願わくば一輪の花束を

雨宮 瑞樹

第1話 籠の鳥

 もしも、生まれてくる場所を選べたなら、私は絶対にこの場所を選ばなかった。

 そう思う度に、焦燥に暮れ、空しくなり、感情を殺し、思考を止める。

 ただ眠りにつく前だけは、どうしても本音が脳裏を掠めた。

 早く、ここから逃げ出したい。

 



 *****


 母と兄の明るい笑い声は、二階の一番端にある私の部屋にまで届いてくる。私は、布団の中で耳を押さえた。


 母は、昔から私へ向ける愛情は薄い。

 私が幼少の頃、母・由紀子は父と離婚している。離婚した理由は、浮気だったという。女の陰に気づいて、父を問い詰めたところ、恐れをなした父は女の家に転がり込んで、そのまま帰ってこなくなったらしい。その数日後、離婚届が送られてきて、母が即日役所へ提出しに行ったという。その話は、しつこいくらい母から聞かされていた。

 昔から私が必要とされる時は、鬱憤を晴らしたいときだけだった。

 

 兄と私の三人暮らしになったのち、母は自分の親から引きついだ遺産であったアパートを売り払い、ホテル業を始めた。最初は民宿くらいのこじんまりとしたビジネスホテルで、経営するのは一苦労。

 当時、母は私に言った。

 

「お母さん、頑張って仕事しているの。あんたたちを食べさせるには、必要なことよ。わかるでしょ? だから、みんなで協力して頂戴。弘嗣ひろつぐお兄ちゃんは、いつかお母さんの仕事を継ぐから、勉強が仕事。紅羽くれはは、私の言うことを従順に聞くことが仕事。わかった?」

 弘嗣は、元気に頷き、私も続いた。

 最初は、母に言われた通りの家事全般をすべてこなした。学校から帰ってくるなり、買い物に行って、三人分の食事を作る。夜はみんなの洗濯物を片付ける。友達の誘いはすべて断って、ひたすらに身を粉にして家のために働いた。

 そうしている間に事業は、大成功。離婚当時は、小さなアパート住まいだったのが、周囲に豪邸といわれるほど、大きな家にすめるようになった。

「本当にこんな大きな家に住むの?」

 私と兄の疑問に、母は笑って答えていた。

「当然でしょ。お母さんは、大きな会社を経営している社長なんだから」

 ほとんど化粧などしなかった母は、濃い化粧と香水を漂わせて、胸を張って答えていた。

 

 そして、たった数年で、事業は関東全域に広がり、数十棟経営するホテルグループとなった。

 同時に、それまで私がこなしていた家事は、お手伝いさんへ任せられるようになり、私に与えられた役目も変わっていった。


「あなたの整った顔立ち、白い肌、長い手足。特にあなたの透き通った茶色い瞳は、ビー玉みたい。私でも、引き込まれるわ。外見、とても綺麗なんだから。それを使わない手はない。これから、紅羽は持ち前の美貌をさらに引き立たせるために、今後は作法を学んでちょうだい。それが、あなたに課せられた新たな使命よ」

 そういわれ、茶道、華道、書道、日本舞踊……作法に通ずるあらゆる習い事をすることになった。着ていく服も、高級ブランド品ばかり用意されて、それを拒否する権利など与えられることはなかった。

 あなたは、私の言われた通りのことをしていればいいの。

 母から念仏のように唱えられ続けた。

 鏡に映る自分の顔なんか、みたくもなかった。


 高校に上がるころには、みんなから言われた。

「カゲは、いいよね。洋服も、習い事も高級なのばっかり。大した努力もせずに裕福に暮らせる。私の人生とカゲの人生と交換してほしいよ」

「何もいいことなんて、ないよ」

 謙遜なんかじゃなく、本気でそう言っても理解などしてくれることはなかった。

「カゲにそういわれると、嫌味にしか聞こえない。なんかムカつくんだけど」

 

 私のことをいつもカゲと呼ぶ松坂梓は、誰よりも鋭い言葉を使ってくる。背も高く威圧感もある上に、その瞳も鋭利な刃のようで、恐怖さえ感じる存在だった。近寄りたくないのに、何故か私のことを構ってくる。背筋に鳥肌が立つのは、気のせいだと言い聞かせるしか、その場を逃れる方法を見いだせなかった。

 

「カゲが着てる服、カブスだよね? 雑誌でこの前見たんだけど、三十万って書いてあったんだよ? それを学校に着てくることが、どうかしてると思わない?」

 梓が周囲を焚き付けるようにそういうと、みんなの口はすぐに勢い付いていた。

「マジで? ひくんだけど」

「時と場所を考えなよ」

「ってか、私いつも思っていたのよ。カゲのセンス最悪だって。値段ばっかりで服ダサいし」

「本当、本当。スタイル抜群の梓が着たら似合うのにねー」 

 そうやって心底軽蔑され、馬鹿にされ、嘲笑われる。

 好きで着てるわけじゃないのに。

 反論の言葉は、苦笑いで沈めていくことしかできなかった。

 私へ嫌みの言葉を投げかれられない日は、ほとんどなかった。しかし、佐藤蓮という俳優が世間を賑わせるようになってからは、言葉の暴力は減っていった。

 

