子宮(ハコ)の中のおじさんたち――または如何にして私は心配するのを止めて電気ショックを愛するようになったか

森崇寿乃

第一部 素晴らしき共感の世界


 二〇二六年、夏。東亰都トンキョウトの空は、ねっとりとしたポリティカル・コレクトネスの湿気で覆われていた。

 新宿副都心の超高層ビル群には、巨大なホログラム垂れ幕が掲げられている。都知事選の時に見たような極彩色のデザインで、そこにはこう書かれていた。

『痛みを知らぬ者に、管理職の資格なし』

『あなたの想像力、行政が補助ブーストします』

 午前八時三十分。中堅商社「大日本 事無ことなかれ商事」の営業二課長、田端(四十八歳)は、通勤電車の吊り革にぶら下がりながら、胃の腑が締め上げられるような感覚を味わっていた。満員電車の圧力のせいではない。車両内のデジタルサイネージで、繰り返し流される都政広報動画のせいだ。

 画面の中では、アニメ風の美少女キャラクター「ジョカツちゃん」が、満面の笑みで巨大なハンマーを振り上げている。

「ねえねえ、おじさんたち! まだ『わかったつもり』でいるの? 生理痛はね、下腹部をダンプカーで轢かれるような痛みなんだよ! 想像して? できない? じゃあ、体験しましょ!」

 ドカン、という効果音と共に、画面内のスーツ姿の男性キャラクターが感電したかのように骨格を透けさせて吹っ飛んだ。

 田端はそっと目を逸らした。車両の優先席付近では、「マタニティマーク」ならぬ「共感済みマーク」を鞄につけた若い男性社員が得意げに座っている。あれは、都が認定した講習を受けた者だけに与えられる免罪符だ。あれを持たない田端のような旧人類は、電車内での呼吸音さえもハラスメントと見なされかねない。

 会社に到着すると、入り口のAIゲートが田端の表情筋をスキャンした。

『オハヨウゴザイマス、田端課長。現在の共感スコアは四十二点デス。表情が硬イデスネ。生理中の女性社員に対スル潜在的加害意識ガ検知サレマシタ。直チニ笑顔ヲ作ッテクダサイ』

 田端は頬を引きつらせて作り笑いを浮かべた。

「……おはよう。今日も皆の痛みに寄り添っていこう」

 ゲートが開く。オフィスに入ると、部下の女性社員が眉をひそめてパソコンに向かっていた。田端は条件反射で縮み上がる。

「あ、あの、佐藤さん。顔色が悪いようだが……いや、なんでもない。その、無理はしないで……いや、無理をしていると決めつけるのも良くないな。その、なんだ、輝いているね」

「課長」

 佐藤さんが冷ややかな視線を向けた。

「その『腫れ物に触るような態度』が、マイクロアグレッション(微細な攻撃)だって、先月の研修で習いませんでした? あと、輝いているとか言われると、更年期のホットフラッシュを揶揄されているようで不快です」

「す、すまん! 申し訳ない! 僕はただ、その、君が女性として活躍していることを……」

「『女性として』? 性別で分けるんですか?」

 田端は呼吸を止めた。どう転んでも地雷だ。このオフィスは地雷原だ。かつてここには「空気」というものが流れていたが、今では「配慮」という名の神経ガスが充満している。

 その時、社内放送が流れた。

『営業二課、田端課長。至急、総務部の「対都庁コンプライアンス戦略室」までお越しください。繰り返します――』

 田端の背筋に、氷柱を突き刺されたような悪寒が走った。

 周囲の視線が一斉に突き刺さる。それは「同情」ではない。「次は自分でなくてよかった」という安堵と、「生贄」を見る好奇の目だ。



 総務部の奥にある防音室。そこには、人事部長と法務担当役員、そして顧問弁護士が、まるで葬儀の相談でもするかのような沈痛な面持ちで座っていた。

 テーブルの中央には、一通の封筒が置かれている。

 鮮血のような赤色。東亰都の公印であるイチョウのマークが、まるで呪術的な紋章のように黒く箔押しされていた。

「座りたまえ、田端くん」

 人事部長が重々しく言った。

「単刀直入に言おう。来たんだよ。『赤紙』が」

「赤紙……ですか?」

「都知事直轄組織、『全都民完全共感局』からの召集令状だ」

 田端の喉が鳴った。噂には聞いていた。昨年末、都議会で強行採決された「女性活躍推進条例」。その附則にある「事業者の責務」を具体化するための、悪魔的な指針ガイドライン

