第八話「いい答えです」
任務の日は、あっという間にきた。
訓練所の東側にある
風はまだ涼しく、空気は乾いている。遠くで小鳥の鳴き声がして、初夏の匂いが鼻をかすめた。汗ばむほどではないが、動けばすぐに体が温まる、訓練にも遠出にも丁度いい頃合いの朝だった。
集まった訓練生は、40名ほど。ざらついた土を踏む足音と、小さな話し声が、任務前の落ち着かない空気を少しずつ膨らませていった。
ヒイロの胸の奥で、心臓がやや速めのリズムを刻む。
緊張というよりは、高揚。初めての「外」の任務。城壁の外に出て、
恐怖はなかった。危ない目には既に何度か遭っているし、今さら何が来ようと「まあ何とかするしかないか」という感覚のほうが強い。
「おいヒロ、肩に力入りすぎ」
隣からカルシノンが小声で言って、ヒイロの肩をぐっと掴む。
揉みほぐすように指を食い込ませ、カクカクと動かす。
「ほら、リラックスリラックス。お前が緊張してると、ティモテオスまでビビるだろ」
「ビビってねーし!」
反対側で聞いていたティモテオスが、すぐさま抗議の声を上げる。
海神の息子らしい青い瞳が、いつも通り生意気そうにきらきらしている。背には
「見てろよお前ら。クソ強
「うわ、あっぶね!周りに人いるのに振り回してんじゃねーよ!」
はしゃぐティモテオスと、それにキレるカルシノンを尻目に、ヒイロはちらりと周囲を見渡した。
少し前方に、白い髪の少女の姿がある。ノアだ。同じ中級クラスの、
ノアの装備は、模擬戦の時よりも本格的だった。白い金属鎧を身につけて、足はサンダルでなくブーツだった。
今回の任務、ノアとは別の班になってしまった。
昨夜、寮で参加メンバーが張り出された板を見た時、真っ先に探したのは彼女の名前だったが、ヒイロの名前と真逆の位置に書かれていた。仕方がないこととはいえ、それでもやっぱり、ほんの少しだけ、残念だった。
そんな心境を押し隠しているうちに、ざわめきがすっと静まる。
ジーンと、もう一人、黒髪を後ろで束ねた壮年の男がやって来た。
男のことは初めて見るが、なんとなく親近感が湧いた。男の服装が、元の世界のサラリーマンが着ているような黒いスーツだからだ。ジャケットの裾がやけに長いのが気になるが。
ジーンの方はというと、いつも見るキトンに
「おはよう、訓練生諸君」
そこまで大きくない声なのに、よく通る。
ジーンは訓練生たちを一望するように視線を走らせ、一瞬だけヒイロの方で止めた。目が合った気がして、ヒイロは自然と背筋を伸ばす。
「今日は待ちに待った任務だ。概要は頭に入っていると思うが、もう一度説明する。
目的地は、レルナ村近郊。最近、その周辺で
「保護ってことは、倒すんじゃないんですか?」
ティモテオスが、手を挙げて質問を投げかけた。
ジーンは肩をすくめる。
「向こうが話の通じる相手ならな。こっちから殺しにいく必要はない。ただし、敵対の意思を明らかに見せてきた場合は話が別だ。その時は、躊躇うな。生き残ることを優先しろ」
言い切る口調には、一切の迷いがない。
その言葉に、一部の訓練生の喉がごくりとなる音が、ヒイロの耳にも届いた。
「移動経路について説明する。まず南のナウプリアの港まで行く。そこからレルナまで、船で移動。現地では、二つの班に分かれる。引率するのはおれと──」
ジーンの視線が別の方向へと向く。
長身の男が一歩前へ出た。
「ウゼンだ。今回の任務はおれたち二人が指揮を執る」
「
穏やかな声で、そう告げる宇禅。丁寧で柔和な印象を受けた。
「最後に、これは実戦任務だ。慣れているやつもいるが、初めてのやつもいる。くれぐれも油断するな。死ぬ時はあっさりと死ぬ。そうなりゃ全ておしまいだ。嫌だったら、集団行動を常に意識して、何かあればすぐに他の者を呼べ。以上。質問は移動しながら受け付ける。出発!」
号令と共に、全体がざわめきを取り戻す。装備を確認しながら班ごとに整列し直す。
