第07話 彼女が、手を取らなかった理由――残された側の記憶
夜営の光景は、現実のそれとは似ても似つかないほど、
静謐で、どこか不気味だった。
焚き火の代わりに円形に配置された燐光石。
淡く冷たい青白い光が、俺たちの影を細長く引き延ばし、
地面に歪んだ輪郭を刻み込んでいる。
眠れない夜だった。
少し離れた場所では、
カオリ、ユリナ、マサトの三人が、
毛布代わりの布にくるまって横になっている。
「……マサト、寝た?」
「……ああ。あいつのいびき、さっきから一定の間隔だ。
この世界で一番信用できるリズムかもしれないな」
カオリが皮肉気に囁き、そっと背を向けた。
ユリナもまた、一度もこちらを振り返らず、
静かに呼吸を潜めている。
――彼らなりの、最大限の気遣い。
ガイドちゃんは、燐光石のそばに膝を抱えて座り、
青白い光を、まるで答えを探すように見つめていた。
「……ねえ」
俺は隣に腰を下ろし、声をかける。
「起きてるか?」
「うん」即答だった。
「眠るとね……夢に引っ張られちゃうの。
案内役が夢の中で迷子になったら、洒落にならないでしょ?」
軽い調子。
けれど横顔は、光に溶けてしまいそうなほど、儚かった。
しばらくの間、
冷たい風が銀色の草を撫でる音だけが、世界を満たす。
「……前にもね」彼女が、独り言のように呟く。
「こんな夜があったの。
もっとずっと暗くて……出口が、見えなかった夜」
初めてだった。
彼女が自ら、『ガイド以前』の記憶に触れたのは。
「この世界に来たばかりの頃。
……その時も、私たちみたいに五人だった」
「……随分、昔の話なんだな」
「ドリームランドじゃ、時間は意味を持たないわ。
でも、感覚だけは残るの」
彼女は静かに続ける。
「私以外は全員、現実から迷い込んできた『人間』だった」
俺は、黙って続きを待った。
「四人を、送ったわ」
一拍。
「……ううん。正確には、
私が一人、残ることを『選んだ』」
その言い方が、鋭く胸に刺さる。
「最後の日、現実に繋がる『銀の門』が開いたの。
でも、開門時間はほんの数分だけ」
彼女の声が、少しずつ低くなる。
「化け物に追われて、出口だけを見て、
皆、必死に走ってた……」
――今の俺たちと、重なる。
「一人の男の子がね、門の直前で足を滑らせたの」
膝の上で白くなるほど握りしめられる。
「崖から突き出した、崩れかけの足場。
指一本で、必死にぶら下がって……」
「……お前が、一番近くにいた」
「そう」短く、肯定する。
「全力で、彼の腕を掴んだわ」
一拍、沈黙。
「でも……分かってしまったの。
彼を引き上げたら、門が閉じる」
声が、かすかに震える。
「そうなれば、
先に門へ辿り着いた他の三人は、
永遠にこの悪夢に閉じ込められる」
――救えるのは、一人か。三人か。
「その子ね……」
彼女は、喉を詰まらせながら続ける。
「私の手を、砕けるくらい強く掴んで言ったの。
『一緒に帰ろう』って。
『行かせてくれ』って」
震える息。
「私の名前を……何度も、何度も呼びながら」
「……それで」
「離したわ」たった一言。
けれど、それは、永遠分の重さを持っていた。
「一緒に行ったら、門は閉じる。
だから私は……彼の手を振り払って」
彼女は、淡く笑う。
「崖の下へ。 暗闇の中へ……突き落とした」
沈黙が、凍りつく。
「三人の未来と引き換えに、彼を殺したの」
歪んだ笑み。
「だから私が今、
便利な『ガイド』なんて役を演じてるのは……
罪滅ぼし。……ううん、罰ね」
「名前を、呼ばれてたんだな」
「ええ」小さく頷く。
「だから私は、もう名乗らない。
名前を呼ばれるたびに、あの子の声を思い出すから」
彼女は、俯く。
「誰にも選ばれないように。
誰にも、あの時みたいな期待をさせないために」
沈黙が、
「……後悔してるのか?」
慎重に、だが逃がさないように問う。
「後悔は、してない」やはり即答だった。
「……でも、怖い。同じことを、もう一度するのが」
彼女は、まっすぐ俺を見る。
剥き出しの恐怖が、そこにあった。
「だから私は、選ばれない努力をする。
手を伸ばされたら、届く前に離れる」
声が、震える。
「そうすれば……私は壊れなくて済む。
誰かを、殺さなくて済む……!」
俺は、衝動的に立ち上がった。
燐光を遮るように、彼女の前に立つ。
「……それ、違う」
「何が、違うのよ」
「もう壊れてるんだ」低く、はっきりと言う。
「十分すぎるほどな」彼女の瞳が、大きく揺れた。
「お前は、自分を殺してまで、
他の誰かを生かす選択をした」
一歩、近づく。
「それは罪じゃない。
地獄みたいな責任を、背負った証拠だ」
声を、緩めない。
「それを無かったことにして、ガイドなんて仮面を被って……
そんなの、生きてるって言わないだろ」
「……それでも」彼女は、かすれた声で言う。
「手を取らなかった私は、悪い人間よ」
「一生……許されない」涙が、溢れる。
「違う」俺も即座に否定する。
「お前は、『選んだ』人間だ。その重さを、今も一人で抱えてる」
涙が、燐光石に落ち、弾ける。
「……ずるいわ」嗚咽混じりに。
「そんな言い方されたら……
また、私……選ばれちゃうじゃない」
「今度は、離すな」
静かに、逃げ道を塞ぐ声で言う。
「誰を捨てて、誰を選んでも、俺はその手だけは離さない」
一拍。
「ガイドじゃなくなっても、
名前を失ってても……俺が新しくつける」
「……だから」声を落とす。
「自分を殺すのは、もうやめろ」
ガイドちゃんは何も言わなかった。
ただ、震える指先を少しだけ開き、
青白い光の中で、所在なげに宙を泳がせる。
――その手は、
いつでも俺の手を掴める距離に、確かにあった。
「……少し休め」俺は背を向ける。
「明日は、最後の門だろ」
「……うん」
小さく。
「……おやすみなさい、お客様」
その声は、ほんの少しだけ。
仮面の裏の、少女の響きを帯びていた。
▶第8話へ続く
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