第5話 第二の挫折
1月3日。
私はアパートの部屋で、テレビの前に座っていた。
小さな六畳一間の部屋。窓の外には、大阪の街並みが広がっている。冬の冷たい空気が、窓ガラスを曇らせている。
テレビ画面には、箱根駅伝の中継が映し出されていた。
復路のスタート。芦ノ湖の湖畔。青い水面に、冬の陽光が反射して輝いている。背景には、雪を頂いた山々が連なる。
画面が切り替わり、各大学のチームが映される。
往路優勝を飾った大学。選手たちは自信に満ちた表情で、スタートラインに並んでいる。その後ろには、2位、3位と往路で好成績を残したチームが移る。どれも強豪校ばかりであった。
そして、画面がさらに切り替わる。
下位のチームが映される。昭徳大学の選手たちが、カメラに抜かれた。
深緑のユニフォーム。
監督が選手たちに声をかけている。選手たちは緊張した表情で頷いている。
だが、その中に、彼の姿はなかった。
画面の右端に、復路を走るメンバーの一覧が表示される。
6区。7区。8区。9区。10区。
各区間の選手の名前と、出身校が表示される。
だが、大西鈴都の名前は、どこにもなかった。
私の心臓が、大きく跳ねた。
カメラが再び昭徳大学のチームを映す。
昨日走ったであろう選手たちが、ベンチコートを着ている。そして、その後ろに、ジャージを着た選手たちが数十人並んでいる。メンバーに入れなかった選手たちだ。
さらにその後ろ。
補欠の選手たちが、ユニフォームを着て立っていた。
その中に、彼がいた。
画面が切り替わり、補欠メンバーの一覧が表示される。
『1年 大西鈴都 奥伊勢』
その文字を見た瞬間、私の呼吸が止まった。
補欠。
往路でも復路でも、レギュラーに選ばれなかった。
予選会を突破し、本戦に出場できる権利を得た。でも、実際に走ることはできなかった。
カメラが再び彼をちらりと映した。
テレビ画面越しでも、その表情は読み取れた。
作り笑顔を浮かべながら、チームメイトを応援している。声援を送り、手を叩いている。でも、その目には深い失望が宿っている。拳を握りしめ、唇を噛みしめている。
彼の夢が、目の前で砕け散っている。
「花の2区を走る」という夢。
そして、 「箱根を走る」という夢。
それが、叶わなかった。
その事実を知った瞬間、私の心臓が激しく跳ねた。
来た。
ついに、彼が第二の挫折を味わう瞬間が来た。
予選会を突破し、本戦に出場できると決まった時の彼の喜び。「箱根を走る」という夢が現実になると信じていた彼の希望。
それが、今、目の前で砕け散っている。
私はテレビ画面を食い入るように見つめた。
心臓が激しく脈打っている。呼吸が速くなる。手が微かに震えている。
これは悲しみなのか。
それとも、期待なのか。
自分でも、分からなかった。
いや、分かっていた。
これは、期待だ。
彼が完全に打ちのめされる瞬間を、私は待っていた。彼が誰かに助けを求める瞬間を、待っていた。そして、その誰かが私である瞬間を、待っていた。
いつの間にかスタートの号砲が鳴ってから幾分かの時が過ぎていた
昭徳大学の選手が懸命に箱根の山を下っているが、順位は変わらない。トップとの差は、20分以上。
そして7区、8区と襷が繋がれていく。
昭徳大学は18位のまま。前との差は縮まらず、後ろからも追い上げられない。中途半端な順位で、淡々とレースが進んでいく。
そして、10区。最終区間。
昭徳大学の選手が、大手町のゴールに向かって走る。
カメラが、昭徳大学のチームを映す。
監督が腕を組んで、真剣な表情で画面を見つめている。選手たちが声援を送っている。その中には彼の姿も見受けられた。
その走る姿を、彼はどんな思いで見ているだろう。
「あそこを走るはずだった」
「自分が走るべきだった」
「でも、走れなかった」
そんな思いが、彼の心を蝕んでいるに違いない。
中継が終わっても、彼から連絡は来なかった。
1時間。2時間。3時間。
沈黙が続く。
その沈黙が、私に何かを語っていた。彼は今、深い絶望の中にいる。誰とも話したくない。誰にも会いたくない。ただ一人で、この挫折を噛みしめている。
私はアパートの部屋で、じっと携帯を見つめた。連絡をすべきか。それとも、もう少し待つべきか。
いや、待つべきだ。
今連絡をすれば、彼は気を使って「大丈夫」と答えるかもしれない。でも、それでは意味がない。彼が完全に打ちのめされ、誰かに助けを求めるまで待つ。そして、その誰かが私でなければならない。
夕方になり、外が暗くなってきた。
大阪の街に、ネオンのギラギラとした嫌な明かりが灯り始める。この安アパートの窓から見える景色は、いつもと変わらない。でも、私の心はどこか落ち着かなかった。
彼は今、どこで何をしているだろう。
寮の部屋で一人、布団をかぶって泣いているのか。それとも、外を走って気を紛らわせようとしているのか。
夜になって、ようやく電話がかかってきた。
午後10時を過ぎた頃。私が机に向かって、スポーツ科学の論文を読んでいた時、携帯が震えた。画面には彼の名前が表示されている。
私は深呼吸をしてから、電話に出た。
「もしもし」
「燈……」
