第8話
第8話 正しかった気がする
駅前の歩道橋の下は、夕方になると風が通らなくなる。
昼間に溜まった熱が、まだ逃げきれていない。
自販機の前で立ち止まり、冷たい缶コーヒーを選ぶ。
前にここで買ったときは、思ったより甘かった。
今日は無糖にした。
彼女は、少し遅れて来た。
「待たせました?」
「いや」
実際には三分ほど待っていたが、待たされた感じはしない。
三分というのは、そういう時間だ。
歩道橋の影に入ると、彼女が言った。
「この辺、前に来たことあります?」
ある。
だが、いつだったかは思い出せない。
「多分」
そう答えると、彼女は少しだけ安心したような顔をした。
なぜ安心したのかは、分からない。
二人で並んで歩くと、歩幅が微妙に合わない。
彼女は、意識すると早くなる。
意識しないと遅くなる。
どちらに合わせるべきか、一瞬迷って、結局何もしなかった。
気づくと、歩道橋を渡り終えていた。
「ここ、前と違いません?」
彼女が足を止める。
欄干の色が変わった、と言う。
前はもっと白かった気がするらしい。
僕は、白かったかどうかを覚えていない。
ただ、白は汚れが目立つ、という印象だけが残っている。
「塗り直したんじゃないですか」
言いながら、それが推測だと分かっている。
彼女は頷いたが、納得はしていない。
「でも、工事してるの見ました?」
見ていない。
ただ、見ていない時間はたくさんある。
歩道橋の下に、小さな花屋があった。
前からあったかどうかは分からない。
彼女は、店先の鉢植えを一つ一つ見ていく。
値札を確認してから、もう一度花を見る。
「高くなってますよね」
何が、とは言わない。
それでも意味は通じる。
「全体的に」
そう答えたあとで、
自分が何を基準に言ったのか分からなくなる。
以前の値段を、正確には知らない。
店を離れたあと、彼女が言った。
「さっきの自販機、減ってませんでした?」
減っていたかもしれない。
だが、それは僕が買ったからだ。
「たぶん」
「補充、来てないですよね」
来ていないと思う。
思うだけだ。
沈黙が続く。
気まずさはない。
ただ、音が少ない。
遠くで、踏切の警報が鳴っている。
ここからは見えない。
「……私、考えすぎですかね」
彼女は笑わない。
冗談にもしていない。
「どうでしょう」
答えになっていないが、否定でもない。
歩道橋を振り返ると、
欄干の色は、確かに少し暗く見えた。
夕方だからかもしれない。
あるいは、最初からこの色だったのかもしれない。
缶コーヒーを一口飲む。
苦くはない。
甘くもない。
ちょうどいい、と思った瞬間、
そう思ったこと自体が、少し遅れている気がした。
《これは、誰も生き残る必要のない話である。》
(正しかった判断は、たいてい手応えがない)
風は、まだ抜けていなかった。
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