永定河の静寂

1. 運命の銃声

昭和十二年(一九三七年)七月七日、午後十時四十分。

北平(北京)郊外、永定河に架かる盧溝橋の周辺は、吸い込まれるような闇に包まれていた。

「……暑いな」

支那駐屯歩兵第一連隊、第三大隊第八中隊を率いる清水節郎中隊長は、軍帽を脱いで額の汗を拭った。夜間演習の最中とはいえ、大陸の夏は肌にまとわりつくような不快な湿気を孕んでいる。

周囲には、演習を終えて休息に入る兵士たちの、微かな装備の触れ合う音だけが響いていた。

その静寂が、突如として引き裂かれた。


乾いた音が、数発。


永定河の対岸、中国第二十九軍の陣地がある宛平県城の方向から放たれたものだった。

「中隊長! 射撃を受けました!」

伝令が叫びながら駆け寄る。清水は反射的に腰の軍刀を握ったが、その指先はわずかに震えていた。

史実という名の奔流がこの場所にあったなら、この後、さらに数発の銃声が響き、所在不明となった一人の兵士(志村菊次郎一等兵)の捜索を巡って、日中両軍は引き返せない泥沼へと突き進んでいただろう。

だが、この「正史」において、清水の背後には一人の男が立っていた。

参謀本部から「不拡大方針の徹底」という特命を帯び、極秘裏に現地視察に訪れていた幕僚、宮崎繁三郎中佐である。

「清水中隊長、動くな。抜刀を許さん」

宮崎の声は、夜の静寂よりも冷たかった。

「しかし宮崎中佐! 敵は明らかに我々を狙って……!」

「狙ってなどいない。あるいは、狙わされているのだ」

宮崎は闇の向こう、中国軍の陣地を双眼鏡で凝視したまま動かない。

「いいか、今の銃声はバラバラだ。組織的な攻撃ではない。ここで我々が反撃すれば、それこそ北京周辺を火の海にしたい勢力の思う壺だ。清水、兵をまとめろ。一発も撃ち返すな。これは命令だ」

宮崎の脳裏には、東京で石原莞爾少将から授けられた言葉が焼き付いていた。

『支那と戦えば、背後のソ連が笑い、海を隔てた米国が牙を研ぐ。帝国が戦うべき相手を間違えてはならん』

2. 緊迫の宛平県城

日付が変わった七月八日午前。

宛平県城内での交渉は、遅々として進まなかった。日本側からは特務機関の中島渉少佐らが、中国側からは冀察政務委員会の幹部たちが、薄暗い部屋で対峙していた。

「我が方の兵士が一人、まだ戻っていないのだ。城内への立ち入りを許可してもらいたい」

中島の要求に対し、中国側の指揮官、吉星文は声を荒らげた。

「そんなはずはない! 我が軍は発砲を禁じている。これは貴軍の自作自演ではないのか!」

部屋の温度が数度上がったかのような殺気が満ちる。

その時、部屋の扉が乱暴に開かれた。現れたのは、先ほどの宮崎中佐だった。彼は一枚の電文を机に叩きつけるように置いた。

「志村一等兵は発見された。道に迷い、自力で帰隊した。これで立ち入りの理由は消滅したな、吉司令」

一瞬の沈黙。中国側の幹部たちが顔を見合わせ、安堵と疑念の混じった表情を浮かべる。

「……左様か。ならば、これで話は終わりだ」

「いや、終わりではない」

宮崎は椅子を引き、強引に座った。

「この『誤解』がなぜ起きたのか。そして、誰が闇夜に紛れて銃を放ち、我々を争わせようとしたのか。それを今ここで、貴公らと徹底的に洗いたい。これは軍の衝突ではなく、共産分子による挑発の可能性が高い。そうではないか?」

宮崎の瞳には、単なる現地解決以上の執念が宿っていた。彼は知っていた。この小競り合いを「事件」として拡大させ、陸軍中央の武断派が華北へ増援を送るための口実にする――そのシナリオを、今この瞬間に握りつぶさねばならないことを。

