第6話 真白の悪夢
現実の問題は、だいたい「現実だから」面倒だ。夢なら目を覚ませば終わる。起きている間の厄介ごとは、目を覚ましても続く。むしろ目を覚ました瞬間から始まる。
放課後の教室。窓の外は冬に入りかけの薄い青で、日が落ちる速度だけがやけに早い。凪斗は自分の席に座ったまま、スマホの画面を見ていた。昨日の「リンク候補」の通知は消えた。消えたから安全、というわけじゃない。消えるのは、いつも向こうの都合だ。
「なあ、相原。お前、今夜寝る?」
背後から、当然のように不知火瑛士の声が落ちてきた。瑛士はいつも、質問の形で結論を言う。答えを求めているのではなく、相手の反応を採点している。
「寝ないって選択肢あるなら教えてくれよ」
凪斗がそう返すと、瑛士は椅子を反対向きにして、背もたれに腕をかけた。
「徹夜で悪夢回避。まあ、気持ちはわかる。でも人間は寝ないと死ぬ。悪夢で死ぬ前に別ルートで死ねる」
「笑えないんだよ、その言い方」
「笑えないのは、当たってるときだけだ」
瑛士は机の上に、ノートパソコンとスマホを二台並べていた。画面には英数字が並んでいる。凪斗には意味が分からないが、意味が分からないことだけは分かる。分からないものは怖い。だが、分からないまま放置するともっと怖いことになる。最近学んだ。
「で、どうなった。ドリーム・チェインのログ」
「どうもこうも、門前払い」
瑛士は肩をすくめた。軽い動作なのに、目だけが笑っていない。
「アプリのサーバーに入ろうとすると弾かれる。認証があるとか、ファイアウォールがあるとか、そういう普通の防御じゃない。こっちのアクセスに反応して、毎回ちょっと違うエラーを返してくる」
「……人が見てるみたいだな」
「見てるだろ。人かは知らんけど。少なくとも自動だけじゃない。しかも性格悪いタイプ」
凪斗は喉の奥が冷たくなるのを感じた。ドリーマーが下請けだと言っていた。なら元請けがいる。元請けは、下請けよりも効率が良い。効率が良い相手は、感情で動かない。感情で動かない相手は、交渉ができない。
「次に狙われそうなユーザーは?」
「推測ならできる。確定は無理。ログが取れないからな」
瑛士は画面を指で叩いた。そこには、時刻と数字の列があった。
「ほら、被害者のスマホから拾えた使用履歴。アプリ起動が増えた夜の翌朝に、心停止が出てる。例外はあるけど傾向は強い。で、今週この辺の起動が増えてる」
「この辺って……霧ヶ丘の市内じゃん」
「そう。つまり身近」
凪斗は背中を椅子に預けた。背骨がきしむような感覚がする。現実の体は、夢ほど都合よく動かない。疲れが溜まると、ちゃんと痛む。
「相原、ちょい待ち」
瑛士が急に声を落とした。視線の先は教室の窓際だ。
真白がいた。
真白は窓の外を見ている。いつもなら、誰かと話しているか、スマホをいじっているか、面倒くさそうに机に突っ伏しているかのどれかだ。今日の真白は違う。静かすぎる。静かすぎる真白は、嫌な予感しかしない。
凪斗が立ち上がろうとすると、真白の肩が小さく震えた。誰かに呼ばれたわけでもない。寒いからでもない。何かを耐えている震えだ。
「また……」
真白の口が動いた。声はほとんど聞こえない。だが、凪斗の耳には妙に鮮明だった。
背筋が、すっと冷たくなる。
「相原」
瑛士が小声で言う。
「お前、あいつに何も言ってないのか」
「言えるかよ」
「言えないで済むなら、世界平和だな」
瑛士の皮肉はいつも通りだった。いつも通りであることが、逆に怖い。いつも通りに喋れるってことは、瑛士の中で「これは来る」と決まっている。
凪斗は真白のところへ向かった。歩く距離は数メートルなのに、妙に遠い。教室の空気が重い。現実の教室のはずなのに、夢に入りかけたときのあの重さに似ている。
「真白」
呼ぶと、真白はゆっくり振り向いた。
