第20話 「留学生襲来。帝国からのスパイは誰だ」

【早朝:アシュトン公爵邸・主寝室】

カーテンの隙間から、薄青い朝の光が差し込んでいる。  


アリアは目を覚ますと、隣で眠るローズマリーの寝顔をじっと見つめた。


規則正しい寝息。


長い睫毛。  


昨夜、悪夢にうなされ「助けて」と泣いていた少女は、今は安らかな表情で泥のように眠っている。

 

アリアの胸には、昨日見てしまった「裏帳簿」の「絶望的な数字」と、彼女の「助けて」という寝言が焼き付いていた。


(……この人は、たった一人で国を背負って、私に美味しいご飯を食べさせてくれていた)


アリアはそっと、ローズマリーの手を握った。  


冷たくて、細い指。  


でも、アリアにとっては世界で一番尊い手だ。  


この細い指で、ピアノを弾くように、破綻寸前の国家財政を操っているのだ。


これ以上、彼女に心労をかけてはいけない。


「……おはようございます、ローズマリーさん」


アリアはローズマリーの額に、誓いの口づけを落とした。  


それは服従の証ではない。守護の誓いだ。


「もう泣かせません。ご主人様を脅かす敵は、私が全部――誰にも知られずに、噛み砕いておきますから」


                  ◇

【王立学園・大講堂】

その日、学園の空気は一変していた。  


全校集会が開かれ、壇上には学園長と共に、見慣れない制服を着た集団が整列している。


黒を基調とした、軍服のようなデザイン。「ガレリア帝国」の魔導学院からの留学生たちだ。


「……空気が重いですわね」


隣に並ぶイザベラが、扇子で口元を隠しながら囁いた。  


彼女の言う通りだ。


王国の生徒たちが華やかで緩い雰囲気なのに対し、帝国の生徒たちは一糸乱れぬ姿勢で直立し、カミソリのような鋭い気配を放っている。


「ご紹介しましょう。本日から三週間、我が校で学ぶ交流留学生の皆さんです」


代表の男子生徒が挨拶をする中、アリアの鼻がピクリと動いた。  


野生の嗅覚が、異質な「匂い」を捉えたのだ。


(……なんだろう。この中に一匹だけ、種類の違う『獣』がいる)


アリアの視線は、列の最後尾にいる「ある少女」に吸い寄せられた。


地味だった。  


分厚い眼鏡に、三つ編みのお下げ髪。制服も少しサイズが大きく、猫背気味に縮こまっている。  


名前は「ヒルダ」と紹介された。  


他の帝国の生徒たちがエリート然としている中で、彼女だけは「人数合わせの補欠」のように見えた。


だが、アリアの本能が警鐘を鳴らす。  


あの少女からは、ローズマリーとも、あのベアトリスとも違う匂いがした。  


それは、良く手入れされた銃器のオイルの匂い。

 

そして――乾いた血の匂いだ。


                  ◇


【放課後:図書室】

アリアは疑惑を確かめるため、一人で本を読んでいる「ヒルダ」を尾行し、図書室へ潜入した。  


彼女は一番奥の席で、分厚い専門書を積み上げている。


アリアは本棚の影から、じっと観察した。


(……何読んでるんだろう?)


アリアは深呼吸をし、「人懐っこいアリアちゃん」の仮面を被って近づいた。


「あのー、隣いいですか?」


声をかけると、ヒルダはビクリと肩を震わせ、眼鏡の奥から怯えたような瞳を向けた。


本を素早く閉じる。


「あ……は、はい。どうぞ……」


声は小さく、どもっている。


完璧な「気弱な一般市民」の演技だ。  


アリアは笑顔で隣に座り、話しかけた。


「私、アリアです。ヒルダさんは、帝国のどの辺りから来たんですか?」


「……帝都の、外れです。父はしがない時計職人で……私はただの奨学生で……」


ヒルダは視線を落とし、ボソボソと答えた。  


アリアの視線が、彼女の手元に注がれる。  


白く細い指。


だが、人差し指と親指の腹に、硬い「タコ」があるのを見逃さなかった。


(……時計職人の娘? 違う。あのタコは、ペンだこじゃない。冒険者の時に見たことがある。銃の引き金と、ナイフのグリップを握り続けた『戦士』の指だ)


アリアは確信を深めるため、少し意地悪なテストを仕掛けた。  


わざと肘を机の上のペンケースに当て、落としたのだ。


ガシャーン!