「ねぇねぇ、昨日テレビに佐藤蓮くん出てたのみた?」

 梓が夢見るようにそういうと、みんなもキャーっと騒いでいく。

「みたみた! カッコよすぎた!」

「しばらく、テレビの前から動けなかったよー」

「今度、海外ロケ行くんだって! 私、めちゃくちゃお洒落して、空港まで行ってこようと思ってさ」

 梓が得意げに鼻を鳴らすと、みんなが持ち上げていた。

「梓、足長いからミニスカート履いていったら?」

「そうだよ! 長い脚を強調すれば絶対目に入る」

 高く持ち上げられた梓は、まんざらでもない顔をして頷いていて、盛り上がっていた。

 温度がどんどん高くなって、テンションも上がっていく。そうやって、梓にとって鬱憤を晴らすサウンドバックの役目を果たしていた私の存在は、急激に薄れていった。好きなテレビをみる時間も、スマホも制限ばかりで、ほとんど自由を与えられていない。みんなの話題についていけるはずもなかったし、ついていきたいとも思わなかった。

 

 そうやって、梓たちの意識の外に追いやられ、距離があいていくほど、気持ちは楽になった。

 顔も知らないその人に、助けられたような気がした。

 自分で居心地のいい距離に身を置きはじめると、心からほっとした。やっと、落ち着く場所を見つけた。

 そう思ったのに、その平穏は一時だけ。担任からすぐに声をかけられた。


「何か、いじめとか受けてるのかい?」

 担任は心底私を心配しているという顔をしていうが、私に問題が起きれば、母に何を言われるかわかないという怯えが透けて見えた。

「別に何もありません」

「そうか。ならいいんだ。みんな、もっと仲良くしたいと思っているみたいだぞ? 影山ももっと心を開けばいいんじゃないか?」

 的外れな助言すぎて、言葉がなかった。

 結局、私は担任に梓たちとは違う別の女子グループの中に無理やり押し込まれたが、気なんて合うはずもなかった。みんなが気まずそうな顔をするばかり。憂鬱すぎて胃が痛くなりそうだった。


 家に帰っても、会社の取引先の人がいたりして、私は母の機嫌を損ねないよう気を付けながら、挨拶をする。

「さすが、由紀子社長の娘さんだ。とても気品があって、美しい」

 そんな言葉をもらうたびに、母は上機嫌になって、取引先の相手も社長の機嫌が取れて満足そうだった。私は、母の存在を引き立たせるためのパーツ以外のなにものでもなかった。

 家も、学校も、私の居場所はどこにもなかった。

 世界はみんな母中心に回っている。

 意志、感情、すべて消すことでしか、自分を守る方法を知らなかった。


 習い事をしているときも、ただ無心だった。先生に言われたことをそのまま繰り返すだけ。

 各々の先生から、褒めちぎられたが、すべての言葉は、母のご機嫌を損ねないためのもの以外になかった。全部上辺だけだ。私へ向けられる賞賛の声が響くほど、心が凍っていくようだった。

 

 そんな殺伐とした日々でも、華道で赤以外の花を触るときだけは、好きだった。

 アイリス、ルリマツリ、ブルースター……優しく放つ青さは、私に寄り添ってくれているように思えた。

 

 しかし華道が終わり、家に帰った後は、必ず梅を生けることが決められていた。

 花に興味のない母が、唯一好きな花だからだ。

 花に罪はない。梅だけはどうしても好きになれなかった。母は花言葉なんか知らないだろうが、私は知っていた。上品、高潔、忍耐、忠実。母が私に課している使命をこの花からも、口うるさく訴えられているような気がして吐き気がした。それでもやはり、拒否権なんてなかった。

 今日も梅の花を、無心で生ける。

 

 拘束の鎖をつながれ続けた中高時代を卒業して、大学に上がった。

 みんなは笑顔だったが、私は相変わらずだった。


 そんなある日。

 学校の掲示板に、あるポスターを見つけた。

『長い学生の夏を、忘れられないものにしよう』

 ドイツ、オーストリア、イタリア、フランス、スペイン。夏休みすべての時間を費やして、廻っていくというものだった。

 ポスターの写真は、輝く青い海に、古い町並み。上空に鳥が優雅に飛んでいる。一瞬で目と心を奪われた。

 すべての自由がそこに凝縮されているような気がした。


 その日の夜、私は思い切って母に懇願した。


「教養を深めるためにも、このイベントに参加することを許してもらいないでしょうか?」

 こんなお願いをすることは、記憶にある限りしたことはなかった。だから、母は驚いていたが、それはすぐに呆れに変わって、ふんっと鼻で笑っていた。

「ダメに決まってるでしょ。あなたには、そんなの余計な経験は、必要ない」

 あっさり、却下されていた。落胆はなかった。そういわれることは、想定内だった。

 そのあと、刻々と説教をされて、部屋に戻る。すぐに自分の机の引き出しの奥にしまってあった通帳を手にしていた。

 小学生の頃から毎月の小遣いだけは、世のサラリーマン以上に貰っていた。使う機会などほとんどなかったために、コツコツ貯金していたのだ。

 

 このお金は、いつか家を出るために使おう。そう決めていたものだ。今回の旅費に充てても、出ていく際のお金はまだ潤沢に残っている。

 束の間でもいいから、自由を味わいたい。その一心しかなかった。

 そして、私は初めて母の言いつけを破った。

 

 

 

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