ヒイロの装備は、模擬戦の時とあまり変わらない。胸当てが皮の鎧になり、盾の代わりに伸縮式の投げ槍を二本持たされたくらいだ。
列の間を縫って歩いてくるノアの姿が、一瞬だけヒイロの視界を横切った。
ヒイロと目が合うと、彼女は薄い微笑を浮かべて、小さく会釈する。
「ヒロさん。お気をつけて」
「ノアこそ。ジーンの近くだからって油断するなよ」
「はい。ヒロさんのことも、ちゃんと報告しておきますね」
「ヤメテクダサイオネガイシマス」
軽口を交わしながらも、別々の班にいる現実は変わらない。
ほんの数秒ですれ違い、ノアはジーンの班の列に溶け込んでいった。
ヒイロは僅かな名残惜しさを、足早に歩くことで誤魔化した。
◆◇◆
ティリンスの外壁をくぐるのは、これで二度目だ。
一度目はこの世界に来て、ミノタウロスに襲われた後、ジーンたちに運び込まれたときだ。ヒイロは気を失っていたから、実感としてはこれが初めてと言っていい。
外壁を抜けると、すぐそこにあった。
石と鉄と、そして何か得体の知れない魔術的な光で組み上げられた、それは──
「……え、汽車?」
思わず素の声が漏れる。
白い大理石のプラットフォームの上に、巨大な鉄の塊が鎮座していた。前方には煙突、車体にはコスモスの紋章。ところどころ、青白い魔法陣のような模様が浮かび、ゆらゆらと光を放っている。
「そう、魔導列車。知らなかったか?」
横からカルシノンが言った。
「ここ数年で配備された新しいやつだ。これならナウプリアまですぐだな」
「いや、ファンタジー異世界に汽車って……」
異世界転移してから、ミノタウロスだの翼獅子だのを見てきたが、ある意味それよりも衝撃だった。線路の上にある銀色のレールが、朝日を浴びてぎらりと光る。
「
「いや、文句はないけど……文明の利器だなあ」
自分でも意味のよく分からない感想を呟くと、乗車の号令がかかる。
宇禅とジーンに続き、訓練生たちが順番に車両に乗り込んでいく。車内は意外にも広く、木製のロングシートが左右に並び、その上には手すりや荷物棚が備え付けられていた。
窓際の席を確保して腰を下ろすと、向かいにティモテオスが、隣にカルシノンが座る。
「ちゃんと内装も列車だ……」
「あんまきょろきょろすんなよ、お上りさんみたいだぞ。ヒロの元いた世界にも、似たようなのはあったんだろ?」
「いや、だって列車って思っきし科学の産物じゃん。ファンタジー異世界には似合ってなさすぎだって」
「そうは言ってもなあ。飛行機とか飛んでるの、見てるだろ?」
訓練所の南には飛行場があって、そこで異世界からやってきた多種多様な空の乗り物が、毎日訓練飛行している。
「あれも驚いたけど、転移してきた物だろ?これはヘラス原産だから、また印象が変わるというか」
「なんじゃそりゃ」
カルシノンから軽い笑いがこぼれる。
やがて汽笛の音が響いて、車体がゆっくりと動き出す。
城壁がゆっくりと後ろに流れていく。
石造りの巨壁の向こうに広がるヘラスの大地が、窓いっぱいに広がった。
とはいっても、特筆するようなものは何もない。この世界に来た直後に抱いた印象と同じ。草と岩だらけの、荒涼とした大地だ。
それでも、久しぶりの外だ。
これから、実戦任務が始まるのだ。
胸の奥が、じわっとうずくような感覚に包まれるのを感じていた。
五分後。
「いや、早すぎだろ」
列車から降りたヒイロは、誰に言うわけでもなく、虚無に向かってツッコんだ。
「だからすぐだって言ったろ」
カルシノンが言う。
「いや、流石に五分とは思わないじゃん。五分て」
「はいはい、さっさと行くぞー」
カルシノンに引きずられながら、駅から出る。
そこは、さっきまでいたティリンスとは違う景色だった。
青いものが広がっている。揺れる光の帯。絶え間なく寄せては返す白い筋。陽光を跳ね返してきらきらと輝く、それは──
「海だ……」