顔色が悪い。化粧とかではごまかせない種類の悪さだ。目の下に薄い影がある。寝不足の影だ。いつもなら、寝不足でも強がる。今日は強がる余裕がない。
「……何」
声が、いつもの真白より弱い。
「具合悪いのか」
「別に。ちょっと眠いだけ」
「眠いだけで肩震えるか?」
真白は一瞬黙った。凪斗の視線から逃げるように、窓の外を見た。逃げる動きが、上手くない。上手くないところが、真白らしい。
「最近さ」
真白がぽつりと言った。
「変な夢ばっか見る」
凪斗の心臓が、ひとつ遅れて強く打った。
「……どんな」
「誰か探してるの。ずっと。必死に」
真白は自分の指先を見つめた。爪の先を軽く噛みそうになるのを、ぎりぎりで止める。落ち着かない癖。昔からだ。
「顔も名前も思い出せない。でも、その人がいないと……終わる気がする。世界が」
凪斗は喉が鳴るのをこらえた。終わる。悪夢はそういう言葉を好む。終わりの予感は、人間の脳に一番効く。
「探してるうちに、足元が崩れて落ちるの。暗いとこに。何回も」
「いつからだ」
「……ここ最近。ていうか、先週くらいから急に」
先週。つまり、凪斗が悪夢と戦い始めてからだ。関連がないはずがない。関連があると思いたくないのに、関連がある。
「それ、誰かに言ったのか」
「言ってない。言ったら、めんどいじゃん」
真白は笑おうとしたが、笑いの形にならなかった。口角が途中で止まる。笑う力が足りない。
「大丈夫だよ。夢でしょ。あたし、夢で死なないし」
冗談のつもりなのだろう。だがその冗談が、凪斗の胸を殴った。夢で死ぬ。凪斗は、それが現実になる世界を知っている。
「……真白」
凪斗は言葉を探した。探す時間が長いと、余計に疑われる。疑われるほど、距離ができる。距離ができるほど、真白は無防備になる。
凪斗は距離を置いたつもりだった。真白を巻き込みたくなかったから。だが距離は盾にならない。盾になるのは情報だ。情報を渡さない盾は、ただの壁だ。壁の向こうで何が起きても、助けられない。
凪斗の罪悪感が、胃のあたりに沈んだ。第5話の教室の黒い床が、まだ胸の奥に残っている。罪悪感は消えない。形を変えて居座る。
「何」
真白が睨むように見た。怒っているのではない。不安を隠している。
「……今日は、早く帰れ」
「は?」
「一人で夜更かしするな。スマホいじって寝落ちするな。あと、変なアプリ入れるな」
言ってから、凪斗は思った。遅い。こういう注意は、もっと前に言うべきだった。言うべきだったと分かっているのに、言えなかった。
「急に何それ」
真白の眉が寄る。
「あんた、なんか隠してるでしょ」
この直球が真白だ。直球のくせに、当たったときの破壊力が高い。
「隠してない」
「嘘。隠してる顔」
真白は凪斗の顔をじっと見た。視線が刺さる。刺さるのに、逃げたくなる。逃げる癖は中学の凪斗だけじゃない。今も残っている。
「最近、あんたと不知火、ずっと一緒にいるじゃん」
「たまたま」
「たまたまで毎日一緒?」
真白は肩を震わせた。怒りじゃない。怖さだ。怖さが怒りの形をして出てくる。
「……あたしさ」
真白は声を落とした。
「夢の中で、ずっと探してるって言ったでしょ」
凪斗は頷けなかった。頷いたら、何かが決まってしまう気がした。
「探してるの、たぶん」
真白は唇を噛んだ。
「誰かじゃないんだよね」
凪斗の心臓が一瞬止まった気がした。止まったのは錯覚だ。だが、錯覚でも怖い。
「……何を言いたい」
「わかんない。でも、わかんないのが怖い」
真白は、いつもの真白より正直だった。正直すぎて、凪斗の胸が痛む。守りたかったのに、守るために嘘をついた。その嘘が真白を追い詰めている。
凪斗は、言うべきだと思った。言わなければならないと思った。
だが、その瞬間、瑛士が後ろから割り込んできた。
「真白」
瑛士はいつもの軽さを少しだけ落としていた。落としているのに軽い。軽さが地の性格だからだ。
「相原が言わないなら俺が言う。お前、最近悪夢見てるんだろ」
