度も病院まで来ようとした。だが彼は、それを拒んだ。理由は言わなかったが、私には分かっていた。
彼は、私の傍を離れられない。
依存は、もう彼の骨の髄まで染み込んでいた。血液に溶け込み、細胞の一つひとつに浸透していた。
「だから、しばらく燈の家に置いてほしい。迷惑かけるけど」
その言葉には、申し訳なさと、それ以上に強い懇願が滲んでいた。声が震えている。私が拒否することを、心底恐れている。
「いいよ」
私は即座に答えた。
「というか、新しく部屋を借りたの。二人で住める、広めのところ」
彼の目が、わずかに見開かれた。驚きと、安堵と、困惑が混ざり合った表情。
「え……でも、そんな」
「お礼だよ」
私は微笑んだ。バックミラー越しに、彼に笑顔を向ける。
「鈴都が、あそこまで輝く姿を見せてくれたから」
世界陸上という舞台で、彼が燃え尽きる瞬間を見届けられたこと。その対価としては、決して高くはなかった。むしろ安すぎるくらいだ。あの瞬間の美しさは、金銭では測れない。金銭で測るのもおこがましい。
タクシーは、大阪市内の閑静な住宅街へと向かった。
最寄り駅から徒歩15分。桜並木が続く、静かな通り。2LDKのマンションの2階。私1人で住むにはいささか広すぎたが、2人なら十分な広さだった。家賃は月10万円。私の給料なら、十分に払える額だ。
「ここ」
玄関の鍵を開け、彼を中に招き入れる。
彼は松葉杖をつきながら、ゆっくりと中に入った。動きの一つひとつが慎重で、痛々しい。リビングは日当たりがよく、窓からは小さな公園が見えた。滑り台とブランコがあり、子どもたちが遊んでいる。キッチンは使いやすそうな造りで、浴室も広い。すべてを、私が選んだ。彼のために。彼を囲うために。
「こっちが、鈴都の部屋」
奥の部屋のドアを開けると、5畳ほどの空間が広がっていた。ベッド、机、クローゼット。必要最低限の家具が、既に配置されていた。すべて新品。彼のために揃えた。
「ちゃんと、一人の部屋があるから」
私がそう言うと、彼は困惑した表情を浮かべた。
「燈……これ、申し訳ない」
「何が?」
「こんな、ちゃんとした部屋まで用意してもらって。俺、リビングの隅でも十分だから」
彼の声には、明らかな焦りがあった。呼吸が浅い。瞳孔が開いている。
「別に、気を使わなくていいよ」
「でも……」
彼の視線が泳ぐ。落ち着きなく、部屋の中を見回す。
その目を見て、私は理解した。
彼が恐れているのは、申し訳なさではない。
私から離れることへの、恐怖だ。
自分の部屋を持つということは、物理的に私と距離ができるということ。壁1枚。ドア1枚。それだけの距離が、彼には耐えられないのだ。壁1枚を隔てただけで、彼は不安に押し潰されそうになる。一人になることが、怖い。私の視界から外れることが、怖い。
その心情を察した瞬間、私の胸の奥で、何かがうずいた。
ジリジリと、焼けるような感覚。
甘く、暗く、熱い感覚。
これは、何だ。
虐めたい。
そう思った。
彼の不安を、もっと煽りたい。
彼が懇願する様を、もっと見たい。
依存しきった目で、私を見上げる姿を、もっと楽しみたい。
彼が、私なしでは生きられないと確信する瞬間を、何度も味わいたい。
「そう? じゃあ、しばらくは私の部屋で一緒に寝る?」
私は、わざと軽い口調で言った。
「その方が、安心できるでしょ」
彼の顔が、明らかに安堵に染まる。肩の力が抜け、呼吸が深くなる。
「……うん。そうしてもらえると、助かる」
その素直な反応が、私の中の何かを、さらに刺激した。
これだ。
この瞬間だ。
彼が、完全に私に委ねている。
その事実が、私に快感を与えていた。
それから数週間。
私たちの生活は、奇妙な均衡を保っていた。