3. 東京の暗闘

盧溝橋での停戦交渉が進む中、東京の参謀本部では、文字通り「戦争」が始まっていた。

「不拡大だと? 石原部長、貴殿は正気か!」

作戦課長・田中新一少佐が、石原莞爾の机を叩いて詰め寄っていた。周囲には武藤章中佐ら、いわゆる「一撃多難派(中国に一撃を加え、速やかに屈服させるべきと考える派閥)」が取り囲んでいる。

「現地では我が国の威信が傷つけられたのだ! 直ちに三個師団を派兵し、北京・天津を平らげるべきだ。今やらねば、支那はますます増長し、排日運動は収まらんぞ!」

石原は、吸いかけのタバコを灰皿に押し付けた。その顔には、かつて満州事変を独断で引き起こした男の面影はない。今の彼は、帝国の限界を誰よりも理解している「経営者」の顔をしていた。

「田中、お前の言う『一撃』が、どれほどの期間で終わるか言ってみろ。一ヶ月か? 三ヶ月か?」

「……長くとも半年もあれば」

「嘘をつけ」

石原は立ち上がり、背後の巨大な地図を指差した。

「支那の広大さを忘れたか。奴らは負ければ奥地へ逃げる。我々はそれを追いかけ、兵站線は伸び切り、背後の満州は空になる。そこをスターリンが突く。さらに、その混乱を見て英国が、米国が黙っていると思うか? 奴らは石油という首輪を締めてくるぞ。帝国は自ら、破滅への扉を開こうとしているのだ」

「しかし、国民が納得しません! 新聞各紙は既に『暴支膺懲』を掲げ、熱狂している!」

「国民を納得させるのが、政治の、そして我々幕僚の仕事だ。……杉山大臣を呼べ。近衛首相には私から直接話す」

石原はこの時、一つの賭けに出ようとしていた。

単なる現状維持ではない。中国を「敵」としてではなく、将来の対米英戦における「巨大な防波堤」へと作り替える。そのためには、今、この瞬間に中国軍を完膚なきまでに叩き潰すのではなく、彼らに「名誉ある譲歩」をさせるための、極めて高度な外交的軍事行動が必要だった。

4. 上海への飛び火

しかし、歴史の歯車はそう簡単に止まりはしない。

北京での停戦工作を嘲笑うかのように、戦火は南の国際都市・上海へと飛び火した。

八月九日。上海の大山中尉殺害事件。

これを機に、蒋介石は自らの精鋭部隊を上海周辺に集結させ始めた。彼もまた、国内の抗日世論に突き動かされ、日本との全面対決を避けては通れない状況に追い込まれていたのである。

東京、参謀本部の一室。

宮崎繁三郎が北京から戻り、石原に報告を終えたところだった。

「部長、上海が動きました。蒋介石は本気です。あそこに、自慢のドイツ式師団を注ぎ込んでいます」

石原は窓の外、皇居の森を眺めていた。

「……上海か。蒋介石は、あそこの市街戦に我が軍を誘い込み、米英の介入を誘うつもりだな。長引けば、我々に勝ち目はない」

「いかがされますか」

石原は振り返り、鋭い眼光を放った。

「戦い方を変える。陸軍だけで勝とうと思うな。海軍を、特に航空隊をこれまでの三倍、五倍の規模で動員する。そして、第十軍の編成を急げ。上海の正面から突っ込むのではなく、奴らの背後を断つ。ただし、目的は南京占領ではない」

「……と、仰いますと?」

「蒋介石に、北京と上海の二箇所で『同時に』、絶望を味わわせるのだ。その絶望が、彼にペンを取らせる。講和という名の、協力の誓約書にな」

石原の言葉通り、この瞬間に大日本帝国の軍事戦略は大きく舵を切った。

それは、武力による制圧から、相手の「戦意」と「政治的選択肢」のみを精密に破壊する、新しい次元の戦争への転換であった。

後に歴史家たちは、この昭和十二年八月を**「理性が狂気を制した月」**と呼ぶことになる。

(第1話・完)

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