公爵の全損決済(トータル・ロス)〜論理の執行官は、黄金の魔王に蹂躙される〜
生贄コード
第1話:論理の産声と、倫理の断末魔
■ 0.003%の断罪
産室には、生命の爆発を思わせる濃密なマナの残滓と、鉄錆のような血の匂いが立ち込めていた。
「おぎゃあ、あ……っ、あ……」
産声を上げたのは、光り輝く鱗の断片を肌に張り付かせた、あまりにも小さな生命だった。肺が初めて外気を取り込み、精一杯に「生」を主張する。その熱い吐息が、冷え切った室内で白く湯気となって立ち上るのを、ルーカスは見つめていた。握りつぶせそうなほどに柔らかな指。この小さな生命が、数百年後には空を裂き、世界を統べる竜種へと成るはずの存在。
だが、無慈悲な電子音がその未来を断絶した。コンソールが非情な測定結果を叩き出す。
TIME: 58583826838:0686:556] SYSTEM: LH-07 DEFICIT 0.003%
[TIME: 58583826838:0686:557] ACTION: TERMINATION [AUTHORIZED]
[TIME: 58583826838:0686:558] LOAD: MENTAL_SPIKE DETECTED
[TIME: 58583826838:0686:559] PROC: ACTIVATING EMOTIONAL_DAMPERS
[TIME: 58583826838:0686:560] STATUS: LOGIC_STABLE / ETHICS_ERASED
『0.003%の竜血濃度欠損。廃棄だ。ルーカス』
「……左様か」
ルーカスは、眉一つ動かさずに応じた。妊娠期間中、魔導演算によって予測されていた数値の揺らぎ。奇跡は起きなかった。いや、竜界の論理において「奇跡」などという不確定要素は、ただのエラーでしかない。
「LH-07は廃棄だ。規定に基づき、下位貴族への養子縁組、あるいはリソースとしての再分配を」
「……承知いたしました」
寝台の上で、妻であるユーリが力なく、しかし事務的に答える。出産直後の凄絶な疲労に顔を青ざめさせながらも、その瞳にあるのは我が子への慈しみではなく、期待に応えられなかった「部品」としての自責の念だけだ。
「……公爵、次は……。次は、竜核活性化剤の投与量を調整します。私の母体側への負荷を上げれば、0.003%など誤差の範囲に……」
「少し休め。リソースの回復が先決だ」
ルーカスは短く言い捨て、背を向けた。
廊下へと運ばれていく赤子。先ほどまで部屋を暖めていた「湯気」は、冷たい廊下の空気にあっさりと溶け、消えていく。ルーカスは、自らの手を眺めた。この手は、今しがた「我が子」という名の生命の糸を切り離した。
そして昨日は、反抗的な属国に対する「経済制裁」の書類に、一点の迷いもなく承認印を刻んだ。その一押しで、見知らぬ5,000人の民が、冬を越せずに飢えるだろう。
赤子一人。民5,000人。どちらも、天秤に乗ればただの「数値」に過ぎない。
「……最低限の犠牲だ」
暗い廊下で、誰に聞かせるでもなく呟く。その声は、かつて自分が持っていたはずの「人間としての倫理」が、冷徹な「竜界の論理」によって磨り潰される際に漏れた、断末魔のようでもあった。
■ 前執行官の幻影(A01 LOG)
冷たい石造りの廊下を、ルーカスの靴音だけが虚脱したように刻んでいく。その時、耳元でふわりと、懐かしくも忌まわしい「声」がした。
『いい判断だ、ルーカス』
実体はない。視界の端に揺らめくのは、かつて自分を飼い慣らした前執行官の、あの無機質で端正な微笑の残滓。
[TIME: 58583826838:0686:557] WARN: PSYCHE_LOAD_SPIKE (D6_DUKE)
[REPLAY_LOG: 58583826838:0686:556] ACTION: LH-07 TERMINATION_AUTHORIZED
