第6話 悪魔の手

 宮崎から帰ってきたその日の夜。

 俺はひとつの決意を胸に、悪魔を呼び出した。


「悪魔よ、いるか?」


 宙に向かって問いかけると、あのゴスロリ風の服装をした少女が音もなく窓際に姿を現した。


「いるよ~。おにいさんが呼び出してくるなんて珍しいね。それで、どんな用事なのかな?」


 空虚な瞳にそぐわない華やかな笑顔。最初に会った時と何も変わっていない。


「このバット、返すよ」


 挨拶もせずに用件だけ告げた。

 その瞬間、悪魔の目が初めて光を宿したように俺には見えた。


「……いきなり、どうしたの? なにか気にいらないことでもあった? あ、もしかして一日三回じゃ足りなかったとか?」


「いや、そうじゃない。俺にはもう必要ないから返すんだ」


 そう言って手にした悪魔のバットを悪魔の少女に差し出す。

 が、彼女はすぐにそれを受け取ろうとはしなかった。


「いいのかなぁ。そのバットがなきゃ、おにいさん、またすぐにクビになっちゃうんじゃないかなぁ」


「……かもな。だがもう決めたんだ。俺はもうこのバットを二度と使わない」


「だったら、持っとくだけ持っといて、使わなければいいじゃん」


 予想通りの提案に、俺は苦笑した。


「俺は意思の弱い人間だから、このバットが手元にあるとまた誘惑に屈してしまうかもしれない。実際に散々使ってたわけだしな。だから変な気が起きないよう返す」


「ふーん。でもさ、どうして急に返す気になったの?」


「理由を言わないと返却を受け付けないのか?」


「そういうわけじゃないけど~、いきなりそんなこと言われたら、理由気になるじゃん。ねぇ教えてよぉ」


 小首をかしげながら甘えたように問いかけてくる少女。

 いくら悪魔が相手とは言え、ここまで好き放題に利用してきたのだ。ただ返すだけなのはさすがに申し訳ない気がして、俺は理由を話すことにした。


「別にたいした理由じゃない。俺はガキの頃から野球が好きだった。誰よりも野球が上手くなりたかった。だけど、このバットを使っていると俺は野球が下手になる。だから返す。それだけだ」


「わっからないなぁ。そんなに野球が大好きなのに、『打てる未来』より『打てないかもしれない未来』を選ぶの? このままそのバットを使い続ければ、もっともーっと成功して、歴史に名を残すような選手にもなれるのに? ホントにいいの?」


「たしかに、未練がないと言えば嘘になる。このバットがあれば一億円プレイヤーだって夢じゃないんだからな。けど、それでも俺はこれ以上野球に嘘を吐きたくない」


 俺は決意を込めて言った。


「ふんふん、なるほどぉ。ちっともわからないや」


 悪魔の少女はちらりと舌を出してから、急になにかを思い出したかのように「あっ」と声を上げた。


「そういえば……前にもたしか、今のおにいさんと同じようなことを言っていた人がいたっけなぁ」


「俺と同じようにこのバットを使ってた奴がいるのか?」


「ううん、その人は野球選手じゃないよ。その人が使ったのはバットじゃなくて、ペン」


「ペン?」


「そう。その人は小説家だったんだ。だからペン。その小説家さんには、一日三時間限定で必ずヒット作が書ける力が宿ったペンをあげたの。そしたらその人が書いた小説がすぐにネットでバズって、あっという間にプロデビュー。その後もたくさんの人気作品を生み出してた」


「……」


「けど、ある日突然、その人が『ペンを返す』って言ってきたんだ。今のおにーさんみたいにね」


「その人はなんと言ってペンを返したんだ?」


「なんて言ってたかなぁ……たしか、『僕は人気作家になりたいんじゃない。人気作品を生み出せる作家になりたいんだ』だったかな……。ぜんぜん意味わかんないよね、どっちも言ってること同じじゃんね?」


 悪魔の少女は不思議そうに首を傾げた。


「……お前ら悪魔には一生かかっても理解できないだろうな」


「むぅ、さすがにその言い方は傷つくなぁ」


 悪魔の少女がむくれたように頬を膨らませる。

 俺にはその小説家の気持ちが痛いほどわかった。

 その小説家も気付いたのだ。もし悪魔の力を失ったとき、自分が中身のないすっからかんな人間になってしまうことに。


「ちなみに、その小説家はペンを返した後どうなったんだ?」


 すると少女はちっちっと人差し指を左右に振った。


「それを言っちゃったら面白くないでしょ?」


「……」


「あれ、ひょっとして不安になっちゃった? なんだったら返却するの取り消してもいいよ?」


「余計なお世話だ。俺の決意は変わらない」


「強情だなぁ……。でもまぁ、たまーにそういうわけわかんないことをする人が現れるから、人間って面白いよね。わかった、ここはおにいさんの意思を尊重するよ」


 そう言うと少女は白く細い腕を伸ばし、俺の手からひょいとバットを取り上げた。


「たしかに、返してもらったからね~」


 少女がバットを宙に放り投げる。するとバットはまるで手品のように一瞬で消えてなくなってしまった。

 その光景を見た俺は、無意識に身構えていた。

 なんだかんだでこの少女は悪魔なのだ。代償として「やっぱり魂を寄こせ」くらいは要求されてもおかしくない。

 が、少女はそんな俺の内心を見透かしたかのようにくすりと笑った。


「そんな警戒しなくても大丈夫だって。最初に言ったでしょ? 観察するだけだって」


「……そうだったな」


「じゃ、ウチはこれで帰るね。ばいばーい」


 悪魔の少女はひらひらと手を振ると、現れた時と同じように音もなく消えた。気配も感じない。この部屋には最初から俺だけしかいなかったと思ってしまうほどに静寂が広がり、少女のいた痕跡はわずかも残っていなかった。


「……終わった、のか?」


 あっさりとした結末に、俺は拍子抜けする。


 ……いや、終わったのではない。ここからが始まりだ。

 もう一度、野球選手としてやり直す。オフシーズンは一から徹底的に鍛え直し、己の力だけで、もう一度プロの世界で勝負する。

 今度こそ逃げずに、正面から。

 もちろん、これから俺が進む道には間違いなく厳しい現実が待っているだろう。あのバットがなければ、俺はただの凡打製造機だ。それでも悪魔の力と決別して、自分の力で、勝負することを選んだのだ。

 だから、やってやる。

 死に物狂いで。

 俺の心は、初めて野球に触れたときのような高揚感に包まれていた。

 悪魔が存在していたくらいだ。野球の神様や天使様がいたっておかしくない。

 願わくば、悪魔のペンを返したという小説家には成功していてほしい……そんなことを俺は思った。


「よし、さっそく走ってくるか!」


 着替えようとトレーニングウェアに手を伸ばした、その時だった――。


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