「は? なんで不知火が知ってんの」
「俺はだいたい何でも知ってるから」
「気持ち悪」
「褒め言葉ありがとう」
いつもの掛け合い。なのに今は笑えない。
瑛士は真白の顔色を見て、少しだけ真面目な声にした。
「冗談じゃなく、危ない。相原の周りで、寝てる間に死ぬやつが出てる」
真白の表情が凍った。
「……それ、ニュースのやつ?」
「そう。で、そのニュースの『やつ』が、偶然じゃない可能性が高い」
真白は凪斗を見た。今度は睨む目だ。怒りと怖さが混ざっている。
「相原。何それ」
凪斗は口を開いた。
言わないと、ここで真白は一人で背負う。
言っても、真白は背負う。
どちらにしても背負うなら、せめて荷物の形を教えるべきだ。
「……夢が、現実に影響する」
凪斗は短く言った。短く言うしかなかった。長く言うと、涙が混ざりそうだった。自分が泣くのは違う。今泣くべきなのは真白だ。
「俺、最近……悪夢の中で、戦ってる」
真白の唇がわずかに開いた。
「……意味わかんない」
「わかんなくていい。でも、信じてほしい。今、真白も狙われてるかもしれない」
真白は一歩引いた。引いたのは距離じゃない。現実感だ。現実感が後ろに下がっていく。
「冗談でしょ」
「冗談ならどれだけ良かったか」
瑛士が言った。
凪斗はその言葉の「良かったか」に、妙に救われた気がした。救われるのは違う。だが救われるほど、凪斗は追い詰められている。
「今日、帰り道一緒に帰る」
凪斗は言った。命令みたいになった。
「は?」
「一緒に帰る。で、家に着いたら連絡しろ。寝る前も連絡」
「なにそれ、彼氏かよ」
真白は反射でそう言った。だが声が弱い。いつもの勢いがない。冗談で逃げようとしている。凪斗は逃げる癖を知っているから、余計に痛い。
そのとき、真白がふらりとよろけた。
足元が崩れたみたいに。
「真白!」
凪斗が腕を伸ばす。
真白は机に手をついて踏ん張った。
そして、息を吸う。吸ったのに、吐けないみたいな呼吸。
「……ごめん」
「ごめんじゃない。保健室行く」
「いい。大丈夫」
「大丈夫じゃない顔してる」
真白は凪斗の腕を振りほどくようにして、鞄を掴んだ。
「今日は、一人で帰る」
「ダメだ」
「うるさい」
真白は珍しく声を荒らげた。
怒りではない。追い詰められた人間の声だ。
「今、変なこと言われて、変な話されて、頭ぐちゃぐちゃなんだよ。ちょっと、放っておいて」
そう言って真白は教室を出ていった。
廊下の足音が遠ざかる。現実の音なのに、夢の中みたいに薄い。
凪斗は追いかけようとして、瑛士に袖を掴まれた。
「今追うな」
「なんでだよ!」
「追ったら余計逃げる。あいつは今、怖いんだ。怖いときに正論で追い詰めると、人は切れる」
「じゃあどうすればいい」
瑛士は少し目を細めた。
「お前は今夜、夢で走れ」
言い方が軽い。だが内容は重い。
「俺が現実で張る。お前は夢で張る。二段構え」
「現実で張るって」
「家の前まで行く。ストーカーじゃない、護衛だ」
瑛士がさらっと言うから、凪斗は一瞬言い返せなかった。言い返す余裕がないことに、気づく。
「……頼む」
凪斗はそう言った。頼るのは苦手だ。だが今は、苦手とか言っていられない。
瑛士は指で軽く敬礼をした。
「まかせろ。俺の黒歴史が一つ増えるだけだ」
「増やすな」
「増えるんだよ、人生は」
軽口。
でもその軽口が、凪斗の胃の痛みを少しだけ和らげた。現実の痛みを和らげるのは、だいたいどうでもいい冗談だ。どうでもいい冗談が言える余白が、人間を人間にする。
凪斗は家に帰った。
帰り道の街はいつも通りだった。コンビニの明かり、信号の音、カラスの声。いつも通りの中に、半透明の影が混じっていないか目を凝らした。最近、見えるようになったものがある。死者の気配みたいな、現実に馴染まない輪郭。
今日は見えなかった。
