『星喰みの書架と名もなき来訪者』

@K-airi

第1話

目を覚ましたとき、僕は本の匂いに包まれていた。


紙と革、そして微かな魔力の焦げたような香り。見渡す限り、天井まで届く書架が円形に並び、無数の本が静かに眠っている。ここがどこなのか、なぜ来たのか――そのどれも思い出せない。


「ようこそ、《星喰みの書架》へ」


背後から声がした。振り返ると、銀色の髪を三つ編みにした少女が、宙に浮かぶ梯子に腰掛けていた。年の頃は僕と同じくらいだが、金色の瞳はやけに古い。


「ここは、世界が滅びる直前に“物語”だけを保存する場所。あなたは……記録外の存在ね」


「記録外?」


少女は軽く微笑んだ。


「本来、この世界に来る人間は、勇者か賢者か、少なくとも名前がある。でもあなたには、どの書にも記されていない」


その瞬間、胸の奥がざわついた。名前。そうだ、僕は自分の名前すら思い出せない。


「大丈夫。名前がないなら、これから書けばいい」


少女は一冊の白紙の本を差し出した。表紙には何も書かれていない。


「これは《原初の書》。世界に干渉できる、たった一冊の物語」


「そんな大層なもの、僕に使えるのか?」


「使えるかどうかじゃないわ。使う“しかない”の」


書架の奥で、低く不気味な振動音が響いた。闇が、文字を喰らう獣のように、本棚を崩しながら迫ってくる。


「世界喰らい……。物語が尽きた世界から現れる存在よ」


少女は初めて、焦った表情を見せた。


「あなたが書かなければ、この世界は終わる」


白紙の本を開くと、ペンが自然に手の中に現れた。震える指で、僕は最初の一文を書く。


――これは、名もなき男が異世界で選択を迫られる物語だ。


文字が浮かび上がった瞬間、空気が変わった。闇が一瞬、足を止める。


「……効いてる」


少女が息を呑む。


僕は書き続けた。剣を持つこと、仲間と出会うこと、恐怖から逃げずに立ち向かうこと。書くたびに、世界はそれに応じて姿を変え、僕の手にはいつの間にか一本の剣が握られていた。


闇が吠える。だが、物語は終わらない。


最後の一文を書き終えたとき、世界喰らいは光の粒子となって消え去った。


静寂が戻る。


「あなた、名前は?」


少女が尋ねる。


僕は少し考えてから、答えた。


「……まだない。でも、これから探す」


少女は満足そうに頷いた。


「なら、あなたはもう“登場人物”ね。さようなら、物語の外から来た人」


光に包まれ、意識が遠のく。


次に目を覚ましたとき、そこは草原だった。遠くに街が見える。腰には剣、胸には確かな鼓動。


そして、不思議とわかっていた。


――この世界では、僕自身が物語になるのだと。

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