隆景と毛利と周りの人々
リュウ
乃美宗勝 —— 君の記憶を留める、一種の水(1)
季節が巡り、気温が下がると、ベッドから這い出るのが億劫になった。 乃美宗勝。微かにウェーブのかかった黒髪を伸ばしている。上司は彼の風貌について何度か婉曲に不満を示したが、本人はどこ吹く風といった様子だ。。彼は東京の広告デザイン会社に勤めており、週末には近所のバーでキーボードを弾くアルバイトもしている 。版画も嗜む。大学時代に夢中になったが、卒業後の忙しさに取り紛れて疎遠になり、長い間手をつけていない 。古い趣味を再開したいという燻る想いと、なかなか踏ん切りがつかない複雑な心境を抱えている 。
その朝、彼は出かけた。前夜の雨の名残で、朝の空はただ灰色がかった、はっきりしない明るさを放っていた 。寒さも相まって、宗勝は携帯のアラーム音を無意識に遮断してしまった 。体内時計が全力で彼を揺り起こした時には、もう一分の猶予もなかった 。慌ててクローゼットから服を二枚引っ張り出して着替え、手早く身支度を済ませて玄関へ向かった 。 アパートの玄関先には、人の背丈ほどもある姿見があった 。慌てて靴を履き替えながら鏡を一瞥すると、宗勝はぎょっとしてしまった 。鏡の中に映ったのは、どう見ても不釣り合いな服を着た自分の姿だった 。色は鮮やかすぎて、今の自分の顔には馴染まず、あまりにも不似合いで、とても人前に出られたものではなかった 。宗勝はアウトドアシューズを履いたまま自室に引き返し、別の服を引っ張り出した。普遍的で無難な黒、カジュアルなスタイル――それでようやく出発できた 。
この行きつ戻りつが、普段の通勤の流れを無残に狂わせた 。遅刻は目に見えていたが、それ以上に宗勝が気にかかることがあった 。会社へ車を走らせる間、彼は考え続けていた――あの服は、一体いつから、あるいはどうやって、自分に似合わなくなってしまったのだろうか 。
思い返せば、あの服を買ったのは三、四年前、まだ大学生の頃だった 。彼はネットショッピングは考えず、必ず店で納得するまで試着してから買う主義だった 。昨年までは確かによく似合い、体にも馴染んで着心地も良かった 。服自体に落ち度はない 。
誤った答えを排除すれば、結論は明白だった――自分自身が老い始めているのだ 。生まれて初めて、宗勝は「老化」を自覚した 。二十三歳。自身の老いを語るには少々早すぎるかもしれない 。しかしデザイナーとして、彼は自分の感性的な認識には絶対の自信を持っている 。老いの自覚があるなら、必ずそれに対応する現象が存在するはずだ 。
しかし時間にどうしてこれほど鮮明な断絶が生じたのか 。会社へ向かう二十分間、考え続けても答えは出なかった 。最後に行き着いたのは、ありがちな結論だった――毎日決まったように起床し、通勤し、三食をとり、休息する 。その過程で彼の精神は、鉛筆の芯のように摩耗していった 。ある日、木軸の部分が紙面に触れ、不快な感触が走る。それが、老化が感知された瞬間なのだろう 。
その日の午後、思いがけないことが起きた。電話が鳴り、画面には「父」の表示――乃美賢勝だった 。宗勝は階段口に逃げ込んで電話に出た 。何かあったのか?声よりも先に、切迫した呼吸が受話器から伝わってくる 。宗胜が「落ち着いて」と言うと、向こうはゆっくりと息を吐き、ようやく本題に入った 。
「……竹原の坊ちゃんと、連絡が取れんようになっとる」
隆景か。
声は心の中で響き、宗勝は口に出さなかった 。心配はしていなかった。隆景がそんなにまずいことにはならないと知っていたからだ――むしろ、面白いとさえ思った 。デザイナー特有の共感覚は、脳内に一つの情景を描き出してしまう 。隆景はまるで一羽の敏捷な鳥だ。大人たちが一斉に手を振って空を掴まえようとする時、彼はその隙間を縫い、仰ぎ見る額を次々と踏みつけて逃げていく 。風が彼の袖口で形を成し、波紋を生み出す…… 。宗勝がぼんやりしていると、父の声がまた聞こえてきた。「どこへ行ったと思うか?」
「さあね。家出したことさえ、俺は今知ったんだから」 脳裏に浮かんだ明るい光景があまりに痛快で、宗勝はつい皮肉を返した。「大体、あんたたちが何かやらかして不機嫌にさせたんだろ」
案の定だった。それは「小早川家」という一族の複雑な事情にまで遡る 。広島県南部にある旧家だ 。歴史的な理由から、かつて栄華を誇り後に衰退していったこの手の家系は西日本にまだ多く残っている 。数百年の間に消えていった家も多い中、漁業という支えがある小早川家は、最悪の状況とは言えなかった 。
本家は沼田庄という場所にあり、数世代前、継承権を持たない者が功績を上げ、本家と袂を分かって「竹原」の地に根を下ろした 。以来、両者は「沼田小早川」「竹原小早川」と呼ばれ、今日に至るまで密かに火花を散らし続けている 。
賢勝の言う隆景は、竹原の現在の当主だ 。九年前、先代の当主が跡継ぎを残さず病没したため、隆景は養子に迎えられた 。
