第1話 川辺の72時間
夕暮れの大橋は、いつもより重く見えた。祭りの車列が長く連なり、歩道には紙灯籠を持った人の帯が揺れている。頭上の横断幕には「第66回川辺まつり 紙灯籠の宵渡り」と染め抜かれていた。風速計がカタカタと鳴り、主ケーブルの腹が、言葉にできないほどかすかに沈んだ。
長谷川隼人(はせがわ はやと)は市の土木事務所、建設部・道路河川課の主任技術員。祭事では発注者側の『土木班・現地統括』として橋と交通規制を仕切っている。
運転席で幼稚園送迎バスの運転手が小さくつぶやく。
「……今、橋、鳴いたか?」
金属の悲鳴が遅れて走った。欄干のリベットがかすかに震え、歩道側の板が波打つ。人のざわめきの高さが変わり、叫びに転じる。
橋の陸側、第一径間がえぐられるように沈んだ。主桁がひと呼吸ぶんねじれ、街路灯が一本、紙灯籠の列の上へゆっくり傾ぐ。紙灯籠は手からこぼれ、火は薄い音で消え、いくつかは川面へ落ちて小さな蒸気をあげた。
群衆が波のように押し返され、欄干に肩や背をぶつける。誰かが子どもを抱え上げ、誰かが柵を越え、足を踏み外す。歩道の継ぎ目が断続的に落ち、板材のつなぎ目が唸って千切れる。
渋滞の先頭で、ワゴン車が前輪を宙に浮かせ、幼稚園送迎バスがブレーキを二度踏み、後続が玉突きの音を立てた。欄干の支え金具が一本、乾いた音で折れ、軽自動車が斜めに滑って欄干を跨ぎ、そのまま川へ腹から落ちる。水が鈍い音で跳ね、その上に紙灯籠が広がって、火の点はすぐに吸い込まれる。
音がいくつも重なった。鋼の破断音、ガラスの粉が降るような音、クラクションが同じ高さで鳴り続ける音。匂いはガソリンと川泥と焦げた芯の混ざり物。時間が伸び、一秒が三倍になったみたいに動きが遅い。
隼人は規制線のこちら側で固まった。無線を握る指だけが動く。舌の奥が乾き、声が出るまでに一拍いる。それでも言わなければならない言葉が、胸のどこかから押し出されてきた。隼人は橋詰の規制線の向こうから、それを見るしかなかった。 足裏は地面にあるのに、地面だけが遠ざかっていくみたいだった。
闇が一瞬、音を飲み込んだ。
——そして、現実が戻ると、テントの匂いだった。
仮設救護所の中は、消毒液と汗と湿ったビニールの混ざった匂いで満ちている。担架が並び、番号札が並び、泣き声が行き場をなくしている。
隼人はひとりの子どもの手を握っていた。細い指に、赤いリボンが結んである。目を閉じたまま、彼女は何かを言おうとして、うまく息が続かなかった。 「……ママに、言って」 「何を?」 「……ありが……とう」
聞き取りづらい声が、隼人の掌から骨にまで染みた。彼はうなずいた。約束の言葉は口に出さない。声にすると簡単になるからだ。そうではいけない種類の約束もある。
そのとき、背後に気配が立った。整備員のような反射ベスト。ヘルメットの透明なバイザー。誰も気づかないはずの姿が、隼人にははっきり見えた。
「三日前なら、行ける」
低い声だった。説明より先に、選択だけを差し出す声。 「……誰だ、お前」
男はバイザー越しに一語だけ落とした。
「悪魔だ」
声は事務連絡みたいに平板だ。
「あなたが望む“戻りたい日”には戻せない。三日前だ。時刻まで指定できる。その代わり、あなたの残りの寿命の半分を、引き落とす」
荒唐無稽、という言葉は頭に浮かばなかった。隼人は自分の負けを知っていた。目の前で、手の中で、もう遅かったという事実の重さと、何かひとつでも変えたいという欲望とが、背骨の両側で喧嘩している。
「……戻りたいのは、事故当日の午前八時。安全宣言の押印前だ」
ヘルメットの影がうなずく。
「規約。送るのは、そこから三日前の同時刻。戻ってから七十二時間だけ、なぜ戻ったか覚えている。書けば消える言葉がある。契約と悪魔という文字だ。あなたが行動のメモを残すなら、言葉を避けて、やることだけを書くことだ。七十二時間が過ぎたら、あなたは俺を忘れる。契約も忘れる。だが、あなたが書いた“行動”は残る。
「——それでも、誰の寿命も変えられない」