平日、私は朝7時に家を出て、夜7時に帰宅する。大阪本社での仕事は相変わらず忙しかったが、金曜日に大台へ通う必要がなくなった分、生活は楽になった。残業も減った。週末も、家で過ごすことが増えた。
彼は、家で私の帰りを待っていた。
右足はまだ完全には治っておらず、松葉杖なしでは歩けなかった。医師からは、最低でもあと1年はリハビリが必要だと言われていた。週2回、整形外科に通い、理学療法士の指導を受ける。それでも競技復帰の見込みはほぼゼロで、日常生活ができるようになれば御の字だという診断だった。
できることは限られていた。
簡単な掃除。掃除機をかけること。窓を拭くこと。
洗濯物を畳むこと。丁寧に、几帳面に。
食材を切って、簡単な料理の下ごしらえをすること。
それが、彼の一日だった。
かつて、一日に何十kmも走っていた男。
月間走行距離1000kmを超え、週6日、1日2回の練習をこなしていた男。
福岡の空の下で歓声を浴び、世界陸上の舞台に立った男。
その男が今、松葉杖をつきながら、私の帰りを待つだけの存在になっていた。まさに"忠犬"そのものだった。飼い主の帰りを、ただひたすら待つ犬。
ある夜、私が帰宅すると、玄関で彼が出迎えた。
「おかえり」
その声は、明るかった。
でも、その明るさは作られたもののように聞こえた。必死に、普通を装っている。私を喜ばせようと、無理に笑っている。
「ただいま。今日は何作ってくれたの?」
「肉じゃが。燈の好きなやつ」
リビングのテーブルには、丁寧に盛り付けられた料理が並んでいた。味噌汁、サラダ、ご飯。すべてが、几帳面に準備されていた。箸の位置も、茶碗の位置も、完璧に揃っている。
「ありがとう」
私は席に着き、箸を取った。
彼も、向かい側に座る。松葉杖を壁に立てかけて、ゆっくりと。
食事をしながら、私は彼の様子を観察した。
表情は穏やかだが、目に生気がない。
会話をしても、反応は薄い。
「今日、会社で面白いことがあってね」
「うん」
「新しいプロジェクトが始まるかもしれない」
「そうなんだ」
返事は、機械的だった。
まるで、魂の抜けた人形のようだった。
かつて彼には、居場所が2つあった。
1つ目は陸上。
2つ目は私。
でも今、陸上は失われた。
身体的な理由だけではない。精神的にも、彼は走ることを諦めていた。あの病室で、私が「もう十分だよ」と言った瞬間、彼の中で何かが完全に折れた。走りたいという欲求そのものが、根こそぎ奪われてしまった。
陸上という、彼にとって私以外の唯一の居場所。
自分を証明できる場所。
自分が自分であることを確認できる場所。
自分の価値を、世界に示せる場所。
それが、もう存在しない。
残されたのは、私だけ。
彼の世界は、私という一点に収束していた。
それは、私が望んでいたことだった。
彼を独占すること。
彼のすべてを、私だけのものにすること。
その目的は、完全に達成された。
でも。
何かが、欠けていた。
満足感はある。
彼が私だけを見ている事実に、何物にも代えがたいような確かな充足感がある。
でも、同時に。
違和感が、胸の奥に引っかかっていた。
それが何なのか、まだ言語化できなかった。
ただ、漠然と。
これは、私が求めていたものなのだろうか。
そんな疑問が、心の底に沈殿していた。
ある日の夕食後。
私が食器を片付けていると、彼がテーブルに何かを置いた。
水滴が落ちる音。
食器を拭く手が、止まる。
「燈、これ」
振り返ると、A4サイズのファイルが置かれていた。
見覚えがあった。
いや、見覚えどころではない。
「何?」
私は、わざと平静を装って尋ねた。
「燈の部屋の引き出しにあった。片付けてる時に、見つけた」
その瞬間、私の心臓が跳ねた。
血の気が引く。手のひらに、冷たい汗が滲む。
それは、私が作成した計画書だった。