見えないのは安心のはずなのに、不安になる。見えないからこそ、どこで起きるか分からない。
夜。部屋の明かりを消すのが怖かった。
怖いから明かりをつける。
明かりをつけると眠れない。
眠れないと別の死に近づく。
どのルートでも、死がちらつく。
凪斗は布団に入った。スマホを枕元に置く。瑛士からメッセージが来ていた。
「真白、帰宅確認。家の灯りついた。母親いる。今のところ異常なし」
凪斗は息を吐いた。
異常なし、という言葉がこんなに重いことがあるのか。
もう一つメッセージ。
「ただし、真白の家のWi-Fi、見覚えあるSSID。ドリーム・チェインの関連機器が近くにいるかも」
凪斗の指が止まった。
関連機器。アプリを入れていなくても、何かに触れればリンクするのか。スマホじゃなくても、何かの媒介があるのか。
夢は、道具を選ばない。
凪斗は目を閉じた。
眠りたくない。
でも、眠らなければ夢の中に入れない。夢の中に入らなければ、真白を守れない。
守りたいなら、行くしかない。
それは決意というより、状況確認だ。
意識が沈む。
現実の音が遠ざかり、代わりに「無音」が近づく。
そして、重い空気。
凪斗は夢の境界に立ったと分かった。
足元が少し柔らかい。沈む感じがする。
こういうときは、だいたい地面が嘘だ。
次の瞬間、凪斗は公園の入り口に立っていた。
小さい頃に遊んだ公園。
滑り台があって、砂場があって、ブランコがある。
ただし、まともな状態ではない。
ブランコは座る板がない。鎖だけが揺れている。風が吹いていないのに揺れている。夢のブランコは、だいたいそうだ。誰かの記憶が揺らしている。
砂場は底なしの泥沼だった。表面は砂に見えるのに、一歩踏むと吸い込まれる。砂場の縁の木枠には、子どもの手形みたいな黒い跡がついている。汚れじゃない。痕跡だ。
空は、真っ黒な雲で覆われている。星も月も見えない。遠くで雷が鳴る。雷の光だけが、景色の輪郭を切り取る。
凪斗は胸の痣が熱くなるのを感じた。
悪夢の中心が近い。
黒いナイフが手の中にあった。握りの感触が現実みたいに冷たい。
夢の中で冷たいものは、だいたい危険だ。
「真白!」
凪斗は叫んだ。
声が空気に吸われる。吸われた声は戻らない。
夢の中では、呼びかけはよく届かない。届かないから、人は必死になる。必死になると、さらに悪夢が濃くなる。
悪夢は燃料が好きだ。
公園の奥で、小さな足音がした。
凪斗が走り出す。
靴が地面を叩く感触が薄い。これも嫌な兆候だ。足が地面に接していないと、踏ん張れない。踏ん張れないと、引きずり込まれる。
砂場の近くで、小さな影が見えた。
幼い子どもの姿。
白いワンピース。髪は短めで、顔ははっきりしない。
だが凪斗は分かった。真白だ。真白の悪夢は、真白を幼い姿にする。過去の安全な形に戻して、そこを壊すのが悪夢の趣味だ。
真白は必死に走っていた。
走っているのに、同じ場所をぐるぐる回っている。
出口のない迷路。夢の定番だ。
「……どこ……どこ……」
真白の声が、風のない空気に震えた。
「お願い、どこにいるの……」
凪斗は胸が痛くなった。
探しているのは誰か。
誰かではない。
自分だ。
分かる。分かってしまう。
分かってしまうことが、苦しい。
真白の前に、影が現れた。
子どもの形をした影たち。
顔がない。目も口もない。なのに喋る。
喋る声だけがある。声だけの悪意。
「もう遅いよ」
「どうせ見つからないよ」
「見つけても、なくなるよ」
影の子どもたちは真白の手足を掴んだ。
掴む指が長い。子どもの指ではない。夢が「子ども」という皮を被せただけの別の何かだ。
「やだ!」
真白が叫ぶ。
叫び声は届く。届くからこそ、悪夢が喜ぶ。
「まだ終わりたくない!」
足元の砂場が、泥沼の口を開けた。
真白の足首が沈む。
沈むとき、足を引くほど深くなる。これも定番だ。焦りが沈みを加速させる。
凪斗は迷わず走り込んだ。