最後の一行だけ、空気が一段沈む声だった。隼人は振り向いた。救急車のドアが閉まり、赤い灯りが遠ざかっていく。担架の上から赤いリボンがするりと音もなく落ちた。
仮設救護所の外に出ると、報道のフラッシュが雨のように白かった。規制線の向こうで突き出されたマイクの林。ポケットでスマホが震え、画面に「内部是正提案・差し戻し」とスレッド名が灯る。添付のPDFを開く。余白に残る他人の注釈、更新履歴のタイムスタンプ、図表の差し替え—— 自分の手癖じゃない直しが、あちこちに残っている。 俺が——見逃したんじゃない……書き換えられた。
ヘルメットのバイザーが隣で、かすかに鳴った。
男が、空の一点へ薄い板を差し出した。隼人には契約書に見える。だが、テントの中の誰の目にも映らないらしい。
「ここが大切なので、再度“道具”でお見せします。契約条項の説明義務、三点」
男が板の縁を指で弾くと、薄い光の字が空中に浮かんだ。
『戻った瞬間から七十二時間(三日間)、本契約の記憶が残る』
『再訪(今日と同じ日)に契約内容と余命を告知。告知後も七十二時間だけ記憶が残る』
『自分以外の寿命は変わらない(亡くなり方や場所は変わり得る)』
契約書にはそれ以外の項目も細かく書かれていたが、隼人は右手を空へ伸ばし、指で自分の名を書いた。空気の表面に、ガラスのような冷たい抵抗が走る。
第三者から見れば、虚空に文字を書く奇妙な仕草にすぎない。救護スタッフが一瞬こちらを振り向いたが、すぐ別の患者へ駆け戻っていった。
最後の画を引き切ると、板は水面の反射のようにふっと揺れて消えた。
「やる」
風が逆に吹いた。川面がまるで上流へ向かうように、光の粒が逆行した。
* * *
六月九日 朝(事故の三日前)
同じ橋のたもとに隼人は立っていた。息は早い。手の中には新品のメモ束と、黒いペン。胸ポケットのICレコーダーが赤く点灯している。
三日でやるべきことは、もう決まっている。理由は書かない。書けば消える。書けば迷う。行動だけ、できるだけ短く。
——臨時風速観測(臨時観測点・三日間)設置申請 提出。
詰所で臨時観測点設置申請(有効期間:三日間)の書式を掴むと、隼人は理由を並べ立てずに判をもらった。徐行の徹底。祭事本部への予告通達。規則を迂回する合法的な遅延。誰かが「今日は必要ないだろ」と言いかけ、隼人は「設置は今日、運用は祭事期間」とだけ返す。書式の右上に捺印が落ちる音が、それを塞いだ。申請書式の右上には小さく「No.066」。隼人は窓口で言った。
「中止届も同時に出したい」
事務員が一拍、目を瞬かせた。
「……中止届、ですか? どうして今?」
隼人は短く答えた。 「第七ハンガーに応力の異常。歩道側の荷重が危険域に近い」
事務員は眉を寄せ、端末を確認した。「その件は業者(黒瀬設備)の定期点検で『昨年同様・適合』と報告されています。設備・耐震ともに問題なし——という書面が一か月前付で上がっています」
事務員は業務口調に戻った。 「中止判断は祭事本部長の専決です。通行止めは県警の道路使用許可の取消が必要。ガイドラインでは風速計三点平均6.0m/sで徐行、8.0m/sで閉鎖。いまの平均は4.6。数字が立たないと動きません」事務員は紙束の端を指で叩いた。
「危機管理ガイドラインの脚注にもあります。全面閉鎖は“本部長・県警・土木”の三者合意時のみ。土木単独では押せません」
内線が鳴り、受話器の向こうで名前が出る。観光協会の顧問、地元選出の議員の姓。事務員は受話器の口元を手で覆い、視線だけで「今回は動かすな」と告げた。
それでも隼人は、残った時間で走った。祭事本部の会議室、県警の道路使用許可の窓口、観光協会の理事席、幼稚園と学校の安全担当。図面と写真を広げ、風速の予測、荷重計算、劣化箇所の拡大を示した。
——だが、扉は少しずつ重くなる。
やがて逆風は形を持った噂になった。
「土木の若いのが、祭り当日に何か仕掛けるらしい」
有力者の名刺が各所を回り、隼人の申請やメールは「過剰反応」「風評の火種」として退けられる。八方ふさがり、とはこの手触りだ。