 それは、男性管理職に対し、女性特有の健康課題を「身体的苦痛の共有」を通じて理解させるという、狂気じみたプログラムだった。

「選ばれたんだよ、君が。我が社からの第一号被験者として」

 法務担当役員が、封筒の中身を取り出した。そこには、禍々しいフォントでこう書かれていた。

『督促状:貴殿を、第一回男性管理職一斉・生理痛強制同期プログラム(通称:ブラッディ・マンデー)に招待します。拒否した場合、貴社は「ジェンダー後進企業」として都のホームページで晒し者にされ、今後十年間、都の入札資格を剥奪されます』

「そんな……!」

 田端は立ち上がった。

「なんで私なんですか! 営業成績だって平均的だし、セクハラで訴えられたこともない! むしろ、私はカミさんの尻に敷かれて三十年、女性の怖さは骨の髄まで理解しています!」

「だからこそだよ、田端くん」

 顧問弁護士がメガネを光らせた。

「君は『普通』すぎるんだ。都が求めているのは、君のような『無自覚な善良な市民』だ。悪意のないおじさんこそが、最大の敵だと彼らは定義している。『無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)』という罪状でね」

「それに」と人事部長が付け加えた。「君、先月の健康診断で『痛風の気がある』と言われていただろう? 痛みに耐性がないおじさんのリアクションこそが、SNS映えすると都側は踏んでいるらしい」

「リアクション芸人じゃないんですよ私は!」

「頼む、田端くん!」

 役員たちが一斉に頭を下げた。

「我が社は今、都の下水道工事の入札を控えているんだ。君が耐えてくれれば、我が社は『ゴールド・エンパシー(黄金の共感)企業』の認定を受けられる。ボーナスは弾む。特別有給もやろう。なんなら、君のデスクの椅子を、あのゲーミングチェアに変えてもいい!」

 田端は天を仰いだ。ゲーミングチェア。腰痛持ちの彼が半年間稟議に出し続けて却下された、あの高機能椅子。

 自分の尊厳と、ゲーミングチェアと、会社の未来。

 天秤は、悲しいかな、サラリーマンの悲哀の方へと傾いた。

「……わかりました。行きます。行って、電気を流されてきます」

「おお、田端くん! 君こそ我が社のジャンヌ・ダルクだ!」

「おっさんですけどね」



 その日の夕方、田端は帰宅途中の電車で、スマートフォンを取り出した。

 SNS「X(旧Twitter)」のタイムラインは、明日の「ブラッディ・マンデー」の話題で持ちきりだった。

『ついに明日決行! 東亰都の暴走を許すな!』

 そう咆哮しているのは、アイコンが日の丸とライオンの合成獣になっている、北枕きたまくらハルオ弁護士だ。

『私は現場に行く。この目で見る。これは行政による拷問だ。ジュネーブ条約違反だ! 男性管理職の腹筋に電気を流して、何が解決するんだ? 痛いだけだろ! 馬鹿げている!』

 その投稿を引用リポストしているのが、腹愚痴はらぐちカズヒロ議員である。

『北枕先生の言う通り。これはDS(デンキ・ショック)の陰謀だ。我々の生殖機能を破壊し、日本人を削減しようとする闇の勢力の実験なのだ。民主主義の死に様を、明日、私が実況中継する。ちなみに私のガンは気合で治したが、電気で治るとは聞いていない』

