東京鬼ごっこ
桃神かぐら
第1部 地下に生きる
第1話 昨日の東京
理解できなくてもいい。ついて来い。
東京の朝は、いつも“整っている”。
信号は秒で切り替わり、横断歩道の白は磨かれた規則みたいに並び、改札は人を飲み込むだけの口になっている。誰もが急いでいるのに、誰もが同じ速度で、同じ方向に流れていく。
その“整い”に、
助けられていた、という言い方は変かもしれない。けれど、彼にとって世界は「分かりやすいほど安全」だった。目の前の交通量、歩行者の密度、次の信号が青になるまでの残り秒数。全部が数字になって頭の中で並ぶ。並んだ数字は、間違いなく次の行動を教えてくれる。
だから迅は、いつも同じ時間に家を出た。いつも同じ曲がり角を曲がった。いつも同じコンビニの前を通った。
そして、いつも同じ通学路で——
夏葵は、女子校の陸上部員だ。見た目で分かる。脚の筋がきれいに割れていて、歩き方が“走りの余韻”を残している。歩いているのに、重心が前にある。いつでもスタートが切れる。
「おはよ」
夏葵が先に言った。速い。挨拶まで短距離。
迅は小さく頷く。
「おはよう」
二人の会話は、これがほぼ全部だ。仲が悪いわけではない。深い話をする時間がないわけでもない。ただ、二人とも“朝に余計なことを増やさない”。
増やすと、遅れる。
遅れると、危ない。
それが、東京の常識だった。
——昨日までは。
角を曲がった先、通学路が大通りにぶつかる交差点。そこで、
彼女も女子高生だ。制服の上に薄いウィンドブレーカー。髪をひとつに結んで、指先でリストウォッチをいじっている。陸上部のマネージャーらしく、靴は走れるタイプのスニーカー。足首に無駄がない。
「迅くん」
玲奈が気づいて、軽く手を上げた。
迅は彼女を“知っている”というより、“見ている”に近い。近所で顔を合わせる程度。夏葵とは部活の関係で話したことがあるらしいが、迅はそれに乗らない。彼はいつも必要な分だけ世界を持つ。
今日も、そのはずだった。
信号が赤から青に変わる。
横断歩道に、人が一斉に乗る。川が動くみたいに。
その川の真ん中で——
“それ”は現れた。
最初に目に入ったのは、影だった。
ビルの壁に、あり得ない角度で落ちた影。人の影ではない。長い。折れている。何かが“増えている”。
次の瞬間、影は立ち上がった。
いや、影が立ち上がった、という表現は違う。影の中から、立ち上がってきた。
黒く、濡れたような肌。肩が異様に幅広く、腕が長い。指が多い。顔の輪郭が曖昧で、目だけが妙に白い。角——角のように見えるものが、頭から不自然に伸びている。
人間の形を真似た“何か”。
それが、横断歩道のど真ん中にいた。
誰かが笑った。
「……なにあれ、撮影?」
別の誰かがスマホを上げた。
「映画じゃね? すげー」
東京の朝に、異物が混じっても、最初に出るのは驚きじゃない。“解釈”だ。人はすぐに日常へ回収しようとする。撮影、イベント、ドッキリ、そういう箱に放り込めば安心できるから。
迅の頭でも、瞬間的にその箱が並んだ。
でも、次の瞬間——箱ごと叩き潰された。
鬼——と呼ぶしかないそれが、手を伸ばした。
ただ、伸ばしただけだった。
腕はゆっくり、空気をかき分けるように前に出て、目の前のサラリーマンの胸に触れた。
触れた瞬間。
サラリーマンの体が、紙みたいに折れた。
音がした。骨が潰れる音。服が裂ける音。肺から空気が抜ける音。人間が壊れる音。
倒れる、ではない。崩れる、でもない。潰れる。
サラリーマンはその場でぐしゃりと座り込み、次の瞬間、前のめりに横断歩道へ伏せた。顔が見えない。見えないけれど、見なくても分かる。
死んだ。
信号の青が、まだ点いていた。
——東京の常識が、死んだ。
一拍遅れて、叫びが上がる。
「うわあああああっ!」
「なに、なにこれ!」
「警察! 救急!」
人の川が逆流する。押し合い、引っかかり、転び、上に乗り、泣き叫び、叫ぶ声を掻き消すようにクラクションが鳴り、車が止まり、さらに混乱が増える。
この混乱の中で、人は死ぬ。
鬼に触れられなくても、死ぬ。
迅はその事実を“見て”しまった。
転んだ女子高生の足に、後ろから突っ込んだ男の膝が乗る。女子高生が悲鳴を上げ、さらに後ろから人が押し、女子高生の足首が変な角度に曲がる。