隼人は引き返さなかった。止められないのなら、せめて——悲惨の度合いを下げる。臨時観測点、徐行の徹底、歩道の荷重制限、救護導線の陸側移設、鍵の増設、写真の三重投函。行動の箇条書きだけが、体に染み込んでいる。
橋の歩道入口には、黄色いバリケードが三本立った。重量物進入禁止。間隔は三歩。鍵は右のカーゴポケットのファスナーの奥、さらに靴底にも一本、テープで固定する。外されるなら、増やす。増やせば、面倒が勝つ。
腕章をつけた警備主任が、苛立ちを押し込めた顔で近づいてきた。
「そんな計画、どこから降りた」
「ここからだ」 隼人は詰所を顎で示し、小さく付け加えた。「あとで感謝します」
主任は腕章を直した。白地に黒いロゴ。黒瀬インフラ。地元有力企業で毎年この祭事の主スポンサーでもある。契約書の写しには、主催側都合の全体中止で違約金が発生する条項があったのを思い出す。加えてイベント保険の約款では、主催側の自主中止は見舞金の対象外だった。隼人は記憶のどこかにその字体の感触を刻みながら、別の行動へ移った。遠くで風速観測ポール3号が揺れた。
隼人は現場詰所の車庫から、市の土木事務所・第二管理棟へ戻った。橋から車で十五分。通用口のカードリーダーを抜け、監視センターのバックヤードに入る。
第二管理棟のサーバールームの手前、バックヤードの曲がり角は、カメラの死角だ。封筒に入った写真を、判子保管庫に落とす。断線しかけの第七ハンガーの拡大。座金の端に、肉眼でも分かる細い亀裂。誰かが見る。他人の目は、自分の目より長く残る。保管庫のラベルには「6-6」と手書きされている。
隼人は監視センター端末にログインし、臨時安全確保メモ(第七ハンガー)を起案した。写真を添付し、危険度判定をB→C(要閉鎖)へ切り上げ、通行止めの一次提案を押す。稟議IDはSEF-066-3。
送信から十分も経たないうちに、ステータスが跳ね返る。件名は「内部是正提案・差し戻し」。レビュー欄にはakasaka_k(課長)とkurose_PRの名。差し戻し理由は「根拠薄弱/風評の可能性」。変更履歴では、「通行止め」→「徐行(留意)」、「危険度C」→「B」、「閉鎖」→「注意喚起」に上書きされていた。監査ログの編集者ID列には、またしてもブレた綴りのKSE_quipmentが混じる。
隼人は画面をスクリーンショットし、臨時の三者合意(本部長・県警・土木)開催申請を立てたが、応答は「否:時間不足/不要」の一行だけだった。
更衣室でスマホの下書きを開く。宛先は空欄のまま、本文は一行だけだ。
\intra\kurose\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv
必要なのは、場所だけ。物語はいらない。説明は誰かに強要されるときだけすればいい。
ふと意地になって、「契」と打つ。黒い文字が画面でにじみ、次の瞬間には消えていた。悪魔の声が耳の奥で笑いもせずに反芻される。書けば消える言葉がある。ならば、書かないことを選ぶ。
六月十一日(事故の前日)
幼稚園の門前で、担任の先生が時間に渋い顔をしていた。隼人は市の広報の許可証を見せ、祭事の日の園外活動の集合場所を橋の手前の展望広場に変更する理由を短く説明した。「園児たちの“いい顔”が撮れるんです」——正しさより先に、魅力を出す。先生は逡巡してからうなずいた。赤いリボンの少女が、少し離れて結び目を直しているのが見えた。門の先の通園バス停の標識には「66系統」の番号が白い円に黒で塗られている。
夕方、橋の上に別の青年が立っていた。ライダーのジャケット。隣に、隼人しか見えないもうひとりの“反射ベスト”が並ぶ。互いに短く目をやる。言葉はない。だが、世界が自分の思っていたより厚いことを、隼人は知った。
夜、詰所の扉の陰で、封筒が別の封筒に差し替えられているのを見つけた。壁のFAXには『紙灯籠渡りは予定どおり実施。陸側ルートに若干変更のみ(添付参照)』とある。差出人は祭事本部、Ccに観光協会と黒瀬インフラ。商店会の連絡網では、すでに屋台の仕込みが始まり、仕入れの生鮮食品は「返金不可」の赤スタンプ。