思わず声に出ていた。
「なんだ、海は初めてか?」
「いや、そんなことはないけど……」
不思議と目を奪われる。
波が防波堤に打ち寄せ、白い飛沫を上げる。港には大小様々な船が停泊しており、荷を積み下ろす人々の声が行き交っている。
ティリンスでは嗅ぐことのなかった、潮の匂いが鼻を突く。
「おいそこ!ぼさっと突っ立ってるな!こっちだ!」
ジーンの声に急かされて、足早に集団に合流する。
桟橋には、木製のガレー船が待っていた。
甲板に上がると、海風が一層強く吹き付ける。
ほどなくして、出航。
ヒイロは船べりの欄干に手を置き、遠ざかっていくナウプリアの港を眺めていた。
「ナウプリアは、古くからコスモスが所有する港湾拠点です。あの街だけでも、多くのコスモス職員が働いているんですよ」
後ろから、落ち着いた声がする。
振り向くと、宇禅が立っていた。黒いジャケットの裾が海風に揺れている。
「へえ、お詳しいんですね。えっと、宇禅さん」
「はい、宇禅です。ヒロ君、隣よろしいでしょうか」
「あ、はい。どうぞ……あれ、自己紹介しましたっけ?」
ヒイロが首を傾げると、宇禅は小さく口元を緩めた。笑っているのに、どこか緊張をほぐすような、静かな笑い方だ。
「いいえ。でも、お噂はかねがね。転移して早々にミノタウロスを相手取り、模擬戦ではあのゼウクシア君に勝利した、期待の新人」
さらりと言われ、ヒイロは思わず視線が泳ぐ。甲板の木目を見つめながら、頬のあたりがむず痒くなる。
「いやあ、そんな」
否定しながらも、完全に否定しきれない自分がいるのが、余計に気恥ずかしい。
「ところで宇禅さん、
気を紛らわせるように、名前を聞いた時から気になっていたことをぶつける。宇禅は「日本」という単語に、ほんの僅かだけ目を細めた。
「ガイア11のオムヤタです。ニホンとは違いますが、よく似た場所みたいですね」
答えながら、宇禅は遠くの地平線を見やる。波の音と、彼の懐かしそうな声が、ゆっくりと甲板の上に溶けていった。
しばらく波の音だけが二人のあいだを満たしていた。船底を叩く水の音と、遠くで飛ぶカモメの鳴き声。潮風が横から吹き込み、ヒイロの前髪をゆっくり揺らす。
「その、帰りたかったり、します?」
何気ないふりをして尋ねたつもりだったが、自分の声が思ったよりも真剣なのを、ヒイロ自身が一番よく分かっていた。
「どちらかといえば、いいえ。もうこっちに来て三十年近くになります。この世界で、英雄として長年生きて、妻に子どももできました。この世界で、守りたいものができてしまった……ヒロ君は?」
宇禅は視線を海から外さないまま、静かに答える。
「分かりません。けど、今は、こっちでやれるだけやってみるつもりです。この任務も」
自分で言いながら、「今は」という言葉がやけに重く響く。過去と未来のどっちにも足場を置けていない感覚。だからこそ、目の前の任務に縋るように意識を向ける。
「不安はありませんか?」
宇禅の問いは、責めるでも試すでもなく、本当にただ事実を確かめるだけの声音だった。
「ないわけでは、ないです。でも、今さらビビってても仕方ないかなって」
「いい答えです」
宇禅が、はっきりとヒイロの方に視線を向ける。黒目がちの瞳が、真っ直ぐこちらを射抜く。
「不安や恐怖のない人間は、二種類います。何も知らない者と、知った上で前に出る者。あなたは後者なのでしょう」
その言いぶりに、ただの社交辞令ではない重みを感じる。三十年、この世界で戦ってきた者の言葉だ。
「そうだといいんですけど」
ヒイロは照れ隠しのように視線を海へ逸らす。揺れる水面を見つめながら、小さく息を吐いた。
不安が消えたわけではない。それでも、さっきよりも少しだけ、自分の足元が固くなった気がした。
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