第6話 月下の逃走――過去編その1

レオンの脳裏に、月明かりに照らされた、あの夜の記憶が蘇った。

夕暮れの森は、静かな緊張を帯びていた。

木々が密集し、魔物の気配が常に漂う危険地帯――エルフィン連邦とアリシア聖王国、その国境にあたる場所だ。


傭兵のレオンは依頼を終え、木陰に小さな焚き火を起こしていた。パチパチと薪が爆ぜる音が、耳に心地いい。

戦いの後の、この短い静けさが好きだった。


「やれやれ、やっと終わったか……」


焚き火を見つめながら呟く。

レッドボアのボス討伐。少し手間取ったが、報酬は悪くない。

最近この辺りは依頼が増えている。もう少し腰を据えて稼ぐのもアリだ。


樹に立てかけている身の丈ほどのタワーシールドを、指先で軽く叩く。


「……余裕ができたら、少し手を入れるかな」


軽い皮算用を心の中で転がしていると、不意に周囲がざわめき始めた。

茂みが激しく揺れ、足音が近づいてくる。


レオンは即座に火を払い、煙を散らす。

盾を引き寄せ、重心を落とした。


――魔獣か? それとも、ただの獣か?


程なくして、茂みから飛び出してきたのは――予想外の存在だった。


「は? 女……?」


人間の女性が、息を切らして駆け込んできた。

薄いローブのような部屋着は泥と埃で汚れ、裾は引き裂かれ、無残な有様だ。

だが、生地だけが異様に上質だった。袖口の刺繍一つとっても、今回の報酬では買えそうにない。


金色の長い髪は乱れ、青ざめた顔には恐怖と疲労が刻まれている。

彼女は何度も後ろを振り返りながら走り続け、レオンにぶつかって尻餅をついた。


ようやく目の前の男に気づくと、大きく目を見開き、後ずさる。


「あ、あああ!」


「いや、待て待て。落ち着けって。つか、何してんだよこんなところで。この辺りは物騒だぞ。誰かに――」


言いかけたところで、茂みが再び大きく揺れた。

現れたのは、騎士風の甲冑を着込んだ男たち――四人。

鎧は銀色に鈍く光り、胸元にはアリシア聖王国の紋章が刻まれている。


彼らは彼女を見て、穏やかな笑みを浮かべた。


「姫様、探しましたよ。さあ、帰りましょう」


やれやれ。おてんばな姫様の家出――そういう話か。

レオンは厄介事の匂いを嗅ぎ取り、関わらずに済ませようと一歩身を引いた。


だが。


彼女がレオンの陰に滑り込み、腕にしがみついた。

震えが、はっきりと伝わってくる。

掴む指先は白く、爪が食い込むほど強い。


「おいおい、勘弁してくれよ……」


レオンがため息をつくと、男たちが続けた。


「どうされたのですか?」


その声に、僅かな引っかかりがあった。

言葉の抑揚が、笑みと噛み合っていない。


「この前はあんなに……」


声が、変わった。

無機質で、人のものではない響き。まるで、別の喉が同時に喋っているような。


「悦んでおられたではないデスカ」

「あの美しいお声をまたキカセテクダサイヨ」


四人――同じ顔をして、同じ熱を含んだ声を重ねる。

男たちの表情がぐにゃりと歪み、目が血走り、口元が不気味に裂けた。


――悪意を煮詰めると、こんな形になるんだな。


レオンは冷静な自分に驚きながらも、妙なところで感心していた。

どのみち、ただの人間じゃねえ。


どうしたものかと周りを見回すと、視線が彼女と合った。

怯えた表情で首を振りながらも、顔――いや、全身が上気しているように見える。

頬は赤く染まり、息は浅く、熱い。


腹部から、僅かに赤黒い光が漏れていた。


それに――匂い。


甘ったるい。

焚き火の煙か?違う。

いや、でもどこかで嗅いだ。


……どこで?


気付けば体が動いていた。

レオンは一歩前に出て、彼女を背中に庇う。右の盾を構えた。


「貴様! アリシア聖王国騎士団に歯向かうツモリカ!」


「おいおい。鏡、見てみろよ。騎士団どころか、人間に見えねえぜ」


男の一人が斬りかかってくる。

レオンは反射的に盾を叩き込んだ。


【シールドバッシュ】

得意技だ。鈍い衝撃が走り、甲冑を砕く音が響く。


「ヤベえ、やり過ぎた!」


だが――男はムクリと起き上がった。

体が不自然にねじれ、傷口から黒い煙が漏れている。


――おいおい。レッドボアのボスも昏倒した技だぞ。


驚きを飲み込み、レオンは切り替えた。

右盾を構えたまま、背中へ手を回す。

マウントから左のタワーシールドを引き抜き、その重量を前へ落とす。


両足を踏ん張り、姿勢を低くする。

そして、体内のマナを集中し一気に飛び出す。


【ショルダーチャージ】


対大型魔獣の奥の手。

巨大な盾と一体になった身体は砲弾となり、四人まとめて吹き飛ばす。

木々が折れる音が連なり、男たちは地面に転がった。


今だ。


レオンは彼女の手を掴み、駆け出した。

掌は熱く、汗ばんでいる。

森の奥へ、奥へ。見知った獣道を選び、闇へ潜る。


背後から追手の気配が迫る。

それでも足を止めず、レオンは心の中でため息をついた。


――どうも厄介事に首を突っ込んじまったな……


追手の声が遠ざかるほど、森の闇が濃くなる。

見上げれば、木々の隙間の向こうで、月だけがやけに近かった。


その冷たい光が、これから先の二人を――ひどく嫌な形で照らしている気がしてならなかった。

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