——生活の都合は、もう祭の方向へ傾いている。
写真は消える。ならば増やす。同じ写真を三箇所に投函する。署名も、差出人もない。名指しの応酬に乗らない。最初から署名も差出人も外し、同じ写真を三つ撒く。——「誰がやったか」の土俵から降りることが、いちばん速く確実に仕組みを動かす時がある。
六月十二日 朝(事故の当日)
朝もやの橋で、手の平で歩道のゆるみを確かめる。金属は人間より正直だ。悪魔が近づいてきて、立ち止まる。
「あと、わずか」
「分かってる」
朝、通園バス停で、隼人は赤いリボンの少女とすれ違った。何かを言おうとして、言葉が見つからなかった。母親が少女の肩に手を置く。隼人は会釈だけして、口の中の言葉を飲み込む。
通園バス停の標識の下で、母親がしゃがみ込み、結び目を直しながら言う。 「今日のお弁当、大好きなマスカットも入れておいたからね」
少女は頬をふくらませ、視線を外した。 「……ありがたくない」
「そういうときは、ありがとうって、ちゃんと言えたらお姉ちゃんなのにね」
母親は指を手早くリボンを結び直した。その赤は、隼人の脳裏に焼きついている赤と同じだった。
......世界の音の高い部分が、ふっと落ちた。頭の奥で薄い砂がさらさらと崩れた。
金属の擦過音も、遠くの鳥の鳴き声も、紙をめくる音も、低く変わる。手帳の中で、いくつかの語が黒く滲んで消えた。契約。悪魔。期限。理由。残ったのは、箇条書きの行動だけだった。
——臨時風速観測(臨時観測点・三日間)設置申請 提出。
——歩道側 重量物 進入禁止。
——救護 陸側 導線。
——陸橋耐震検査 改ざん 証跡確保。
——判子 写真 投函。
彼は顔を上げた。自分がなぜこれをやっているのかは、もう思い出せない。
六月十二日 夕刻(事故の当日)
車列が徐行で橋にさしかかる。歩道の人は相変わらず多い。幼稚園送迎バスは、広場で待機している。隼人は無線を握り、バリケードの鍵の一本に触れていた。
詰所から駆け寄ってきた同僚が、小声で言う。 「隼人さん、この三日、開催は反対だって言い続けて、周りからも叩かれていたじゃないですか」
隼人は瞬きをした。胸ポケットのメモの端が、かすかに浮く。口が先に動いた。 「何言ってんだよ。みんなが毎年楽しみにしている、六十六回も続く地元の大きな祭りだぞ。俺がそんなこと言うか」
「……え?」同僚が目を見開く。
隼人は胸ポケットを指で押さえ、声を立て直した。
「……手順どおりだ。徐行継続、歩道の重量物は入れない。救護導線は陸側固定。鍵は——外さない」
同僚はうなずき、持ち場へ駆け戻った。
ピン、と金属が鳴る。
第七ハンガーが、先に音を立てた。歩道の板が一枚、深くため息をつくように沈み、次の瞬間、持ちこたえられなくなった縁から崩れた。
「救護、陸側へ!」
隼人は叫ぶ。「水際じゃない、陸側だ。こっちに集まる」
誰かが「なんで分かる」と言った。隼人は答えない。理由はもう手の中にない。ただ導線だけが、体に染み込んでいた。
圧死と出血が、陸側に集中した。水に落ちるはずだった人々の死因が、地面の上に横滑りする。誰の寿命も変えられない——そんな“感触”だけが、理由も言葉もなく体の奥に残っている——。
赤いリボンが、視界の端で震えた。 「大丈夫だ、手を握ってる」
隼人は膝をつき、少女の手を握った。彼女はうっすら目を開け、誰かを探すように視線を彷徨わせる。
「……ママに、言って」 「言う。何を?」 「……ありがとう、って」
救急車が横付けされ、担架が降ろされる。白い手袋の女医が近づき、手際よく指示を飛ばした。 「黄、観察。すぐ搬送——酸素、残量確認!」
「さっき満タンのボンベを持ってきたのに……」と隊員がつぶやく。女医の眉がわずかに寄る。名札に白崎、とある。その視線が一瞬、隼人の手元の赤いリボンで止まり、すぐに患者へ戻っていく。
騒ぎの向こうで、記者の声が飛ぶ。隼人のスマホが震えた。画面に、小さくバッジが浮かぶ。
——下書きメール:送信しますか?
