君に捧げる―欠ける月

ShlrPhys

《四季》―「春」

1話 君との出逢い

 その日、正しく刻まれたテンポは消え去った。彼女にとって人生そのものだったはずなのにもう二度と再生されない。刻まれる音は歪に。求めていた自由は永久に届かないものへ。僕は無機質な窓のフレーム、収められた景色を眺めていた。落ちていく太陽と登る欠けた月。今でも夢に見る光景に心臓が握られたように、呼吸するのが苦しくなる。理解することにも才能は必要だった。

 もう戻らない日常。手に入らない理想。大切なものは消え去ってしまう当たり前の常識、循環する自己嫌悪。

 ――だから、あの日のことを今でも覚えている。

 

 チャイムが鳴り今日の授業の終わりを告げる。席を立ち教室を出ようとした瞬間、呼び止められた。

「おい羽野、ボランティア委員の仕事があるから少しいいか?」

 いつも軽い調子だけど僕たちに寄り添ってくれる気のいい僕のクラス担任。

「はい。今回はどんな内容ですか」

「今回はないつもと打って変わって保育園に行ってもらう。そこで子どもたちが喜ぶ催しをしてもらいたいんだ。もちろんお前一人でもいいし、友人たちと行ってもらっても構わない。ただし誰と行ったかは教えてくれな、そうしないと色々と書けないから。詳しくは明日プリントを渡すから頼んだぞ」