その隣で、ベビーカーが押し潰されそうになっている。
夏葵が、一瞬で動いた。
「っ……!」
踏み切りのスタートみたいに、横へ飛ぶ。ベビーカーの取っ手を掴んで横に引く。母親が何も考えずにしがみつく。夏葵は二人まとめて車道側の隙間へ押し込んだ。危険だが、横断歩道の中央よりマシだ。
迅も動いていた。
頭の中の数字が、全部赤に変わる。
鬼の位置、歩行者の密度、車の動き、逃げる方向の選択肢。最短は——無理。最速は——詰む。ここで“正しい”は死ぬ。
迅は、夏葵の肩を掴んだ。
「こっち!」
玲奈も、迷わずついてくる。彼女は走れる。走り方が“逃げ”ではなく“移動”だ。速いのに、周りを見る目が残っている。
三人は、横断歩道の外側——信号機の柱の陰へ滑り込む。
鬼が、ゆっくり頭を回した。
白い目が、こちらを向いた気がした。
見られた。
そう思った瞬間、心臓が冷たくなる。理屈じゃない。生物としての本能が叫ぶ。あれは狩る。狩ることに迷いがない。
夏葵が息を吐いた。
「……なに、あれ」
玲奈の声が震えていないのが逆に怖い。
「信号、まだ青……」
迅は答えない。答えがないからではない。答えを探す時間が、死ぬ。
「走る」
迅は短く言って、先に動いた。
三人は歩道を外れ、ビルの脇の狭い路地へ飛び込む。路地にはゴミ袋、放置された自転車、看板の足。東京の裏側の“散らかり”がそこにはある。整っていない場所は、逆に人が少ない。
少ない場所は、選べる。
路地の奥から別の叫びが聞こえた。交差点とは違う、もっと近い。
迅は一瞬、振り返る。路地の入口からは見えない。だが、聞こえるだけで分かる。鬼は増えた。今起きているのは、一匹ではない。
「迅くん」
玲奈が言う。息が乱れていない。声は低い。観測の声だ。
「さっき、あの……“触れた”だけで、潰した」
迅は頷く。
「触れたら終わるタイプがいる」
夏葵が歯を噛む。
「タイプ……?」
迅は答えない。答える代わりに、角を曲がる。
角の先に、別の通り。そこも人が走っている。だが、さっきより小集団だ。三、四人単位で散っている。
その中に、先生らしい男がいた。
背が高く、スーツではない。ジャケットにリュック。手には笛——体育の先生が持っているような。声がでかい。
「落ち着け! 走るな! 押すな! 子どもを真ん中に!」
善意の正しさが、そこにあった。
先生は五、六人の高校生を集め、通りの端に寄せている。そこにさらに人が合流しようとしている。集まれば安心できる。集まれば助け合える。集まれば——
迅の頭の中で、赤が増える。
密度が上がる。動きが鈍る。パニック時の圧死リスクが上がる。鬼が来た時、逃げ道が塞がる。今、鬼の数が不明。未知に対して“集団”は弱い。
先生がこちらに気づいた。
「君たち! こっちだ! 一緒に——」
迅は首を振った。
先生の顔が一瞬凍る。「なぜ?」という顔だ。理解できないはずだ。理解できなくていい。
ついて来い。
迅は夏葵と玲奈を連れて、先生の集団を“避けるように”路地の反対側へ走った。
背後で、先生が叫ぶ。
「待て! 危ない! 一人になるな!」
その声の正しさが、迅の背中に突き刺さる。
それでも、止まらない。
——止まったら、全員死ぬ。
次の角を曲がると、工事現場があった。仮囲いの青い壁。資材置き場。コーン。脚立。東京の“途中”。
夏葵がすぐ理解したみたいに動く。脚立を蹴って倒し、路地の入口を半分塞ぐ。追ってくる人間を止めるためじゃない。追ってくる“何か”の速度を削るため。
迅は資材置き場から、鉄パイプを一本掴む。重い。だが握れる。振れる。武器になる。
玲奈は工事現場の掲示板を見る。安全第一。施工会社。責任者。電話番号。そんな情報が、今は無意味だ。
……いや、無意味じゃない。
玲奈は視線を横に走らせる。仮囲いの角。道路の白線。マンホールの位置。彼女の視線は“逃げ道”ではなく“境界”を探している。
「迅くん」
玲奈が小さく言った。
「……さっきの路地、入口のところ。追ってきた人、急に止まった」
迅の脳が即座に映像を再生する。確かに、背後の気配が一瞬薄くなった。夏葵が脚立を倒したから? 違う。脚立より手前で、空気が切り替わった。
境界。
夏葵が息を吐く。
「追ってこないなら、ラッキーじゃん」
迅は首を横に振る。