[REPLAY_LOG: 58583826838:0686:557] WARN: PSYCHE_LOAD_SPIKE (D6_DUKE)
[REPLAY_LOG: 58583826838:0686:560] RESULT: ETHICAL_CIRCUIT_PERMANENT_OFF
『ルーカス。君の動悸が収まった。0.003%の欠損というノイズを捨てたことで、君の脳は今、純粋な「最適解」に浸っている。……異常なし。実に素晴らしい』
声は流暢に理論を告げ続ける。
『LH-07の廃棄。経済制裁の承認。君の脳内物質は一時的に乱れたが、今、急速に「正解」へと収束している。……聞こえるか? 君の心臓の鼓動が、かつてないほど論理的に、力強く脈打っている音が』
ルーカスは足を止めない。幻覚だと分かっている。だが、その声は甘露のように、彼の罪悪感の隙間に染み込んできた。
『君は、一人の親であることよりも、世界の理(システム)であることを選んだ。……それは「不幸」ではない。迷いというノイズを排除し、最適解を導き出した者にのみ与えられる、高次元の安寧だ』
「……黙れ」
『いや、君は求めているはずだ。私の肯定を。……よくやった、ルーカス。君はまた一歩、私に近づいた。君はもう、飽きることさえない「完璧な歯車」へと進化しつつある』
廊下の角を曲がった瞬間、声は消えた。残ったのは、血の匂いも湯気の熱も感じない、あまりにもクリアで、絶望的なまでに静かな視界だけだった。
■ 黄金の魔王、襲来
それから数日。帝国議事堂の論理で満ちた理路整然とした空気は、ルーカスにとって針の筵(むしろ)のようだった。
「……以上の理由により、本予算案の修正は『非効率』です。……っ」
壇上のルーカスは、わずかに言葉を詰まらせた。視界の端で、数字の羅列が赤子の指の形に歪む。
『僕を見殺しにしたの?』
視野の端に浮かぶA01コンソール画面が、処理しきれない罪悪感を「ノイズ」として吐き出し続けていた。議席に戻り、頭を振る。演算効率は著しく落ちていた。
竜界最高峰の知性,演算システムA01。
大臣を持たない異例の省である電法省、トップである倫理演算最高執行代理という立場で直接A01と繋がる最上の権利。
それが今や罪悪感の視覚化にしかなっていなかった。
休憩時間に入るとすぐ議席を立ち、冷たい水を求めて給湯室へと逃げ込んだ。ルーカスは、震える手でカップを掴んだ。A01の警告音が、耳の奥で不快な高音を鳴らし続けている。
『警告を無視するなルーカス。精神負荷増大、論理維持率低下。――速やかに「外部刺激」によるリセットを……』
「……黙れ、と言っている……っ。休めるわけがない。私はっ、完璧な……っ」
水を飲むことすら忘れ、壁に手をついた。
「なんだ。いつものキレがねぇなぁ。エルミタージュ公爵」
背後から響いた、野太く、圧倒的な余裕に満ちた声。ルーカスの背筋に、物理的な「重圧」を伴う衝撃が走る。
第二公爵家、アレス・クロノス・ヴァルキューラ。
帝国直系の証である、爛々と輝く「黄金の瞳(金眼)」を持ち、政界のすべてを金と権力、そして暴力的なまでの才覚で牛耳る魔王。
彼が動くだけで、最高級の黒貂(ソブリンサブル)をあしらった豪奢な外套が重厚な音を立て、軍服の胸元で揺れる無数の勲章――帝国の歴史そのものを決済してきた証――が、不遜な光を放つ。その身に纏うのは、一瓶で平民の年収が吹き飛ぶと言われる特注の芳香(パルファム)と、硝煙の残り香。
「……アレス閣下。……演算に、支障はありません」
ルーカスは壁に手をついたまま、必死に声を絞り出した。視線を上げることすら、今の彼には命懸けの「決済」だった。
「ほう。支障がない割には、君の瞳はひどく……『濁って』見えるが?」
アレスは、ルーカスの耳元に顔を寄せ、その「濁り」を愉しむように鼻で笑った。黄金の瞳が、ルーカスの項を、背中を、そして震える指先を、服の上から舐めるように視線で蹂躙する。