「離せ!」
ナイフで影を切る。
影は切れる。切れた影は黒い霧になって散る。
散る霧が、真白の頬を撫でる。真白はびくりと震えた。
「……え」
真白の目が凪斗の方を向いた。
だが焦点が合わない。
凪斗を見ているのに、凪斗だと分からない。
悪夢はそこを狙う。
影の子どもたちが、笑っていないのに笑っている感じを出した。雰囲気で笑う。声で笑う。
「ほら」
「見えない」
「思い出せない」
真白の足がさらに沈む。
泥が足首を掴み、膝へ向かう。
凪斗は真白の腕を掴んで引いた。引いた腕が軽い。軽すぎる。現実の真白の重さじゃない。存在が薄くなっている。
このままだと、真白は「忘れられる」。
凪斗の背筋が凍った。
死ぬより怖いかもしれない。
死は終わりだ。忘却は、存在の取消だ。
雷が鳴った。
公園の中央に、何かが立っているのが見えた。
巨大な砂時計。
人間の背丈どころじゃない。街灯より高い。
上のガラス部分に、小さな影が閉じ込められている。真白の影だ。さっきまで足元で沈んでいた真白と同じ形が、そこにいる。
つまり、真白は分割されている。悪夢は人を分割して管理する。便利だからだ。
下のガラスには黒い砂が溜まっている。
砂が落ちる音がする。さらさら、さらさら。
夢の中で「音がある」ものは、だいたい時間制限だ。
凪斗の頭に、理解が降ってきた。
砂が全部落ちたら、終わる。
真白は忘れられる。
誰に? たぶん、世界に。
「……ふざけんな」
凪斗は砂時計へ走った。
途中で影の子どもたちが足を掴もうとする。凪斗は斬る。斬るたびに現実の身体へ痛みが返ってくる。胸の痣が熱い。足首が痛い。肋が軋む。
それでも止まれない。
砂時計の前に立つ。
ガラスは異様に硬そうだった。光沢があるのに透明ではない。透明なのに、何かが一枚挟まっている。
ガラスの向こうの真白の影が、薄くなっていく。輪郭が砂みたいに崩れる。
「真白!」
凪斗はガラスをナイフで叩いた。
カン、と鈍い音。
傷ひとつつかない。
硬いというより、概念として「割れない」ように設定されている。
「くそっ」
凪斗は何度も叩いた。
叩くほど、手が痺れる。
現実の身体が痛む。
砂は落ち続ける。
真白は薄くなる。
焦りが喉を締めた。
どうすればいい。
力で割れないなら、条件を崩すしかない。
凪斗は砂時計を見上げた。
上のガラスに閉じ込められている真白の影。
その影は、下の砂を見ている。砂が落ちるたびに、自分が消えると分かっている顔をしている。顔がないのに顔が分かる。夢の嫌なところだ。
そして、真白の影は、何かを探す仕草をしていた。
手を伸ばす。
空を掴む。
誰かを探す。
凪斗は、はっとした。
真白が探している「誰か」。
顔も名前も思い出せない誰か。
でも、いないと終わる気がする誰か。
幼い頃、この公園で一緒に遊んだのは誰だ。
真白と一緒に、ブランコの鎖を握って笑ったのは誰だ。
砂場で泥だんごを作って、手を汚して怒られたのは誰だ。
凪斗だ。
真白が探しているのは、凪斗自身だ。
探しているというより、失うのが怖いものだ。
凪斗は砂時計へ向かって叫んだ。
「真白! ここにいる!」
声が空気に吸われそうになる。
それでも言う。
声が届くかどうかは問題じゃない。言葉は自分を固定する。夢の中で固定しないと、真白の前提に飲まれる。
「俺は、ここにいる!」
凪斗は砂時計に手をついた。冷たい。
冷たさが、真白の恐怖の温度と同じだと分かった。
忘却の恐怖は、冷える。
「真白! 聞こえろ!」
凪斗が叫ぶと、上のガラスの真白の影が微かに顔を上げた。
「……なぎ、と……?」
かすれた声。
でも、確かに名前を呼んだ。
名前は存在を繋ぐ。
その瞬間、砂時計のガラスに細かなひびが走った。
凪斗は息を呑んだ。
ガラスを支えているのは材質じゃない。
「真白が見つけられない」という前提だ。
前提が揺らぐと、割れる。