『世界陸上出場計画書』と表紙に記されたファイル。中には、詳細なトレーニングスケジュール、栄養管理表、そして。
彼を壊すための、緻密な計画が記されていた。
過剰な練習量。週間走行距離250km。月間1000km超。
不十分な休養日。週1日のみ。本来は週2日必要。
意図的に削られたテーパリング期間。福岡国際マラソン前、本来2週間必要なところを3日に短縮。
すべてが、彼の身体を限界まで追い込み、最終的に破壊するために設計されていた。
各項目には、私の手書きのメモが添えられている。
「ここで疲労を蓄積させる」
「回復させないことが重要」
「福岡で好記録を出させないために」
そして、最後のページには。
「世界陸上で崩壊させる」
その文字が、赤いペンで大きく書かれていた。
「……これ、読んだの?」
私の声は、震えていた。
「うん」
彼は、淡々と答えた。
「全部、読んだ」
沈黙が、重く横たわった。
時計の秒針の音が、やけに大きく聞こえる。
私は、彼の反応を待った。
激怒されるだろうか。
罵倒されるだろうか。
それとも、憎悪の目で見られるだろうか。
手を上げられるだろうか。
警察に通報されるだろうか。
でも、彼の表情は、意外なほど穏やかだった。
怒りも、悲しみも、憎しみも。
何も浮かんでいない。
「なるほどな、と思った」
彼は、静かに語り始めた。
「あの1年半、確かに無理があった。いくら世界陸上を目指すためとはいえ、練習量が異常だった。休養も足りなかった。身体が悲鳴を上げてるのに、燈は『もう少し』って言い続けた」
彼の声には、感情の波がなかった。
「これを最初読んだとき、神様にでもなったつもりか、って思った」
その言葉に、私の背筋が凍る。
「他人の人生を、こんな風に操作して。計画通りに壊して。それを楽しんでたのか、って」
彼は、ファイルを見つめた。その目には、何の感情もない。
「怒りが込み上げた。でも、すぐに冷めた」
彼の目が、私を見た。
「だって、燈がいなかったら、俺は何もできなかった」
その言葉は、静かだった。
「高校の時、燈が隣で走ってくれなかったら、俺は陸上を続けられなかった。毎日、一人で走るのがどれだけ辛かったか。燈がいたから、続けられた。大学の時、燈が支えてくれなかったら、俺は箱根を走れなかった。補欠で腐りかけてた俺を、燈が支えてくれた」
彼は、淡々と続ける。
「実業団に入れなかった俺に、燈は金を出してくれた。遠征費も、トレーニング用品も、専門家への相談料も。栄養士の指導料も、整体師の施術料も。全部、燈が払ってくれた」
その事実を、一つひとつ数え上げるように。
「総額で、いくらになる?500万?1000万?もっとかな?」
ハハと軽く笑う彼。私は答えなかった。正確には1500万円ほどだ。
「そして何より、燈は俺の精神的な支柱だった。燈がいたから、俺は走り続けられた。燈の言葉があったから、俺は信じられた。燈の存在があったから、俺は諦めなかった」
彼の声が、わずかに震えた。
「だから、結局最後に燈に壊されたことなんて、どうでもいい」
その言葉を聞いた瞬間、私の胸が締め付けられた。
「俺は、燈に生かされてた。最初から最後まで、ずっと。燈の手のひらの上で、踊らされてた」
彼は、自嘲するように笑った。その笑みは、痛々しかった。
「だから、燈が望んだ結末になっただけだ」
私は、何も言えなかった。
彼の言葉は、すべて事実だった。
否定できる要素が、何一つなかった。
彼は、立ち上がった。
松葉杖をつきながら、ゆっくりと。その動きには、もう走者の面影はなかった。
「でも、一つだけ言わせてほしい」
彼の目が、私を見た。
その目には、感情がなかった。
怒りも、悲しみも、憎しみも。
何もなかった。
空っぽだった。
「燈が追い求めてた俺は、もういないよ」