 ニコリと笑みを残し去っていく。ああも人気な先生はいつも生徒に取り囲まれている、僕なんかに時間を割くのはもったいないだろうに。期待に答えられるように頑張ろう。

「なあ岡崎。いつものだ」

 面倒くさそうにこちらを向く。「すまんが一井に行け」と返事を寄越すが今日はいつもと違っていた。

 幼馴染である彼女はどうしてか積極的に手伝ってくれる。人当たりのいい彼女にはいつも助けられて感謝しきれない。

「ピアノ頑張って」

「ああ、任せろ」

 それだけ言い僕たちは直ぐに別れた。目的はもちろん一井さん。

 時々見る不思議な女の子がいた。

 流れるような黒髪に、何1つ欠けていない水晶のような顔立ち。それだけでも人目を引くというのに彼女はジップパーカーをいつも着ていた。

 校則では許可されていない。なのに先生たちは彼女に何も言わないのだ。

 このままゆっくりしていたら一井さんが帰ってしまうかもしれない、足早に廊下を歩いた。

「一井さん」

 教室に入り荷物を整理している彼女に声をかける。「はろー羽野くん。ボランティア?」流石幼馴染だ、話が早くて助かる。

「そうなんだよ。手伝ってくれる?」

「うん、いいよ。ただし! うーん……そうだね。じゃあクレープを奢ってね」

 手伝ってくれる彼女はいつもこうして僕に何かを奢らせる。今回はクレープの気分のようだ。

「助かったよ、今回は保育園だから不安だったんだ。岡崎も来られないってことだし」

「保育園! じゃ子どもと会えるってことなの! やったー楽しみー」

「詳しくは明日わかるらしいからよろしくね」

「うむ! そうそう今日発売のCDがあるから買いに行こーよ」

 いつの間にやら荷物を持った一井さんが僕を引きずりながら外へと向かう。放課後はいつもと違ってちょっぴり楽しくなりそうだ。


 *


 翌日、僕と一井さんは空き教室で作戦会議を行ってた。

「さて、プリントが届いた訳だけど何から手を付けていいのか」

「そうだねーこれは困ったね。」

 プリントには日時と場所が事細かに、そして僕たちを困らせるのは次の一文。

「保育園から子どもたちが楽しめるような劇をして欲しい……ね」

「劇ね。例えばロミオとジュリエットとか?」

「子どもに見せるにはちょっと難しいんじゃないかな」

「確かに。だったら絵本とかを再現してみるとかはどうかな」

「絵本ね……いいかも。じゃあどんな絵本をやってみる?」

「うーん。腹ペコペコ虫さん……?」

「それって毛虫みたいなやつでしょ、再現するの難しくないかな」

「あーわかんないよー!」

 叩き台としての案を出すのは得意な一井さん。だけど少し踏み入るとダメダメになってしまう。彼女は背もたれに寄りかかってノックアウトしてしまった。

「よし! こうなったらオリジナルの劇を作ろう!」

「うぇ……? つくるツクル、作る!?」

 面食らったのか彼女は勢いよく身を起こす。

「羽野くん劇を作っちゃうの?」

「今のところはその方が良さそうだしね。といっても難しいものは作らないからきっと大丈夫……だと思う」

「急に不安にならないでー!」

 物語なんて作ったことのない僕に何ができるのかは分からないけれど、今回ばかりは挑戦してみよう。上手くいくかなんてまったく分からないけれど。

「劇を作るっていってもどんなのにするの?」

「取り敢えずは陽気な感じがいいかな。あとヒーローが助ける感じ……?」

「なんだかふわふわだね」

「うん。今日の所は持ち帰りかな。大まかな設定とかストーリーは考えてみるよ」

「何か手伝えることがあったらいつでもいってね。羽野くんがこうして動くのってなんだか珍しいから。……手伝いたいな」

 両手で頬杖を付きながら僕の目を見つめる一井さん。やっぱり幼馴染はすごい、なんたって彼女のいう通りなのだ。

「鍵は僕が片付けておくから先に帰っていいよ」

「それじゃ悪いし校門で待っておくね」

「わかった、直ぐに向かうよ」

 教室の鍵をきちんと締めたのを確認した後、茜色の光が差し込む静かな廊下を早足で歩く。そこに僕以外の靴音が混じった。

 今日もいた、例の不思議な女の子。

 横顔が陽に照らされ表情はよくわからない。だけどトン、トン、トン。リズムを取るように動く指先が目立った。

 近づいてようやく気付く。一音一音透き通るような魅了する鼻歌を口ずさんでいた。

 つられてしまいそうになるけれど、あいにく僕は先を急がなくてはならない。彼女はいった誰なんだ? ……いつか岡崎にでも聞いて見ればいいか。

 一井さんを待たせないように僕は急いだ。


 *


「ボランティア今週末だけど調子はどうだい?」

「うーん。ストーリー自体はできたんだけど、なんだか納得感がないんだよね」

 僕の席に座り偉そうにしている生意気な幼馴染。完成してないし練習をしないといけないから焦っているんだけど、まったく考えてないな。彼女の役割を少し多くしてやろうかななんて思っていたら岡崎が近づいて来た。

「よお、お二人さん。今回はどこに行くんだ?」

「今回はね、なんと! 保育園で劇をするんだよ! すごいでしょ!?」

「なかなか面白そうなことになってんな、手伝えなくてごめんな羽野」

「いいよいいよ。本来僕がやらないといけないものだしさ。それよりもそっちもコンクール今週末なんでしょ、大丈夫なの?」

「はっきりいってやばいな。練習の段階ではまあいい感じなんだけど、それでいっつもやらかすからな」

「お前の方だってもう劇の練習はしてるのか?」

「へー練習? あれ羽野くんよ、私たちも練習しないといけない?」

「うん。練習しないといけないね。劇自体はそこまで長くはないから少しゆるくてもいいとは思うけど……」

「そんなのじゃだめだよ! やるからには全力でやんないと!」

 飛び跳ねるように席を立ち僕の肩を揺する。ようやくことの重大さに気付いてくれたみたいだ。まあ意地悪したくて教えない訳じゃないんだけどね。

「でもねーまだなにか足りないんだよね」

「とりあえず! 羽野くんの作ったストーリーって修正するにしてもそこまで大きなものじゃないよね?」

「そうだね、大枠は変わらないかな」

「じゃあ小道具を作るから今出来てる分を教えなさい!」

「小道具か……衣装とかそんなのか?」

「……ごめん。そこまで考えてなかった」

「ふむふむ。こういう感じね」

 熱心に僕の書いたシナリオを読む彼女。大まかなストーリーとしてはヒーローが悪を倒すっていう勧善懲悪もの。大きな怪獣が街を通せんぼしていたのを通りすがりのヒーローが倒して通れるようにする、そんな話。