影の子どもたちが騒いだ。
ざわざわと音のない声を出す。
「だめ」
「思い出すな」
「忘れろ」
影が凪斗の足首を掴む。
泥沼が口を開ける。
凪斗の足が沈む。
凪斗は歯を食いしばった。
沈むなら沈む。
沈みながら斬ればいい。
凪斗はひびの入った場所へ、全力でナイフを振り下ろした。
ガラスが砕けた。
粉々に割れるというより、前提ごと崩れる感じだ。透明な破片が空中で止まり、次の瞬間に灰みたいに溶ける。
上のガラスから、真白の影が落ちてきた。
凪斗は手を伸ばした。
影は軽い。
軽いのに、温かい。
温かさがあるだけで救われるのは、悔しいほどだ。
砂時計の怪物が悲鳴を上げた。
悲鳴は音ではなく、空気の歪みだ。耳ではなく、骨に響く。
下のガラスに溜まっていた黒い砂が逆流した。
砂が怪物の内側へ戻り、怪物を食い尽くす。
悪夢が悪夢を食う。自滅。だが自滅もまた、上の管理者にとってはデータだろう。
怪物が崩れ、黒い砂に飲まれて消えた。
真白の影が地面に降り立った。
幼い姿のまま、凪斗を見上げる。
「……見つけた」
真白が微笑んだ。
微笑みは、幼い頃の真白そのままだった。凪斗の胸が痛んだ。痛いのに、少しだけ軽くなる。矛盾した感覚。夢が現実へ持ち込む一番厄介な土産だ。
その瞬間、凪斗の胸の痣が熱を持った。
熱が広がり、薄くなる感覚がした。
痣がひとつ薄くなる。
代償の跡が減るのは救いに見える。だが代償が減るということは、何かが溜まっているということでもある。帳尻は必ず合う。
真白の身体が光に包まれた。
光は夕焼けの色ではない。夜の中で白い。
白い光が、夢の黒さを押し退ける。
凪斗は真白の手を掴んだ。
小さな手。
でも確かに、そこにいる。
「帰るぞ」
凪斗が言うと、真白は頷いた。
頷きが遅い。
遅いのは、消えかけたものが戻る時間だ。
公園の景色が崩れ始めた。
ブランコの鎖が落ち、砂場の泥沼が乾き、空の雲が裂ける。
裂けた向こうに、何もない暗闇がある。夢の外側だ。外側はいつも無だ。無は便利だ。何でも隠せる。
凪斗は暗闇に引かれる感覚を覚えた。
次の瞬間、ベッドの上で跳ね起きた。
息が荒い。
胸が痛い。
喉が渇いている。
それでも、まだ生きている。
スマホが震えた。瑛士からだ。
「真白の家、今、音した。走った。多分起きた」
凪斗はスマホを握りしめた。
指が震える。
震えは怖さだけじゃない。安心も混ざっている。安心が混ざると、涙が出そうになる。涙は今いらない。
数分後。真白から着信が来た。
凪斗はすぐ出た。
「相原……」
真白の声が掠れている。
泣いているのかと思った。泣いてはいない。息が乱れている。泣く前の声だ。
「大丈夫か」
「……わかんない。今、ママがいる。びっくりして部屋入ってきた」
電話の向こうで、真白の母親の声がする。「真白、大丈夫? 水飲む?」
現実の声が聞こえるだけで、凪斗は少しだけ落ち着いた。夢は現実の音に弱い。
「今、誰か探してた」
真白が言った。
「ずっと。必死に」
「……見つかったか」
凪斗は、答えを期待しないようにして聞いた。期待は悪夢の燃料だ。期待すると裏切られたときの絶望が増える。
真白は少し黙って、それから小さく言った。
「見つかった、気がする」
凪斗は息を吐いた。
気がする、でいい。確定しないほうがいい。夢の確定は、次の悪夢の根拠になる。
「でも」
真白の声が揺れた。
「顔、思い出せない。名前も、うまく……」
凪斗の胸が痛んだ。
忘却の悪夢の爪痕だ。
救ったから終わり、ではない。救った後に残るものがある。残るものと付き合うのが現実だ。
「いい」
凪斗は言った。
「思い出せなくてもいい。今生きてる。それでいい」
言いながら、自分に言い聞かせてもいた。救えた。だが、救えないものもある。過去は戻らない。夢の中の時間は戻せない。
それでも、今を繋ぐことはできる。
電話の向こうで、真白が小さく息を吸った。