その言葉は、静かに、しかし確実に、私の胸に突き刺さった。
鋭い刃物が、心臓に入り込むような感覚。
「陸上を走ってた俺。目標に向かって邁進してた俺。あの目の光は、もう消えた」
彼は、自分の胸を指差した。
「ここには、何も残ってない」
その声には、諦念があった。いままで軽く笑みを浮かべていた彼から、それが消える。
「燈が火を消したから」
私は、息を詰めた。
「陸上のためにすべてを捧げてきた人間から、陸上への情熱を奪ったら、何が残る?」
彼は、自分に問いかけるように言った。
「何もない。空っぽだ。抜け殻だ」
その言葉を聞いた瞬間、私は理解した。
これが、欠けていたものの正体だった。
彼を独占することには成功した。
でも、独占した相手は、もう「彼」ではなかった。
私が惹かれた、あの眼の光。
必死に走る姿。
限界を超えようとする意志。
夢を追う情熱。
そのすべてが、失われていた。
私は、彼を殺してしまった。
物理的にではなく、精神的に。
彼という人間を形作っていた核心を、私の手で破壊してしまった。
手に入れた瞬間、それは既に別のものになっていた。
それから数日後。
私が仕事から帰ると、彼はいつものようにリビングで待っていた。
でも、その日は様子が違った。
11月下旬。外は冷え込んでいた。彼は長袖のシャツを着ている。その袖口から覗く手首に、白い包帯が巻かれていた。
「それ……」
私は、彼の手首を指差した。
彼は、一瞬視線を逸らした。
「……ちょっと、切っただけ」
「見せて」
私は、彼の腕を掴んだ。
抵抗する力もなく、彼の手首が露わになる。
包帯をそっと外すと、その下には、複数の浅い傷があった。5本、6本。平行に並んでいる。
リストカットの跡だった。
刃物で、自分の皮膚を切った跡。
「何やってるの」
私の声は、震えていた。
「こんなこと、してどうするの」
「別に」
彼は、淡々と答えた。
「死ぬつもりはない。ただ、切りたかっただけ」
「切りたかった、って……」
「痛みを感じたかったんだ」
彼は、自分の手首を見つめた。
「何も感じなくなってるから。痛みでも感じないと、自分が生きてるって実感できない」
その言葉に、私は言葉を失った。
彼は、生きている実感を失っていた。
感情が麻痺し、感覚が鈍磨し、すべてが遠くなっていた。
だから、痛みで確認する。
自分がまだ生きていることを。
「やめて」
私は、必死に言った。
「こんなこと、二度としないで」
「なんで?」
彼は、私を見た。
その目には、あの夜と同じような生気のない笑みと、皮肉が宿っていた。
「燈に、そんなこと言われる筋合いはないはずだよ」
その言葉は、静かだったが、鋭かった。
私の胸に、深く突き刺さる。
「俺の身体を壊したのは、燈じゃん。俺の心を壊したのも、燈でしょ」
私は、何も言い返せなかった。
すべて、事実だった。
「だったら、俺が自分の身体をどうしようと、燈には関係ないと思うけどな」
彼は、そう言った。
そして、松葉杖をつきながら、自分の部屋へと向かった。
ドアが閉まる音が、やけに大きく響いた。
バタン。
その音が、私と彼の間に壁を作る。
私は、リビングで一人、立ち尽くしていた。
彼の言葉が、何度も頭の中で反響する。
燈に、言われる筋合いはない。
その通りだった。
私が、彼をここまで追い込んだ。
私が、彼から何もかも奪った。
私が、彼を殺した。
自分の身勝手な思いで。
独占したいという、狂おしいまでの欲望で。
私は、ソファに崩れ落ちた。
手が震えている。
呼吸が浅い。
涙が、溢れそうになる。
でも、泣く資格はない。
加害者に、涙を流す権利はない。
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