金属製のペンケースが床に落ち、大きな音が響く。

 

普通の生徒なら「きゃっ!」と驚くか、ビクッとする場面だ。


だが、ヒルダは瞬き一つしなかった。  


瞳孔すら動かさず、ただゆっくりと首を傾げて「……あら?」と呟いただけだ。


アリアがペンケースを拾い上げると、ヒルダの眼鏡の奥の瞳が、一瞬だけ冷たい光を放った。  


それは、獲物を観察する捕食者の目。


「……アリアさん。貴女、何か探し物ですか?」


ヒルダの声色が、氷点下まで下がった気がした。


「……ヒルダさんこそ。王都の『弱点』でも探してるんですか?」


アリアがカマをかけると、ヒルダは口元だけでニタリと笑った。


「……この国の図書館は素晴らしいですね。燃えやすそうな本ばかりで」


ゾクリ。  


明確な敵意。  


(こいつは、ただのスパイじゃない。  王国の心臓を止めるために送り込まれた、「犬」だ)


              ◇


【夕刻:アシュトン邸・執務室】

アリアは全速力で屋敷に戻り、執務室のドアを開けた。


「ただいま戻りました!」


そこには、書類の山と格闘するローズマリーの姿があった。  


彼女は顔を上げ、疲れた笑顔を見せた。


「お帰りなさい、アリア。……どうでしたか? 帝国の留学生たちは」


ローズマリーの声には、隠しきれない不安が滲んでいる。  


彼女は知っているのだ。


帝国がいつ牙を剥くか分からない状況であることを。


これ以上、彼女に「敵が学園に入り込んだ」なんて伝えたら、彼女はまた眠れぬ夜を過ごすことになるだろう。


アリアは、喉まで出かかった報告を飲み込んだ。

 

(言っちゃダメだ………)


アリアは満面の笑みを作った。


「ええ! みんな真面目そうで、ガリ勉って感じでしたよ!」


「……そうですか。それなら、良いのですが」


ローズマリーは、ほっとしたように息を吐き、肩の力を抜いた。

 

その安堵した顔を見て、アリアの胸が締め付けられる。


「あ、でもローズマリーさん! 来週の『合同野外演習』、私も参加していいですか? 留学生たちと仲良くなりたいし!」


「野外演習ですか? ……まあ、貴女が一緒なら、彼らへの牽制にもなるでしょう。許可します」


「やったぁ! ありがとうございます!」


アリアは無邪気に喜んでみせた。  


だが、心の中では冷たい刃を研いでいた。


(……ヒルダ。あんたたちの好きなようにさせない。私の『物理こぶし』で、あんたたちの計画ごと粉砕してやる)


アリアはローズマリーにお茶を淹れながら、窓の外を見つめた。

 

夕焼けが赤い。


まるで、これから流れる血の色のように。


孤独な戦いが始まる。  


愛するご主人様の、その安らかな笑顔を守るために。

______________________________________

次回予告: そして迎えた、運命の「合同野外演習」。 森の奥深くで、 突如として発生する「魔獣暴走(スタンピード)」。 逃げ惑う生徒たち、標的となるイザベラ。 アリアはローズマリーの「目立つな」という命令を破り、ついにその禁忌の力を衆人環視の中で解放する。

次回、「魔獣暴走(スタンピード)。アリア、禁忌の魔力解放」。


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