泣かないようにしている呼吸だ。
「相原」
「何」
「……あんた、さ」
真白は言葉を探している。探している間が長い。真白が言葉を探すのは、いつも怖いときだ。
「変なこと言っていい?」
「今さらだろ」
「ムカつく」
「ごめん」
「……夢の中で」
真白の声がさらに小さくなる。
「夕焼けの公園で、誰かと手を繋いでた気がする。すごく、あったかくて」
凪斗は目を閉じた。
夢の中で掴んだ手の温度が、指先に残っている気がした。
「それが相原かどうか、わかんないんだけど」
「……うん」
「でも、なんか」
真白は少し笑った。
笑いはまだ弱い。だが形になっている。
「終わりたくないって思った。ちゃんと」
凪斗は喉の奥が熱くなった。
終わりたくない。
その言葉は、悪夢に対する一番強い抵抗だ。抵抗は完全な勝利じゃない。だが、抵抗がある限り、人は食われきらない。
「相原」
真白が、もう一度呼んだ。
「明日、学校で話す。逃げないから」
「……俺も逃げない」
言った瞬間、凪斗は自分の胸の痣に触れた。薄くなっている。
薄くなるのは、勝ちの証拠じゃない。
勝ったと思った瞬間に負ける。悪夢はそういうやつだ。
通話を切ったあと、凪斗のスマホがもう一度震えた。
瑛士からのメッセージだ。
「今、ドリーム・チェインの挙動変わった。『未登録ユーザー:Mashiro』って表示が一瞬出た。アプリ入れてなくても、リンク対象にできる仕組みがある」
凪斗の背中に、冷たいものが走った。
未登録。つまり、逃げ道がない。
登録していないから安全、というルールが通用しない。
さらにもう一通。
「あと、弾いてたエラーが変わった。こっちのアクセスに『学習』してる。管理者、確実にいる」
凪斗はスマホを握りしめた。
握りしめても、現実の手は何も守れない。
守れるのは、次に何をするかだけだ。
胸の奥で、かすかな笑い声がした気がした。
ドリーマーの声ではない。もっと冷たい。もっと遠い。
管理者。
夢を回すやつ。
悪夢のシステムを作ったやつ。
凪斗は息を吐き、明かりをつけた。
明かりは現実を強くする。
現実が強いほど、夢は入り込みにくい。そう信じたい。
机の上にメモを開く。
真白の夢。公園。砂時計。未登録ユーザー。
書いて固定する。固定しないと流される。流されると、次の夜に死ぬ。
凪斗はペンを握ったまま、ふと窓を見た。
夜の街は静かだ。
静かな街ほど、悪夢はよく育つ。
そして、スマホの通知が一つ増えた。
ドリーム・チェイン。
「リンク候補が更新されました」
「次の接続先:Aihara Nagito」
自分の名前。
狙われる側から、狙われる側へ。
逃げ道を潰すような更新。
凪斗は画面を閉じた。
閉じても、消えない。
消えないなら、見据えるしかない。
「……今夜も来るな」
独り言は、誰にも届かない。
届かないから、言う。
言葉は自分を繋ぐ鎖になる。切れない鎖じゃない。だが、ないよりはましだ。
凪斗は息を吸った。
次の夜が始まる前に、やれることをやる。
夢の外でできることを増やす。夢に頼るのは最後だ。
救えた。
救えたからこそ、次が来る。
悪夢は、抵抗する者を観察して、より効率のいい殺し方を考える。
凪斗はその事実を、静かに飲み込んだ。
飲み込んだうえで、決めた。
次に真白が夢で落ちるなら、自分が先に落ちて受け止める。
それができるように、現実で手を伸ばす。
夢と現実を繋いだのは、アプリじゃない。
たぶん、もっと昔からある何かだ。
夕焼けの公園で繋いだ手の温度。
忘れられない温度。
忘れさせないための戦い。
凪斗は机の上のメモを閉じ、スマホを裏返した。
裏返しても通知は来る。
来るなら来い。逃げない。
窓の外で、風が鳴った。
現実の音だ。
現実の音がある限り、まだ戦える。
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