「ぴこーん! これパペットみたいなのでやろう!」

「パペット? あの手でピコピコ動かすやつか」

 こういう案にかけては彼女の右にでる人はいないなと関心してしまう。なんだか少しずつこの劇に対して納得感ができてきた感じがする。もうひと工夫あればいいんだけど。

 キーンコーンカーンコーン。

 チャイムが鳴り僕たちは慌てて席につく、いつの間にやら一井さんはいなくなっていた。こういう時抜け目がないのが彼女らしいと僕は笑みを零す。


 *


 遠く雲が千切れ流れている空を眺めていた。さっきの相談の途中に感じた足りない納得感を満たすものを考えるため、お昼休みに僕はこの学校で誰も知らない場所。屋上にやってきた。もちろん立ち入りは禁止なんだけど、試しにドアノブを捻ってみたら開いてしまった。それ以来僕は天気のいい日には時々、こうしてお昼休みに訪れるようにしている。

 あれこれと考えてはみるものの正直に言えばなにも思い浮かばない。ただ春がもう時期終わりそうなこの季節の中間で風を浴びたかっただけなのかもしれない。

 今日の陽射しはいつも以上に暖かい。うつらうつらしてしまう。フェンス越しに見える街の彼方と空が混ざり合って新たな色彩を生んでいる。

 気が付けば意識が途切れ途切れになっていた。そんな中、僕の耳には風が運ぶ音がはっきり聞こえてきた。

 それはピアノの音色。

 確かひとつ下の部屋は音楽室だったはず。でも今は新校舎の方を使っているじゃなかったっけ。

 一つ風が吹く。乗せられるようにして音たちが付いてくる。柔らかな触りで紡がれる春の陽気さを謳うような旋律。

 音の一つ一つが踊っているようだ。お互いに邪魔することなく、手と手を取り優雅に駆ける。

 奏でる主の心を照らしているように心と一つになっていた。

 クラシックは全然知らないけど、どこかで聞いたことのあるような曲。それにしてもこの旋律は僕の意識を空へと導く。――もうだんだんと思考もまとまらない。すこしだけねてからかんがえよう。


 ――それは、あの瞬間。

 以前にも聴いたことがあったような気がする。

 優しい音色に眩しい笑顔。

 でも錆びついた扉のようにガッチリとして動かない。こじ開けようにも押しても引いても動かない。ただ聴こえてくるのは愉しげに笑う君の旋律たち。

 このままずっと聴いていたいけど、僕にはやらなくちゃいけないことがある。――そう劇だ。

 それを思い出した時、僕の意識はだんだんとくっきりと明瞭になっていった。

 ――はるか昔。おもちゃ箱と一緒にしまっていた欠片。


 目を覚ましたら太陽が僕と同じ目線の高さにあった。

 どうやら寝ていたらしい。そして場所は学校。世界は僕を抜きにして正常にその時計の針を動かしている。

 完全にやらかしてしまった。屋上で寝ていたら誰も起こしには来てはくれない。携帯を確認しても誰からも通知はない。ちょっと淋しい。

 このまま一つ授業が終わるまでぼうっと過ごしておこう。さて教室に戻った時になんて言おうかな。

 あれやこれやと考える――そういえばあのピアノは?

 この現状に追い立てた音色は一体誰が弾いていたんだ?

 僕の知る限りでは岡崎がピアノしている他にまったく知らない。でも音楽部の誰かしらだろう。

 音楽、なにか劇に使えないかな。

 例えば効果音とか、とにかくとういうもの。

 きっと岡崎ならこのピアノの人を知ってる気がする、一度頼んでみてもいいかもしれないと心が躍る。


 *


「そいつはきっと神無月だろ」

 教室に戻るやいなや岡崎に聞いてみると、さも当然といったように名前を告げた。

「それよりお前どこほっつき歩いてんだよ。中抜けとかヤバいだろ。俺が居なければ上手いこと誤魔化せなかったぞ?」

「助かったよ」

「おう、お前の素行がよかったから出来たんだけどな。……でもなんで中抜けなんかしたんだよ」

「恥ずかしいんだけど。うとうとしてたらちょっと寝ちゃってね」

「寝ちゃっただ!? 俺けっこう心配したんだぞ?」

「そうそう、その時に旧校舎の音楽室からピアノの音がしてね。気になって聞いてみたってわけ」

「あいつもあいつでなんだかな。よく分からないやつだよ」

「ところで神無月さんってどんな人なの? すっごくピアノ上手そうだけど」

「上手ってお前……あいつ天才だぞ?」

「天才なの?」

「ああ、俺がピアノを今でも続ける理由だよ。あいつはさ」

「じゃ賞とかも取ってる感じ?」

「出るコンクールほとんどだよ。取れなかったのは審査員の好みとかくらいだよ」

「……文字通りの天才だね」

「悔しいけどな」

 時々ピアノのことについては教えてくれていたけど今回のような憧れていた人がいるなんて聞いたことがなかった。

「それにしてもこの学校って特に音楽関係が強い訳じゃないよね、なのにこの学校なんだ。ちなみにどんな人なの?」

「お前さ、あいつに会ったことないのかよ。いっつもパーカー着て、ピアノ弾いて授業サボっても許されてるやつだよ」

「あの人か……なんでみんな何も言わないんだろうって不思議に思ってたんだよね」

「そりゃあれくらい天才だと色々と許されるんだろうな、手に負えませんって感じで」

「ふーん。あの人がいるってことはなんとなく知ってたけど、そうだったんだ」

「……おい。お前あいつになんか頼もうって訳じゃないよな?」

「聞いてみるだけだよ」

「まあいいさ、どうせ断られるだけだろうし」

 そうして放課後になり神無月さんのいる教室を訪れてみたんだけど……彼女はいなかった。

 クラスの人に聞いてみようかとも思ったんだけど、きっとあの音楽室にいるに違いない。そう確信があった。帰ってしまわないように早く行こう。

 

「だめ」

 きっぱりと言い放つ水晶のような響きが音楽室に溢れた。

 予想通り彼女は旧音楽室にいたけれど、二つ返事で断られてしまう。

「やっぱりだめかな?」

「私は誰にも手を貸したりなんかはしないわ、悪いわね」

「どうしても?」気が付けば言葉にしていた。もう一度あの演奏を聞いてみたいだけだったのかもしれない。

「どうしても、よ。私は忙しいから」

 部屋の中心に据えられたグランドピアノ――彼女の居場所であろうその席に座った。

 もう一度聞いてみたい。手近にあった椅子に腰掛ける。

 神無月はもう自分の世界に入っていた。身に纏う空気が静かに、まるで耳を澄ませるように。

 はじまりのタッチは決まって優しく。徐々に、でも焦らずにスピードをあげていく。世界と音が馴染んでいくように、ゆっくりと混ぜ合わせる。

 そうすればなにも怖くない。ただその音に宿るのは彼女の想い――鮮やかな彩色が空間にベッタリと塗られていくかのよう。

 流れてテンポを刻んでいるあの指先の動きが取るようにわかる。

 ――確かに地続きの世界にいるはずの数メートル先の彼女。僕ははじめから君の世界の外側にいた。

 ずっと聞いていたい。たとえ世界の外側だとしても彼女の想いは音楽を知らない僕にも分かるから――。


 衝撃があった。脳天に重い一撃。

「ぐえ」

 ぼやける視界の中心には神無月がこちらをじっと見つめていた。

「なにするのさ」

「寝てたからでしょ。あともう私は帰るから、さっさと出て」

 壁に掛けられた時計を見ると針は7を指していた。また聴いている内に眠ってしまったようだ。

 きっとぼうっとしていたからだと思う。だって目が醒めていたらそんなことは絶対に口をつかないから。

「君の音楽好きだな」

「…………!」

 再び、だけどさっきよりも強い衝撃が頭にあった。

「うわぁ!」

 見事に椅子から転げ落ちてしまった。彼女はどうして僕を叩くんだろう――ようやくことの重大さに気が付いた。

 あまりにも恥ずかしくて顔が熱くなっていく。見られまいと顔を下げていたら金属が落下しジャラジャラと音を立てると同時に扉が勢いよく開け放たれた。

 鍵は僕が戻しておこう。今顔を合わせるのは嫌だったから丁度よかった。


 *

 

 今日も今日とて僕の席に座りながらピコピコと一井さんがパペットを動かしている。

「それ一日で作ったの? 大変だったでしょ」

「まーね。でも楽しかったよ」

 ちょっと間抜け面なカエルと大きなカメ。可愛らしくて子どもにもウケそうで彼女に頼ってよかったと心から思う。

「これ羽野くんだよー」

 カエルをクネクネと踊らせる。これが僕? よく見ると似ているような気がしないでもないような感じだけど、これが僕なの? ちょっとショックなんだけど。

「いいでしょ?」

 ニコニコとまったく悪気なくカエルで遊んでいる、なんて言えばいいのやら。

「う……ん。トッテモカワイイネ」

「でしょでしょ! そういうと思ったんだよね! やっぱり私っててんさーい!」

 もういいや。すっごくお気に召したようだし……。

「羽野くんの方は足りないって言ってたやつはどうなったの?」

「……それはね」

「うん。なになに」

「そう。音楽だよ!」

「はい?」

 ぽかーんとした表情で見つめてくる。よく聞こえなかったのかな? 僕の最高の案が!

「まあ、いいとは思うけど。それってどうするの?」

「なんか上手いこと状況に合わせてBGMか何を弾いてもらうんだ!」

「羽野くん。大丈夫?」

 自然に手を額に当て温度を確認してくる。僕は熱なんてないぞ! まったくもう。

「それで神無月さんに頼んでみたんだけど、あっさり断られたんだ。にべもなくね。まあ仕方ないよ劇に使うってどう使うのかまったく決まってないし」

「神無月さんに!?」

 酷く驚いた表情で見つめられる。そうやってじっと見られるとなんだか気恥ずかしい気持ちになってしまう。

「そりゃ無理だよ神無月さんに頼もうなんて。だって神無月さん誰とも話したりしないから、みんなよくわかってないんだよ?」

「すっごく人当たりはよさそうだったけど?」

「そうなの。神無月さん丁寧に対応もしてくれるし悪い人じゃないんだけど、どうしてか誰も寄り付かないの。多分ピアノが上手だから何してもいいのが余計に距離を取らせちゃってるのかも」

「あの服装とか?」

「確か授業もあんまり受けずに旧音楽でピアノを弾いてるらしいよ。あ、でもすっごく賢いらしいね」

「……聞けば聞くほど天才だね」

「うん。だからかもね」

「しょうがないから劇は今ある状態でやろっか。あと4日しかないから放課後は練習しよう」

「おっけーそれじゃまた放課後でー」

 ひらひらと手を振り教室を去っていく。なんだか諦められないから、もう一度だけ神無月さんにお願いしてみようかな。


「だめ」

 抑揚のない声でまたもきっぱりと断られた。

「やっぱり? 気が変わったりもしない感じ?」

「うん、だから諦めてちょうだい。昨日は申し訳ないから聞かせてあげただけ」

「じゃあ今日も聞かせてくれる? ちょっと図々しいかな」

「いいよ。それくらいなら」

「お昼が終わればここから去るよ」

「ん」

 漆黒のピアノに長い黒髪、薄い青色のパーカー。昨日も見た光景だけどその不釣り合いな感じがより彼女の存在を引き立たせていた。

 白鍵に沈む指先――音が弾んでいた。

 馴染むようなゆっくりさはなく、いきなり感情を伝えるような音色。

 世界との交わりがすんでいない音はより彼女の心を直に旋律に変化させていく。

 陽が差し込み僕と彼女の間に埃が舞い上がっているのが見えた。古ぼけた音楽室と新品同様のピアノ。

 踊っていくその指先、一音一音が楽しそうに跳ね、世界がそれに追いつこうと必死になる。

 彼女を取り巻くものは世界ではなくなった。他人の侵入を拒んではいない――そう確信したくなった。

 いつ聴いても引き込まれてしまう彼女の心。

 ふと、時計を見ればもうチャイムをスピーカーから響かせようとしていた。慌てて音楽室を去る、つられるようにしてピアノも鳴るのを止める。

「今日もありがとう!」

 それだけを言い、残された彼女を見るとどこか物寂しさが漂っているような気がした。

 それから土曜日になるまで僕と一井さんは劇の練習をして過ごしていた。練習中もどこか神無月さんのことが引っかかっていたけど、何度も頼むのは失礼に思えた。

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