「ラッキーで終わるなら、最初から誰も死なない」
その言葉が冷たいのは分かっている。分かっているが、温めている暇がない。
工事現場の向こうの通りから、音が来た。
足音ではない。
ズル……ズル……という、湿った擦過音。
そして、先に現れたのは“腕”だった。
黒い腕。長い。指が四本ではない。五本でもない。数えるのを拒む形。
腕が、仮囲いの角からゆっくり伸びる。
その腕の先が、空を掴むように動いた。
——掴まれた。
見えない何かが、通りの向こうで宙に浮いた。次の瞬間、それは“人”だった。さっきの先生の集団の中の一人——女子高生が、引きずられるようにこちらへ飛んできた。
いや、飛んできたのではない。投げられた。
女子高生の体が、空中で回転する。悲鳴が途中で切れる。
地面に叩きつけられる——と思った瞬間、夏葵が飛び出した。
速い。迷いがない。女子高生の腕を掴み、地面に落ちる前に自分の身体を滑り込ませるように受け止める。
どん、と鈍い音。
夏葵の背中が地面に擦れる。痛いはずだ。だが彼女は顔色を変えない。
女子高生は息をしている。生きている。生きているが、目が焦点を結んでいない。
夏葵が低く言う。
「……殺さないタイプもいるんかよ」
迅は、鉄パイプを握り直した。
仮囲いの角から、鬼が姿を現す。
同じ“鬼”のはずなのに、さっきのとは違う。
体は細い。肩が落ちている。頭がやけに小さい。白い目が、二つではない。三つあるように見える。動きは遅い。でも、腕が長い。異様に長い。腕だけが地面に触れそうなほど。
そして——その鬼は、こちらを見ていない。
鬼は、空を見ている。空を見るふりをして、“全体”を見ている。
迅は直感した。
こいつは、押す。飛ばす。分断する。
殺さない。
殺さないが——殺すより厄介だ。
飛ばされた先に、別の鬼がいるなら、それは死刑宣告と同じだから。
背後で、先生の声が聞こえた。工事現場の入口に、集団が押し寄せている。
「そこだ! そこへ行け! 壁がある! 守れる!」
正しい。壁があれば守れる。狭い場所なら、守りやすい。集団なら、支え合える。
——正しすぎる。
迅は、鉄パイプを構えた。
夏葵が迅を見た。目が言っている。「殺す?」と。
玲奈は女子高生の呼吸を確認しながら、迅の視線の先を見る。玲奈は“止めない”。止めるべき理由がないことを、もう理解している。
迅は決めた。
「殺す。今、こいつを殺して道を作る」
夏葵が即座に頷く。確認がない。相談がない。信頼だけがある。
迅は走った。
鬼は、こちらを見ない。見ないまま腕を振る。空気が裂けるような音。見えない力が来る。迅の身体が持っていかれそうになる。
——持っていかれる前に、足を止めた。
瞬間、世界が静止したみたいに見えた。
迅は、鬼の足元を見る。地面に影がある。影が、妙に“線”を作っている。仮囲いの角に沿って、影が切れている。そこから先、影の濃さが違う。
境界。
鬼の腕の先が、境界の線を越えない。
越えないのか。越えられないのか。
どっちでもいい。
迅は境界の“こちら側”から、鉄パイプを突き出した。
鬼の胴体に当たる——と思った瞬間、鉄パイプが弾かれる。硬い。金属ではない硬さ。ゴムのようにしなるのに、岩のように戻る。
迅は歯を噛む。
「中心だ」
言葉にした瞬間、鬼が首を傾けた。
——見た。
白い目が、迅の目の奥を見た気がした。
その瞬間、夏葵が横から飛び込んだ。
夏葵は鬼に触れない。触れたらどうなるか分からない。彼女は鬼の腕を“踏む”。踏む位置は関節。そこに全体重を乗せて、腕を地面に叩きつける。
腕が一瞬、固定される。
迅はその隙に、鉄パイプを鬼の胸——心臓の位置に突き立てた。
硬い。刺さらない。なら——打つ。
迅は両手で鉄パイプを握り、全体重を乗せて押し込む。押し込むのではない。叩き込む。
ゴン、と鈍い音。
鬼の胸の奥で、何かが割れた音がした。
次の瞬間、鬼の体が“ほどける”ように崩れた。
黒い肌が砂のように崩れ、白い目が落ちて、地面に当たる前に消える。腕も、足も、角も、全部が霧になって散った。
鬼が——死んだ。
迅の呼吸が一つ、遅れて戻る。
夏葵が笑いもせず、淡々と言った。
「殺せるんだ」
迅は答えない。
殺せる。
それは救いじゃない。
“選べる”という地獄だ。
