そのシャツのボタンを縫う指は
蒼空
第1話 世界で最も騒がしい停滞
その都市は、轟音(ノイズ)でできていた。
無数のリキシャ(三輪自転車)がベルを鳴らし、圧縮天然ガスで走るオート三輪が緑色の車体を震わせて咆哮する。クラクションは警告ではなく、ここに自分が存在するという必死の叫びだ。
バングラデシュ、首都ダッカ。
北海道より少し広い程度の国土に、一億七千人がひしめく世界有数の過密国家。
大使館の公用車は、もう三十分も同じ交差点で立ち往生している。
「相馬さん、午後のJICA(ジャイカ)との協議ですが、開始を十五分遅らせます」
後部座席で、私はスマホを操作してメールを打った。
相馬(そうま)タケル、三十歳。
あのアフリカでの赴任を終えてから、本省勤務を経て、ここダッカに赴任して一年が経つ。肩書きは二等書記官に上がった。
窓の外を見る時間は減った。代わりに、膝の上のタブレット端末でODA(政府開発援助)の進捗報告書を睨んでいる。
かつてのように、窓の外の物乞いに心を乱していては、仕事にならないことを学んだからだ。今の私に必要なのは、感傷ではなく、国益と開発のバランスを調整する実務能力だ。
「相変わらず酷い渋滞ですね、松岡さん」
隣に座っているのは、大学の先輩であり、大手アパレルメーカー「エアリー」の駐在員、松岡(まつおか)だ。今日は彼の工場視察に同行することになっている。
松岡は機能性の高いポロシャツの襟を正しながら、忌々しげに外を見た。
「時は金なり、なんて概念はこの国にはないのかね」
「この渋滞による経済損失は、年間数十億ドルと言われていますからね」
私が事務的に返すと、松岡は鼻で笑った。
「だが、このカオスこそが、この国の唯一の資源だ。人が溢れている。つまり、労働力が安い」
車がわずかに動いた。窓の外、極彩色のリキシャの幌(ほろ)が流れていく。
バングラデシュは「世界の縫製工場」と呼ばれている。中国の人件費高騰により、多くの日本企業がここへ生産拠点を移した。
松岡がタブレットを私に見せる。画面には、日本で発売予定の春物のシャツが映っていた。
「見ろよタケル。このシャツ、店頭価格いくらだと思う?」
「……二千九百円くらいですか?」
「千九百八十円だ。税込でな」
松岡は誇らしげに胸を張った。
「日本のデフレは深刻だ。消費者は一円でも安いものを求める。だが品質は落とせない。となれば、削れるのはここの人件費だけだ」
千九百八十円。
東京のランチ二回分。あるいは、ここダッカのワーカーたちの数日分の給料。
私は喉の奥が苦くなるのを感じた。ポケットからのど飴を取り出し、包み紙を剥く。ダッカの埃っぽい大気は、すぐに喉を痛める。
「……彼らの生活水準は、向上しているんですか」
私が尋ねると、松岡は肩をすくめた。
「仕事があるだけマシだろ。俺たちが発注しなきゃ、彼らは路頭に迷う。俺たちは雇用という名の『恵み』を与えてるんだよ」
悪気はないのだ。松岡は優秀なビジネスマンであり、彼の論理は資本主義において正しい。
車は市街地を抜け、工場地帯へと入っていく。
窓の外の景色が変わる。巨大なコンクリートの箱のような建物が並び、そのすべてから、地響きのような重低音が響いている。
ズズズ、ズズズ、ズズズ。
数万台のミシンが一斉に布を縫う音。
それはまるで、この国の心臓の鼓動のようだった。
「着いたぞ。ここが最前線だ」
車が鉄のゲートをくぐる。
私はタブレットを鞄にしまい、ネクタイを締め直した。
思えば三年前、私は無力だった。自分の感情だけで動き、少年を傷つけた。
だが今は違うと自覚している。私には外交官としての権限があり、使える予算があり、法律の知識がある。
もし、ここに不正義があるのなら。
私は「可哀想だ」と泣く代わりに、システムを使って戦うことができるはずだ。
車のドアが開く。
ムッとするような熱気と、繊維の埃の匂い、そしてミシン油の匂いが一気に押し寄せてきた。
私は三十歳の顔を作って、車外へと降り立った。
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます