帝都残響録

月雲花風

[帝都の怪異と、静寂の事務所]

大正十二年。

帝都の夜は、文明の灯火が落とす濃密な影に沈んでいた。


銀座の裏通り。

瓦斯灯が石畳をいやらしくテカテカと照らす一角に、その古びた洋館はある。

二階、九条朔夜(くじょう さくや)探偵事務所。

そこは外界の喧騒を拒絶した、変人という名の真空地帯であった。


「……零点二ミリ。摩耗が進んでいます」


九条朔夜は、顕微鏡に執拗にかじりついていた。

覗き込んでいるのは、銀色に輝く蓄音機の針だ。


「これでは溝の底にある『感情』を掬いきれない。

 あぁ、いけない。情緒の欠落は、私の論理的品格を著しく損なう……」


ピンセットで微細な針を愛でるその手つきは、外科医のような冷徹さと、重度のオタク特有の偏執さを併せ持っている。

彼にとって、世界は「定義可能な物理法則」の集合体に過ぎない。

もし科学で解明できない事象があるとすれば、それは現象側の怠慢か、説明書の紛失である。


「先生。機械の整合性を疑う前に、ご自分の生活習慣の整合性を疑ってはいかがです?」


部屋の隅でレコードを整理していた神崎紬(かんざき つむぎ)が、死んだ魚のような目で告げた。

彼女は「音の肌触り」を聴き分ける特殊な耳を持っている。

レコードのノイズから、犯人の足音、果ては大家さんの集金の足音まで察知する、歩く高性能マイクだ。


「紬。機械は嘘を吐かないが、人間は呼吸をするように嘘を吐く。

 この針の歪みこそが、真実を隠蔽する最大の敵なのだよ」


「はいはい。その『真実』とやらを追いかけすぎて、今月の家賃が真実味を帯びて消滅しそうなんですが」


「いいかね、最近巷を騒がせている『呪いの円盤』とやらも同じだ。

 死者の声が聞こえる? 非科学的にも程がある。

 それは単なる録音技術の拙劣さと、聴き手の脳内にある『お花畑』が産み出したバグに過ぎない」


「……そのバグに魂を抜かれた人が続出してるから、商売になるんですけどね」


紬が窓の外を見る。

帝都の闇が、蓄音機の回転のような不気味な唸りを上げている。

その時、事務所の重厚な扉が、品性の欠片もない音を立てて蹴破られた。


「相変わらず、カビ臭い部屋だな! 九条、お前の理屈で叩き斬ってもらいたい仏が出たぞ」


現れたのは、警視庁の桐生善三(きりゅう ぜんぞう)だ。

外套に染み付いた安煙草と雨の匂いが、室内の「変人濃度」を中和する。

桐生は厭世的な笑みを浮かべ、一枚の写真を机に叩きつけた。


「高峰ルリ子。帝都一のオペラ歌手が、昨夜、楽屋で変死した」


「ほう。歌いすぎによる喉の爆発ですか?」


「そんなわけあるか。外傷なし、毒物なし。

 だがな、彼女の死体の横では、何も録音されていないはずの『空白の円盤』が、虚しく回り続けていたんだ。

 そして目撃した連中は皆、口を揃えてこう言いやがる。

 ――彼女が息絶える瞬間、円盤から、彼女自身の『葬送の歌』が聞こえてきた、とな」


九条の手が、ピタリと止まった。

顕微鏡から顔を上げた彼の瞳には、冷徹な好奇心と、子供が新しい玩具を見つけた時のような不穏な輝きが宿っている。


「……面白い。

 人間の喉という『生体スピーカー』が停止した後に、無機の円盤がその音を再現した、と?」


「呪いだなんだと、署内も大騒ぎだ。だが俺は、幽霊に手錠はかけられん主義でね」


九条は、ふっと口角を上げた。

それは微笑というよりは、論理という名のメスで獲物を切り刻む直前の、肉食獣の歪な笑みだ。

彼はかつて、音盤記録術という禁忌に触れ、父を(社会的に)失っている。

その記憶が、彼を「論理の狂信者」へと変貌させたのだ。


「桐生さん、その円盤を確保してください。……紬、準備を」


「え、またお出かけですか? 今日の夕飯、コロッケの予定なんですけど」


「幽霊の正体が、単なる振動の記録と、犯人の稚拙な手品に過ぎないことを証明しに行こう。

 私の耳にかかれば、死者の呪いもただの『音飛び』だ」


九条は立ち上がり、磨き終えた針をケースに収めた。

迷信という名の霧を、屁理屈という名の暴風で吹き飛ばすために。


帝都の闇に潜む「音の怪異」と、社会不適合な天才探偵の、極めて騒々しい戦いが幕を開けた。

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