当時、沼田側はその不幸を嘲笑っていたが、ほどなくしてこちら側でも似たような問題が起こった 。当主の小早川正平が事故で急逝し、一歳余りの長男と生まれたばかりの娘が残されたのだ 。さらに悪いことに、長男の又鶴丸は成長とともに異常がはっきりしてきた。視力に問題があり、ほぼ盲目に近い 。一方、分家を継いだ隆景は類い稀な才能を発揮し始め、聡明で、何をやらせても完璧にこなす。形勢は逆転していた 。 宗勝の乃美家は、代々沼田小早川に仕えてきた。他の重鎮たちと共に画策した計画を、父は電話越しに告げた 。
「我々は、隆景君と永ちゃんの縁談を進めようと思っとる」
「……本気で言ってるのか?」
宗勝は思わず声を荒らげ、階段のセンサーライトが驚いたように点灯した 。
父は続けて説明した。「もちろん今すぐじゃない。まずは話を固めて、お嬢様が成人されてから……」 だが宗勝には、事の本質的な悪辣さは何ら変わらないと思えた。
小永は沼田の亡くなった当主の娘だ。賢勝たちの意図は明白だった。二人を結婚させ、将来的に隆景に沼田も継がせることで、分裂していた二つの小早川家を統合させるのだ 。
消え候わんとて、光増すと申す。そんな状況下で、沼田の大人たちは驚異的な行動力を発揮した。彼らは竹原の隆景の養母を説得し、隆景の実家までも抱き込んだ。全て本人の意思を無視して着々と進められ、今この瞬間に至る 。その知らせを聞いた時の隆景の、青天の霹靂といった表情が容易に想像できた。そしてそれに続く行動――隆景が混乱し、当惑し、逃げ出したことも――十分に予測できた 。
「永ちゃん、今年で七歳だろ?」
――そして隆景は高校二年生。十歳の年の差がある 。背に腹は代えられない事情があるとはいえ、二人の仲は悪くないとはいえ、それでも…… 。
宗勝の頭の中はまだ二人の年齢差のことだった 。賢勝は、今日隆景から連絡はなかったかと尋ねてきた。宗勝は「ない」と答えた 。父が自分を頼った理由は分かっている。隆景が竹原に来たばかりの頃から二人は偶然知り合い、それ以来ずっと交流を続けてきたからだ 。
隆景の年齢を超越した聡明さに宗勝は強く惹かれ、隆景もまた、当主としての仮面を被らねばならない竹原の人間と比べ、宗勝との付き合いに安らぎを覚えていた 。結果として、宗勝は隆景にとって最も親密な理解者となっていた 。
「本当に何もないんか? お前には何か言っとると思うたんじゃが」
「本当に――何も」
その後、雑談もせずに電話を切った 。
席に戻った宗勝の胸に、ある直感が兆した 。その予感は数時間後、現実のものとなる。退勤後、会社の一階から出ると、すぐに玄関先のあの姿が目に入った 。曇天のようなグレーのフーディーを着て、バックパックを背負い、両手をポケットに突っ込んでいる 。腕には四角い何かを収めた白いビニール袋がぶら下がっていた 。少年は目を細め、帰宅ラッシュの東京を行き交う車と人を、遠くを見つめるような眼差しで眺めていた 。宗勝は足早に駆け寄った。
「……サボりかよ」
学校をサボるなんて、いい子ちゃんには見えないな。しかし宗勝は、家出の理由には決して触れなかった 。この年頃の自尊心は、不用意に触れれば壊れてしまう。
隆景は「ほら」と、右腕の袋を宗勝の胸元に押し付けた 。中を覗くと、新発売の安宅船の完成品モデルが入っていた 。先週のチャットで、ずっと欲しかったが忙しくてなかなか秋葉原に行けないと零したのを、隆景は覚えていたのだ 。わざわざ途中で立ち寄って、手土産として買ってきたらしい。
感謝の言葉を紡ぐより先に、隆景が口を開いた。「宗勝、とりあえずお前の家に行っていいか?」 彼は宗勝に対して敬语を使わない。
「ああ」
それから駐車場へ案内した。隆景を助手席に乗せ、模型は後部座席に置く 。こうして二人が並んで座るのも、随分と久しぶりのことだった 。宗勝の仕事と住まいが落ち着いた頃、隆景が週末に突然、前触れもなく東京へ現れたことがあった――今と同じように、「お祝いだ」と言って 。あの晩は焼肉を食べ、それから映画館へ行った 。映画が始まり、二人は暗闇の中で並んで座っていた。
宗勝が隣を盗み見ると、隆景はヘッドレストに頭を預け、窓の外を眺めていた 。小早川家の事情については、依然として一言も発しない。
二人はまるで、ベルトコンベアで荷物を受け渡す工員同士のように、沈黙のまま情報を共有していた 。宗勝は事情を知っており、隆景は「宗勝が知っていること」を知っており、さらに宗勝はその事実をも理解している 。
だから、彼もまた沈黙を選んだ。沈黙によって淀んだ空気は、時に緩和剤の役割を果たすこともあるのだ 。
二人は車の狭い空間の中で並んで座っていた。
宗勝はエンジンをかけた。
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