指が動いた。送信。宛先も本文も、説明もいらない。
\intra\kurose\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv
——その一行だけが海を渡る。誰かが拾うまで、漂う。
救急車のドアが閉まる直前、女医がふと振り返った。隼人と目が合う。互いに知らないまま、その視線はすぐに離れた。
「最初の色は……赤だった」
誰にともなく女医が言い、車体は動き出した。サイレンの音が、遠ざかりながら、どこかで反響する。
六月十二日 夜(再訪の刻)
夜が来た。規制線の外に、人の気配が薄く残る。橋の欄干に、血のついた指跡が乾きかけていた。腕章の白地の上で、黒瀬インフラの文字が滲んでいる。
反射ベストの男が、隼人の斜め後ろに立った。彼は帳面を開きもせず、簡潔に経緯から述べた。
「あなたは悪魔であるこの私と、『“戻りたい日”の三日前に戻る契約』を結んだ。いまはその“再訪”のときだ。契約の記憶は消えているが、説明義務により要点だけ伝える」男は続けた。
「戻る前、あなたは橋の崩落を目撃し、救護所でフラッシュの中、陸橋の耐震情報が改ざんされたために事故が起こったと考え、安全宣言の押印前(事故当日の午前八時)へ戻ることを望んだ。契約規約により、実際に送ったのはその三日前・同時刻だ。——いまは再訪日。契約に関する記憶は消えているが、行動の記憶と痕跡は残っている」
「——告知だ。本来の余命と、契約により引き落とされる半分について。この時点で自動引き落としが実行される。告知から七十二時間だけ、いま話した事情は覚えている」
「本来の余命は四十四年。引き落としは二十二年。——残る人としての寿命、二十二年」
隼人は短く復唱した。 「本来の寿命はあと四十四年。半分の二十二年…..」
男は指を三本立て、淡々と付け加えた。
「告知後の七十二時間、いま話したことはあなたの記憶に残る。だが、この間に第三者へ“悪魔との契約”を口外すれば、契約はすべてなかったことになる。時間もあなたも契約前の時点へ戻される。ただし——寿命は戻らない」
「メモを残すことはできるが、『悪魔』『契約』などの語は自動的に消える。“どう行動するか”の指針だけが、あなたの手元に残る」
胸の奥が沈み、視界の縁が薄く白む。こめかみに、朝にはなかった細い白髪が一本、光を拾った。膝の裏に、階段を一段ぶん抱え込んだような重さが落ちる。隼人は、うなずくしかなかった。反射ベストの男——悪魔A——は、風に解けるように視界から消えた。
——その病院の裏口では、酸素ボンベの検品表の片隅に、小さな文字で「黒瀬設備」と印字されている。白崎はペン先を紙に触れたまま、サインを留めた。彼女は顔を上げ、何かを辿るように目を細める。
隼人は知らない。だが、どこかの誰かの導線は、もう動き始めている。
市の土木事務所の薄暗いフロアで、ひとつの受信トレイが点灯した。差出人不明。本文は一行だけ。
\intra\kurose\bridge\QC\log_20190612_rev0066.csv
若い職員が、半信半疑でパスを開く。監査ログの表が現れ、編集履歴の列に同じIDが並んでいる。KSE_quipment、という綴り。職員は眉をひそめ、スクリーンショットを取り、上長にだけ送った。夜のメールは、朝になると紙に印刷され、誰かの机の上に乗るだろう。波は、静かな方角から始まる。
六月十三日〜十五日(告知から三日間)
その後、隼人は事故調査と設備会社への事情聴取に呼ばれ、夜をまたいで調書にサインした。現場再検証、関係各社との聞き取り、報道対応。赤いリボンを病院へ届けるつもりで書いた付箋は、手帳の端でめくれたまま、約二日間をやり過ごした。
