第4話 資金調達は和歌の調べ
第4話
資金調達は和歌の調べ
その朝、学園の中庭にある東屋は、いつもと違う匂いがしていた。
――墨の匂い。
それに、ほんのり甘い白檀(びゃくだん)の香り。
普段は令嬢たちの笑い声と、焼き立ての菓子の匂いが漂う場所だ。だが今日は違う。空気が、妙に張りつめている。
「……あの、ここで合ってますの?」
小さな声でそう言いながら、エレンが足を止めた。
東屋の前には、見慣れない立て札が置かれている。
――本日限定
《光のサロン》開設
達筆な文字。黒々とした墨跡が、朝の光を吸い込んでいる。
「“ひかりの、さろん……?”」
エレンが首を傾げた、その背後から。
「おや。迷える乙女が一人」
低く、よく通る声がした。
「……っ!」
振り返った瞬間、視界に飛び込んできたのは、いつもより妙に“整えすぎた”ヒカルだった。
深い紺の上着。白いシャツの襟元はきっちり整えられ、髪も無駄に艶がある。
そして何より――笑み。
いや、微笑み、というべきか。
「ようこそ。今日の私は、“商品”です」
「……は?」
エレンの口から、素で声が漏れた。
「な、なにを……言って……」
「安心したまえ。身体を売るわけではない。私はそこまで堕ちてはいない」
「余計に怖いです!」
エレンが一歩引いた、その瞬間。
「きゃっ」「あら」「まあ!」
令嬢たちが、連れ立って東屋に吸い寄せられてきた。
「見て、あの文字……」「すごく綺麗……」
「え、ヒカル様が何かやるの?」
「聞いた? “雅を嗜む会”ですって」
ざわり、と空気が動く。
ヒカルは、そのざわめきを楽しむように、ゆっくりと扇を広げた。
「――本日は皆様に、前世仕込みの“雅”をお売りいたします」
「ま、前世……?」
「和歌、筆跡、所作、微笑み。
お好みのものを、お好みのだけ」
そう言って、ヒカルは卓上の硯に墨を落とした。
墨が水に溶ける、かすかな音。鼻に届く、湿った匂い。
筆を取る指先は、驚くほど静かだった。
「……あ」
誰かが、息を呑んだ。
ヒカルの筆は迷わない。
さらさらと紙の上を滑り、やがて一首の和歌が現れる。
意味は、難しくない。
春を待つ心。
触れぬ想い。
それでも続く日々。
――なのに。
「……胸が、きゅっとしますわ……」
令嬢の一人が、思わず呟いた。
「これは……」
「心に触れる、というやつだ」
ヒカルは筆を置き、微笑んだ。
その笑みは、いつもの“自信満々のナルシスト”のものとは違う。
どこか、距離がある。
踏み込ませない、余白のある微笑み。
「こちらは“書”。
こちらは“和歌”。
そして――」
ヒカルは、そっと一礼した。
角度、速度、目線。
すべてが計算された所作。
令嬢たちの頬が、一斉に染まる。
「……あ、あの……」
エレンは、完全に置いていかれていた。
「ヒカル……あなた、何を……」
「借金返済だ」
即答だった。
「……は?」
「二億円だぞ。恋だの倫理だの言っている場合ではない」
その言葉に、エレンは言葉を失った。
ヒカルは続ける。
「私は知っている。
人は“物”には金を渋るが、“体験”には金を払う」
「……それ、最低の言い方じゃないですか」
「最高の現実主義だ」
ヒカルは肩をすくめる。
「安心しろ。これは搾取ではない。
欲しい者が、欲しい分だけ払う。
私は、前世で培ったものを差し出すだけだ」
その横顔を、エレンはじっと見つめた。
いつもの、軽薄で距離感のおかしい男。
――なのに。
今のヒカルは、どこか“必死”だった。
令嬢たちが次々と列を作る。
小銭の音。
紙幣が重なる音。
金の匂いと、墨の匂いと、かすかな香。
東屋は、奇妙な熱を帯びていた。
「……なんか」
エレンは、小さく呟く。
「クズなのに……頭、いい……」
その言葉を、ヒカルは聞いていないふりをした。
ただ、ほんの一瞬だけ。
口元が、少しだけ緩んだ気がした。
――生き延びる。
それだけを、今は考えていた。
雅も、恋も、誇りも。
全部、あとだ。
今日売るのは、
過去と美貌と、少しの余裕。
それでいい。
ヒカルは、次の客に向き直り、再び微笑んだ。
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