背後の集団が、工事現場へなだれ込んできた。先生が叫ぶ。
「よし! 今のうちに——」
だが、その瞬間。
別の影が、集団の中に混じった。
さっきの鬼とは違う。薄い。黒いのに薄い。空気が冷える。肌が粟立つ。
先生の声が止まる。
誰かが、息を吸う音がする。
そして——
最初に潰れたサラリーマンと同じ音がした。
ぐしゃり。
集団の真ん中の誰かが、触れられていないのに潰れた。触れられていない。なのに。胸が内側から押し潰されたみたいに。
「え……?」
先生の声が震える。
二人、三人、連鎖する。
誰も触られていないのに、潰れる。まるで空気に圧がかかったみたいに。集団が密集した瞬間、その密集が“条件”になったみたいに。
正しい判断が、死を呼ぶ。
夏葵が、女子高生を抱えたまま立ち上がる。
「……ここ、ヤバい」
迅は、鉄パイプを持ったまま、集団を見た。
助けたい、という感情が湧く前に、数字が並ぶ。
密度、条件、鬼のタイプ、逃走ルート、三人の生存率、救助に割ける秒数。
救助に割ける秒数は——ゼロ。
「行く」
迅は背を向けた。
夏葵は女子高生を地面に置く。置く、というより、押し返すみたいに。女子高生は呻く。生きている。生きているが——この場では、死に近い。
玲奈が、女子高生の手を一度だけ握った。
「……ごめん」
謝罪じゃない。区切りだ。
三人は走り出す。
背後で、先生の声が裂ける。
「待て! 置いていくな! 助けろ! 人が——」
その声が途中で折れる。
折れた理由を、迅は見ない。見なくても分かる。分かるから見ない。
走りながら、玲奈が言った。
「迅くん」
「なに」
「さっき、あの……長い腕の鬼。境界、越えなかった」
迅は目線を前に固定したまま答える。
「越えられない場所がある。縄張りか、範囲か——」
言いかけて、迅は口を閉じた。
“ルール”と言いそうになったからだ。
これはゲームじゃない。
説明がある世界じゃない。
でも、世界には法則がある。
法則があるなら、死なない可能性がある。
玲奈は続ける。
「……それと、もう一つ」
「なに」
「鬼、あの一匹じゃない。今、さっきの集団……別の死に方だった」
迅は頷いた。
「種類がある」
夏葵が息を吐きながら笑う。
「最悪。東京、終わったじゃん」
迅は言った。
「終わってない。終わったと思ったら、死ぬ」
夏葵が前を見た。
「じゃあ、どうすんの」
迅は答えた。
「生き残る」
それだけだ。
理解できなくてもいい。ついて来い。
三人が走り抜けた先、路地が開けて、都道に出る。車は止まっている。人が叫び、電話が鳴り、サイレンが遠くで鳴っているのに、近づいてこない。近づけないのかもしれない。近づいても意味がないのかもしれない。
東京はまだ動いているのに、東京の機能だけが死んでいる。
玲奈が、歩道の端で足を止めた。
迅が振り返る。
「どうした」
玲奈は都道の向こうを見ている。瞳が静かだ。静かすぎて、逆に怖い。
「……同じ道なのに、空気が違う」
「違う?」
「うん。さっきの境界。ここから先、音が変わる。人の声の反響が——変わる」
玲奈は地面の白線を指さした。
ただの道路の線だ。けれど、彼女の指が示す場所には、確かに“見えない線”がある気がした。
夏葵が鼻で笑う。
「玲奈、こわ」
玲奈は笑わない。
「怖いのは、そこじゃない」
玲奈は言った。
「……この線の向こう、追ってこない。さっきの“潰すやつ”」
迅の背中に冷たいものが走る。
追ってこない?
追えない?
縄張り。
迅はその線を跨がない。
跨がずに、線のこちら側から都道の向こうを見る。
遠くに、白い目がひとつ、ちらりと見えた気がした。
白い目は、こちらを見ているのに、動かない。
まるで——線の向こう側にいるものは、線を越えられない、とでも言うみたいに。
迅は低く言った。
「……分かった」
夏葵が聞き返す。
「なにが」
迅は答えない。
答えを言葉にした瞬間、それは“油断”になる。
油断は死ぬ。
迅は踵を返し、線のこちら側に沿って走り出した。
夏葵と玲奈がついてくる。三人の影が、朝の光の中で並ぶ。
東京は、昨日の東京じゃない。
でも——
死ななければ、勝ちだ。
それだけは、もう分かっていた。
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