翌朝(告知から三日目の朝)、川霧の残る橋で、作業員がバリケードを一旦外し、今日の工事のために脇へ寄せていた。隼人はそのそばで立ち止まり、工具箱のハンドルに赤いリボンを結んだ。理由はまだ薄く輪郭を保っている。あと半日もすれば霧のように消えると分かっているから、結び目を確かめる指先に力が入った。
欄干の向こうに、水鳥が二羽、等間隔で浮かんでいる。反射ベストの男——悪魔A——が数歩後ろに立った。彼は何も言わない。隼人も言わない。二人の沈黙は、今日の天気のように薄く、均一だ。
遠くで救急車のサイレンが短く鳴り、すぐに消えた。
隼人は橋を渡りながら、工具箱の重みを持ち直した。胸ポケットは、もう軽い。だが、結び目はそこにある。引き返す理由も、進む理由も頭に浮かぶ。だが立ち止まれば崩れる。隼人はそれを振り切って、足を前に出した。
川面の光が、朝の角度で揺れた。
三日目の夜——告知から七十二時間の終わり際。橋の下を流れる川の色は、少し冷たかった。隼人はポケットの中の小さなメモを見つめる。
『病院受付/赤いリボンを渡す/伝言:「ありがとう」』。
文字は自分の筆跡だ。理由は書かないと決めた——契約の語は書けば滲んで消えるし、ほどなく記憶も霧になる。だから行動だけを残した。膝の重さは、あの夜から続いていた。
県立中央病院の夜間入口。受付票の角に小さく『6-6』の印。守衛所の壁時計は『半』の少し前だった。面会はできない時間帯だと知りつつ、隼人は守衛に事情を説明し、夜勤のいるナースステーションへと案内された。ステーションの照明は昼白色のLEDで、冷えた白が書類の縁を硬く浮かび上がらせている。ステーションのカウンターの端に赤いリボンを置き、紙に二行だけ写す。
——お嬢さんは「ありがとう」と言いました。
——渡していただけるなら、お願いします。
背を向けかけたとき、ナースステーション前の椅子で肩をすくめる女性が目に入った。頬は青白く、しわの寄ったハンカチーフを握りしめている。彼女はリボンの赤に吸い寄せられるように立ち上がり、隼人へ一歩近づく。
「……娘、のですか」
隼人は、ポケットのメモを一瞥してから、うなずいた。声が出る位置を探す。
「……『ありがとう』、と——」
言葉が宙で切れた。
頭の奥で、薄い砂がさらさらと崩れる。何を続けるつもりだったのか、一瞬わからない。視界の端に、メモの黒い線が入る。空調の唸りはそのままなのに、次の語だけが抜け落ちた。
「——と、言ってた、そうです」
自分の言葉のはずなのに、どこかで引用するような音になった。
女性は目を閉じ、長く息を吐いた。泣き声は出なかった。出したら崩れると分かっている人の呼吸だった。
隼人は会釈をして離れた。廊下へ一歩踏み出すと、膝の内側に砂利を詰められたような重さが走る。あの夜に始まった重さだ。階段の一段が、やけに深い。視界のコントラストがわずかに落ち、歩幅が半歩、短くなる。手すりに触れた指が、さっきより冷たい。歳を——急に一つ、とってしまったような感覚。
自動ドアが閉じると、ガラスに映る自分の姿がわずかに遅れてついてくる。隼人は胸ポケットを押さえ、ゆっくりと歩いた。
その夜、守衛所の壁際のテレビモニターが消音で流れていた。画面下のテロップが帯のように走る——『第66回・川辺まつり 陸橋事故 保守点検“改ざん”の疑い 県警が関係先を捜索』。
スタジオのキャスターが口だけで言葉を刻み、VTRの隅に一瞬『黒瀬インフラ』の文字が滲む。守衛は書類に小さく判を落とし、画面を見ない。隼人は、その前をゆっくり通り過ぎる。空調の唸りだけが一定に鳴っていた。
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