 コメント欄は地獄の様相を呈していた。

『おじさんたちが痛がる姿w メシウマ』

『これこそ真の平等。男も血を流すべき(電気だけど)』

『反対してる奴らは全員ミソジニスト』

『いや普通に傷害罪だろ』

 田端はそっとスマホを閉じた。

 どちらも極端だ。誰も田端個人の腹の皮一枚の心配などしていない。彼らにとって田端は、「正義」を証明するためのモルモットであり、「悪」を断罪するためのサンドバッグに過ぎない。

 帰宅すると、妻と大学生の娘がリビングでテレビを見ていた。ニュースでは、明日のイベントの主催者である東亰都副知事、松竹まつたけアキコ――通称「マダム・ペイン」のインタビューが流れている。

 画面の中のマダム・ペインは、紫色のスーツに身を包み、まるで新興宗教の教祖のように目を輝かせていた。

『痛みこそが理解への最短ルートなのです。言葉? 教育? そんなものは生温い。脳髄に直接刻み込むのです。痛みを共有して初めて、私たちはワン・チームになれる。明日は、東亰都が一つになる日です』

「パパ、これに出るの?」

 娘がスナック菓子を齧りながら尋ねてきた。

「……ああ。会社命令でな」

「へー。ウケる。動画撮ってきてよ。TikTokにあげるから」

「死ぬかもしれないんだぞ」

「大げさだなあ。生理痛くらいで死なないし。私たち毎月やってるし」

 妻もキッチンから顔を出した。

「あら、いいじゃない。あなた、最近私の生理痛の時に『病気じゃないんだから』って言ったでしょ? あれの罰が当たったのよ。しっかり反省してきなさい。あ、明日の晩御飯は生姜焼きでいい?」

 田端は無言で自室に入り、ドアを閉めた。

 家庭内にも味方はいない。

 彼はベッドに倒れ込み、天井を見上げた。

 明日は月曜日。憂鬱なマンデー。だが明日は特別だ。血塗られた月曜日だ。

 下腹部が、幻痛で既にチリチリと痛み始めていた。



 決戦の朝。都庁前広場(通称:都民ファースト広場)は、異様な熱気に包まれていた。

 会場周辺には高いフェンスが張り巡らされ、その周りを二重三重の人垣が取り囲んでいる。

 一方には「男にも痛みを!」と書かれたプラカードを掲げる賛成派のデモ隊。もう一方には「人権侵害反対! 俺の腹は俺のもの!」と叫ぶ反対派のデモ隊。機動隊がその間に立ち、怒号とシュプレヒコールが入り乱れている。

 田端は指定されたゲート、「被験者搬入口」の前に立っていた。

 周りには、同じように死んだ魚のような目をしたスーツ姿の中年男性たちが、数百人、いや数千人並んでいる。

 皆、一様に怯えていた。ある者は数珠を握りしめ、ある者は胃薬を飲み、ある者は震える手で最後のタバコを吸おうとして警備員に取り押さえられている。

「おい、アンタ」

 田端の前に並んでいた男が話しかけてきた。建設会社のヘルメットを被った、屈強そうな現場監督風の男だ。

「これ、マジでやんのか? 俺、結石やったことあるけど、あれより痛えのかな」

「さあ……噂じゃ、陣痛レベルまで上げるって話ですよ」

「陣痛!? 鼻からスイカ出すってやつか? 俺のイチモツからスイカは出ねえぞ!」

「出るのは魂でしょうね」

 その時、ゲートが開いた。

 スピーカーから、『ワルキューレの騎行』が大音量で流れ始める。

『サア、選バレシ戦士タチヨ! 入場セヨ! 子宮ハコノ中へ!』

 田端は深呼吸をした。

 逃げ場はない。

 彼は一歩、足を踏み出した。その足取りは、処刑台に向かう囚人のそれよりも重く、しかしどこか諦念という名の悟りに満ちていた。

 ゲートの向こうには、数千台のパイプ椅子と、それぞれに接続された禍々しい黒い箱――EMSデバイス「ウーマン・イノベーション・ギア(WIG)」が、獲物を待ち構える深海魚のように青いLEDを明滅させていた。

(続く)

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