「まあ、無理はするな。帝国の大切な『部品』が壊れては、私の寝覚めが悪い。……えー、いわゆる一つの、『資産保護』だ。」
アレスはそれだけを言い残すと、贅を尽くした外套の裾を劇的に翻し、去っていった。
■ 禁断の「活力剤」
その後の会議でもルーカスの答弁は精彩を欠いていた。焦燥がルーカスを突き動かした。完璧な執行官に戻らねばならない。ルーカスは足早に執務室に戻ろうと急いだ。
そこへ、一人の部下が歩み寄る。
「閣下、お疲れのようで……。これ、ハイブリッドの間で評判の栄養剤です。脳の霧が晴れると評判なんです『泥のように重い脳が、一瞬で演算の海に戻れる』と。……どうか、ご自愛ください」
差し出されたのは、琥珀色の小さな瓶。普段の潔癖なルーカスなら、コーヒー一杯の奢りすら拒む。だが、今は「正常な演算」という麻薬を求めていた。
「……借りに、しておく」
ルーカスは執務室に入り、椅子に腰を下ろして一息ついた。そして躊躇いなく、その「毒」に縋ってしまう。
いつもなら成分表の隅から隅までまで、製造業者の最新業績報告と納税状況までチェックするほどだが、それすら思い及ばない。
喉を焼くような、しかしどこか甘い刺激。直後、脳内ログが異常な速度で書き換えられていく。
[TIME: 58583826841:0105:223] DETECT: UNKNOWN_ACTIVE_AGENT
[TIME: 58583826841:0105:224] DATA: ENDORPHINE/DOPAMINE_SURGE
[TIME: 58583826841:0105:225] SPEED: CALC_RATE_400%_ACHIEVED
[TIME: 58583826841:0105:226] SIDE_EFFECT: EMOTIONAL_LIMITER_OFF
[TIME: 58583826841:0105:227] WARN: LETHAL_EUPHORIA_OVERWRITE
「……あ、っ……。視界が、クリアに……。いや、これは……熱い……?」
幼少期、前執行官の手で過剰な竜血増強剤を投与され続けたルーカスの神経系は、常人なら微かな高揚で済むその刺激を、抗いようのない暴風へと増幅させてしまう。
下腹部から突き上げるような、身に覚えのない[検閲済み]が、彼の理性を内側から食い破り始めた。
「あ、っ……は、あ……っ、何だ、この……熱は……!」
■ 陥落、そして隔離された時間
執務室の重厚なデスクに縋り付き、ルーカスは自身の体に起きている「変異」に戦慄した。視界は確かにクリアだ。だが、それ以上に……自分の肌を撫でる空気が、軍服の裏地の感触が、狂おしいほどの「刺激」となって脊髄を駆け上がる。
[TIME: 58583826841:0122:001] WARN: NEUROTRANSMITTER_OVERFLOW
[TIME: 58583826841:0122:002] [REDACTED] [REDACTED] [REDACTED]
[TIME: 58583826841:0122:003] [REDACTED] [REDACTED] [REDACTED]
[TIME: 58583826841:0122:004] ALERT: AUTONOMIC_SYSTEM_FAILURE
[TIME: 58583826841:0122:005] RESULT: BODY_GOVERNANCE_LOST
演算が高速で回る。論理が狂う。情動リミッターが強制解除される。座っている最高級革張りの椅子の感触さえもどかしい。思わず席から立ち上がるが、絨毯を踏みしめる足裏の刺激さえ、鋭い快楽の粒となって背中を駆け上る。
「あっ……っ、ああぁ……ッ!!」
自分の声が、聞いたこともないほど艶っぽく、湿り気を帯びて響く。その時だ。
コンコン、と。
