第3話第二章 火芽、内に宿る
世界がまだ「完成」のうちにあったころ、 その内側には、 ほとんど誰にも気づかれぬほど微かな ゆらぎが残されていた。
それは、 光の線でもなく、 闇の影でもなく、 法則のほころびとも、 運命の計算ミスとも違っていた。
形のない、 名前のない、 ただ「静けさの中に走る、ごく微かな揺れ」だけが、
世界のどこか、 誰にも特定できない一点で ひそやかに身じろぎしていた。
その揺らぎは、 外から来たものではない。
どこか別の宇宙から 侵入してきた異物ではなく、
世界そのものが 自らを組み上げたとき、
「完全」の継ぎ目に ごくわずかに残ってしまった 温度差のようなものだった。
完璧な沈黙の中に わずかに残っていた「息継ぎのし忘れ」。
隙を作るつもりはなかった。 しかし、“一切の揺らぎを消し去る”ということは、 世界自身にもできなかった。
消しきれない残り火のように、 その揺らぎは 世界の内部で丸くなり、 まだ名も持たぬまま、 長い時間をかけて じんわりと温度を蓄え始める。
それは、 世界が自らに許した、 最初の「裏切り」であった。
「すべてが正しくあれ」という 世界の誓約に対して、
「ほんの少しだけなら、 正しくない揺らぎがあってもよいのではないか」
そのような、 かすかな反逆が、
しかし声にはならないまま、 沈黙の底で ぬるい脈動として続いていた。
この裏切りは、 誰かに対する背信ではない。
“完全さそのもの”に対して 世界が自分で突きつけた 最初の疑問符である。
「完成は、本当に わたしの望みだったのか」
この答えのない問いが、 そのまま一つの揺らぎとして折り畳まれ、 世界の内奥に沈んでいった。
それを、 あとから人は「火芽」と呼ぶようになる。
しかし、この時点では、 まだ火ではない。
燃え上がる炎もなければ、 何かを焼き尽くす力もない。
そこにあるのは、 ほんのわずかな「温度」だけ。
冷えきった静謐のなかで、 かすかに「ぬるさ」を帯び始めた一点。
それは、 氷原の下に眠る まだ目覚めていない温泉のようでもあり、
まっさらな器の底に ごく薄く溜まり始めた 見えない熱の膜のようでもあった。
火芽は、 光らない。 叫ばない。 求めない。
ただ、 「完全であることに疲れた世界」の 深いところで、
消えてしまうこともなく、 燃え出すこともなく、
「まだ、別のあり方が どこかにあるのではないか」
という言葉にならない思いだけを、 温度として抱え続けていた。
火芽は、 意味を持たない揺らぎとして始まった。
それはまだ、 善でも悪でもなく、 希望でも絶望でもなく、
ただ「完成に対するわずかな違和感」という 名づけ前の状態で滞っていた。
だからこそ、それは どこへでも転じうる可能性を その身に引き受けていた。
祝福にもなりうるし、 破壊にもなりうる。
祈りの火種にもなりうるし、 争いの火種にもなりうる。
そのどれにも まだ決まっていない、 ただの「内なる逸脱」。
世界は、自らの中心に その逸脱を抱えたまま、 なおも静かに回り続けた。
完成を手放してはいない。 ただ、完成の奥底に 「小さな否定」を ひとつだけ埋め込んだ。
その否定が、 やがて生命を呼び込むことになるとは、 この時の世界はまだ知らない。
それでも、 確かにこうして、
火芽はすでに 世界の内に宿っていたのである。
◆この章の鍵となる語
• 「火芽」
• 「意味なき揺らぎ」
• 「内なる逸脱」
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