第5話 想定外の生存者

夜の森は、昼とはまったく別の顔を持っていた。

 月明かりは木々の隙間から断片的に差し込み、地面には不規則な影が落ちている。風が吹くたびに枝葉が擦れ合い、その音が何者かの足音のように錯覚させた。


 私は歩みを緩めながら、周囲に意識を張り巡らせていた。

 先ほどの魔物たちを倒したとはいえ、この森が安全になったわけではない。むしろ、力を使ったことで新たな「何か」を引き寄せる可能性もある。


 だが、不思議と焦りはなかった。

 胸の奥で、長く眠っていた感覚が完全に目を覚ましている。


 ――私は、生き残れる。


 その確信は、根拠のない自信ではなかった。

 力を解放したときに感じた感覚。恐怖ではなく、理解。暴走ではなく、制御。かつて「危険だ」と断じられた力は、私の意思に従っていた。


「本当に……ずっと、恐れすぎていただけなのね」


 自嘲気味に呟いた、そのときだった。


 かすかな音が、風に混じって届く。

 人の声だ。


 私は即座に足を止め、気配を消すように身を低くした。

 魔物ではない。だが、それが安全を意味するわけでもない。


「……誰か、いないのか」


 掠れた声だった。

 疲労と恐怖が混じり、必死に押し殺されている。


 慎重に近づくと、木の根元に崩れ落ちるように座り込んだ男の姿が見えた。服装からして、兵士ではない。商人か、旅人だろう。足には血が滲み、明らかに負傷している。


 彼は私に気づくと、驚いたように目を見開いた。


「た、助けを……」


 その瞬間、頭の中で警鐘が鳴った。

 ここは森の奥だ。一般人が一人で来る場所ではない。


 ――罠の可能性。


 だが、男の瞳に宿る恐怖は、あまりにも生々しかった。

 演技には見えない。


「どうして、こんなところに?」


 距離を保ったまま問いかけると、男は苦しそうに息を整えながら答えた。


「街道を……通っていたんだ。急に、魔物が……」


 街道。

 その言葉で、王太子の忠告が脳裏をよぎる。


 やはり、街道は危険だった。

 彼は、運よく森に逃げ込めたに過ぎない。


「仲間は?」


「……全滅、だ」


 男は目を伏せ、拳を握りしめた。

 その姿に、胸の奥がわずかに痛んだ。


 私は少し考え、決断する。

 このまま放置すれば、彼はここで死ぬ。

 助ければ、余計な関わりが増える。


 それでも。


「立てますか」


 そう声を掛けると、男は信じられないものを見るような表情を浮かべた。


「……助けて、くれるのか?」


「条件付きで」


 私は冷静に告げた。


「あなたが見たこと、感じたこと。私に関することは、一切口外しない。それが守れないなら、ここで別れます」


 男は一瞬戸惑い、それから何度も頷いた。


「分かった……何でもする」


 その必死さに、嘘は感じられなかった。


 私は彼の怪我に手をかざし、最低限の治癒を施す。

 力を抑えながらの行使だったが、それでも男は目を見張った。


「……あんた、一体」


「詮索しない約束です」


 ぴたりと遮ると、彼は慌てて口を閉じた。


 その反応を見て、私は内心で息を吐く。

 これでいい。深入りは不要だ。


 だが同時に、理解していた。


 ――私はもう、完全な一人ではない。


 この森で生き延びた者がいる。

 そして、その者は私の存在を知った。


 王国の想定は、「森に放り出された令嬢は消える」。

 だが現実は違う。


 私は生きている。

 目撃者もいる。


 それは小さな歪みだ。

 だが、積み重なれば、やがて無視できない誤算になる。


 夜の森を進みながら、私は確信していた。


 王国はまだ、知らない。

 自分たちが何を取り逃がしたのかを。

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