声が震えていた。いや、震えているというより、かすれていた。長時間泣いていたのだろう。高校時代、インターハイで最下位になった時以上に、打ちひしがれた声だった。
「走れなかった」
その一言が、すべてを物語っていた。
電話口から聞こえる彼の呼吸は乱れている。何度も息を吸い、吐く。その呼吸のリズムが、彼の動揺を物語っている。
「箱根の舞台に、立てなかった」
「……そう」
私は静かに答えた。声のトーンを落とし、共感を示す。でも、心の中では、奇妙な高揚感が渦巻いている。
待っていた。この瞬間を。
彼が完全に打ちのめされる瞬間を。彼が誰かに助けを求める瞬間を。そして、その誰かが私である瞬間を。
「練習は誰よりもやったつもりだった。朝も夜も走って、食事も全部管理して。でも、足りなかった」
彼の声が、掠れていく。呼吸が乱れている。泣いているのか、苦しんでいるのか。おそらく、その両方だろう。
「監督からは『まだ箱根には早い』って言われた。『来年頑張れ』って。でも、来年なんて今は考えられない……」
言葉が途切れる。
「俺には、才能がないのかもしれない……」
その言葉に、私の心が激しく疼いた。
これだ。
これが、私が待っていた言葉だ。
彼が自分の限界を認める言葉。彼が自分の才能を疑う言葉。そして、その疑いが、やがて絶望へと変わっていく。
「高校の時からずっと思ってた。どれだけ頑張っても、追いつけない奴らがいる。悔しいけど天才はいる。努力だけじゃ、どうにもならない壁がある。俺は、結局……」
彼の声が、また途切れる。嗚咽が漏れる。20歳も近い男が、電話口で声を上げて泣いている。
私はじっと耳を傾けた。彼の苦しみを、一言も聞き逃さないように。
「鈴都」
私は彼の言葉を遮った。声は優しく、でも確信に満ちている。ここで彼を救い上げる。でも、完全には救わない。希望を与えるが、同時に依存も植え付ける。
「諦めないでほしい。鈴都なら絶対できる」
「でも……」
「高校の時もそうだったでしょ。インターハイで最下位になっても、鈴都は諦めなかった。その姿勢があるから、昭徳大学から声がかかったんだよ」
彼の呼吸が、少し落ち着いてきた。
私の言葉が、彼を救っている。
私だけが、彼を救える。
この確信が、私の心を満たした。
「でも、才能が……」
「才能なんて関係ない」
私は断言した。
「鈴都には、誰にも負けない努力がある。そして、私がいる。私が鈴都を支える。だから、大丈夫」
「燈……」
彼の声に、かすかな希望の光が灯った。
「大丈夫。私、信じてるから。鈴都は必ず箱根の舞台に立てる。来年、絶対に」
「本当に?」
「本当」
私は力強く答えた。
「私が保証する。鈴都なら、必ずできる」
「ありがとう、燈」
彼の声に、少しだけ力が戻った。
「燈がいてくれて、本当に良かった。燈の声を聞けて、少し元気が出た」
その言葉が、私の心を満たした。
良い流れだ。
彼は私を求め始めている。傷ついた心を、私にだけ見せている。誰にも言えない弱音を、私にだけ吐露している。
でも、まだ足りない。
「燈、会えないかな」
電話口から、切実な声が聞こえてきた。
「春休み、関西に行ってもいい? 燈に会いたい。燈と話したい。燈に、直接会って話を聞いてほしい」
その申し出に、私は少し考えた。
会いたい。彼の弱った姿を、この目で見たい。その傷ついた表情を、間近で観察したい。打ちのめされた彼を、この手で触れたい。
でも、それでは駄目だ。
今会ってはいけない。まだ早い。彼の渇望を、もっと高めなければならない。会えないことで、彼は私をさらに求めるようになる。距離が、逆説的に依存を深める。
「ごめん、春休みは忙しくて」
嘘だった。
春休みの予定など、ほとんどなかった。アルバイトは週に数回。実験も、そこまで詰まっていない。時間を作ろうと思えば、いくらでも作れた。
「アルバイトも忙しいし、実験の予定も入ってる。論文も読まないといけないし、レポートの提出もある。本当にごめん」
言い訳を重ねる。その一つ一つが、彼の心を深く刺していく。
「でも、電話ならいつでもできるから。辛くなったら、いつでも連絡して」
「……そっか」
彼の声に、明らかな落胆が滲んだ。
その落胆が、私を満たした。
彼は今、深く傷ついている。私に会いたいと切実に願っている。でも、その願いは叶わない。この矛盾が、彼の心に私という存在を深く刻み込んでいく。
「でも、電話ならいつでもできるから」
私は繰り返した。優しく、でも確固として。
「鈴都が辛い時は、私がいる。いつでも話を聞くから。だから、一人で抱え込まないで」
「うん……ありがとう」
彼の声は、まだ弱々しかった。でも、そこにはかすかな安心が宿っていた。
電話を切った後、自然に笑みがこぼれていた。
順調だ。
彼の心に、私という存在が深く根を張り始めている。距離が、逆説的に私たちを結びつけている。彼は今、私なしでは生きていけないと、少しずつ思い始めている。
まだ完全ではない。でも、確実に近づいている。
彼の光を、私のものにする日が。
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