第3話第二部 世界史(例外史) 第一紀|未史(Pre‑History) 世界が「生まれるだけ」で足りていた時代

Ⅰ|記録(Record)

未史とは、歴史が「始まっていない」時代ではない。
歴史という形式が成立しえない時代である。

この紀において、世界は“創られた”のではない。
世界は、ある密度が満ちたときに自然に生起し、密度がほどけたときに自然に解けた。
そこに意図はなく、責任もなく、目的もない。
あるのは、ただ 発生と消散が同じ呼吸であるという事実だけである。

世界は、名を持たない。
正確には、名が与えられないのではなく、名が定着しない。
名を刻む前に世界が変わり、世界が変わる前に名が崩れる。
名は記号であり、記号は固定を要する。
未史は固定を拒むため、名はいつも途中でほどける。

因果もまた同様である。
出来事は起こる。だが、それは「原因があって結果がある」形で閉じない。
閉じないということは、崩れているという意味ではない。
閉じる必要がなかったという意味である。
この紀の因果は、輪のように自己完結するのではなく、
波のように寄せては返し、跡を残さず、しかし確かに場を揺らして去っていく。

時間も直線ではない。
「前/後」という並びは生じるが、「積み重なる」という性質が弱い。
ゆえに、出来事の連鎖は“続く”よりも“移る”。
世界は成熟するよりも、相を変える。
相が変わるたびに前の相の記憶は薄れ、薄れることが損失とは見なされない。
記憶が固定されない以上、史料は成立しない。
ゆえにこの紀は「未史」と呼ばれる。

この紀の終わりは、破局ではない。
終わりとは、世界が壊れることではなく、世界が自己を手放すことである。
“持ち続ける”ことが善であるという倫理が存在しない以上、
終わりは裁かれない。
終わりは、ただ起こる。
世界は終わってよい。終わりは罪ではない。
それゆえ、誰も「救おう」としない。
救うという発想が、まだ生まれていない。

未史において、観測者の痕跡は希薄である。
観測とは本来、分けることだ。
これはこれ、あれはあれ、と境界を立てることだ。
しかし未史の世界は境界が柔らかく、立てた境界が立ったまま残らない。
観測者がいたとしても、観測者は「残る主体」になりにくい。
主体が残らないなら、主体の記録も残らない。
だから未史は、英雄を生まない。
英雄が生まれない時代は、破局もまた英雄譚にならない。

この紀の中心的特徴は、次の一句に尽きる。

世界は、自ら終わることを許されていた。

この許容がある限り、創座も界座も必要とされない。
座とは、世界が終わることを“問題”として認識した瞬間に、初めて要請されるからである。


Ⅱ|注解(Commentary)

未史において「座が不要」であった理由は、能力の不足ではない。
むしろ逆である。
世界が未熟だったから座がなかったのではなく、
座を要請する欲望がまだ存在しなかったのである。

座が要請されるためには、最低でも次の二つが要る。

1. 終わりを避けたいという欲望

2. 終わりを避けられるという錯覚(または設計)

未史には、どちらも育っていない。
終わりは自然であり、避けるべき対象ではない。
避けない以上、避ける技術も座も不要になる。

ここで注意すべきは、未史が「平和な黄金時代」だという誤読である。
未史は平和でも地獄でもない。
ただ、善悪の尺度が薄い。
善悪が薄いということは、責任の体系が薄いということでもある。
責任が薄いということは、救済の体系が薄いということでもある。
救済が薄いということは、救済を求める叫びもまた薄い。
未史は“優しい”のではなく、“問う力がまだ弱い”。

未史の世界が幾度も生起し、幾度も解けるあいだに、
一つの準備が静かに進む。
それは、「続く」という感覚の芽である。
続くことが価値になると、終わりは問題になる。
終わりが問題になると、救いが発明される。
救いが発明されると、座が要請される。

未史は、座の前段階である。
座を生むための“前提の未成熟”として、未史がある。


Ⅲ|行規(Conduct)

本章は歴史の物語であると同時に、読む者の姿勢を整えるための章でもある。
ゆえに、読者規約に連なる実務の行規をここに置く。

1. 終わりを即座に敗北とみなさない
 終わりが許される相があることを知る。終わりを恐れて意味を固定しない。

2. 名を急がない
 名は便利だが、名は固定を呼ぶ。固定は未果を狭める。
 理解が追いつかないときは、名を付けずに保留する。

3. 救済を万能化しない
 救いたい衝動は尊いが、衝動はしばしば“次を生む条件”を圧殺する。
 救う前に、続く条件が壊れないかを点検する。


Ⅳ|停止句(Seal)

本章は「未史の性質」を示すものであり、世界を生起させる手順を示さない。
未史は再現の対象ではなく、境界理解のための記録である。

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