絶望的なまでに規則正しい、そして暴力的なまでに「強者の余裕」を感じさせるノックの音が、密室に響いた。
「悲鳴が聞こえたようだが、大丈夫かい? 入るぞ、エルミタージュ公爵」
答える間もなく扉が開く。そこに立っていたのは、アレス・クロノス・ヴァルキューラだった。
「閣下……あ、あ……っ」
扉の向こうから現れたアレスは、乱れた呼吸を繰り返すルーカスを、慈しむような残忍さで眺めた。
「はて、エルミタージュ公爵、随分と顔が赤いじゃないか。その椅子、そんなに座り心地が悪かったかね?」
アレスがゆっくりと、軍靴の音を響かせて近づいてくる。ルーカスは机に縋ったまま、後退りすることすらできない。アレスが纏う重厚な芳香が、[検閲済み]に侵されたルーカスの肺を直接焼き、思考を黄金色に染め上げていく。
「……老婆心ながら、言わせてもらおう。今の君は、誰の目にも触れさせてはいけない。私が『保護』してあげよう。……いい子だ、全部私に預けなさい」
「あ、閣下……っ、来ないで……くださいっ、今は、演算が……っ!」
「ほう、その状態で『演算』か。感服するねぇ。……だが私の目には、君のその[検閲済み]が、仕事よりもずっと『熱心な』報告をしたがっているように見えるが?」
ルーカスはその言葉に顔を背けるが、アレスの革手袋をした大きな掌が、震える顎を強引に捉えた。
「こっちを見ろ」
ルーカスの首が、無意識にその掌へと擦り寄った。スベスベとした皮革と肌の温もりが、最高級の麻薬のように脳を溶かす。
「……っ!? な、何を……私は……っ!!」
ハッとして顔を離すルーカス。だが、アレスは逃がさない。
「完璧な君がなぜこうなったのか、私が『解析』をしてあげよう」
アレスの指先が、ルーカスのうなじを羽毛のようにくすぐった。
「あ、………………っ!?」
膝の力が、糸の切れた人形のように失われた。ルーカスはその場に崩れ落ち、アレスの前に跪く形になる。アレスは、身を屈めてルーカスの目線の高さまで腰を下ろした。
「もう『腰砕け』か? 議員会館の廊下では、あんなに威勢が良かったのに。……今の君は、ただの『壊れた部品』にしか見えないねぇ、ルーカス君」
見上げれば、自分が「廃棄判定」した時と同じような、無慈悲で圧倒的な「理」の瞳。至近距離で燃える、冷酷なまでに美しい黄金の瞳。
親しげな声が、距離を詰めてくる。
「おや、そんなに震えて。私の目が、そんなに怖いかな? それとも……あまりに眩しくて、直視できないのかねぇ」
ルーカスの瞳は、薬のせいで瞳孔が開閉を繰り返し、潤んだ熱を隠せない。アレスはそれを、「不調な精密機械」を愛でるような眼差しで見つめている。
「……安心したまえ。ここには誰も来ない。清掃員も、秘書官もね。……私がそう『手配』しておいた」
ルーカスは直感した。詰み(チェックメイト)だ。
議事堂という公的な場所の中心で、自分は今、第二公爵という暴力的なシステムによって、「存在しない時間」の中に隔離されたのだ。
「……っ、ア、レス……閣……下……」
狂った演算を回すも、 真っ赤なエラー画面は逃れる回答を見出せない。
アレスの細められた金眼が、愉悦に歪む。
「いい瞳だ、ルーカス。絶望と熱が混ざり合って、じつに……『解析』し甲斐がある。……君はもう、この部屋から一歩も出られない。私の許可が、あるまではね」
その言葉が、最後の「論理」を粉砕した。
「まぁ、『機密保持』だ。……さあ、ルーカス。君のその『欠陥』……誰にも見せずに、私だけで『修正』してやろう」
アレスの大きな手が、ルーカスの頭を優しく、だが暴力的な強制力を持って引き寄せた。
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『さぁ、新しい実験が始まるぞルーカス。観測を始めよう』
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