第24話 小野小町

小野小町


「……また、その目ですね」


そう言うと、春の雨の匂いが、簾の向こうから流れ込んだ。

湿った風が、髪をわずかに揺らす。


「どの目だ」


男は笑う。

その笑いに、酒の匂いが混じっている。


「……“見たい”という目」


私は、指先で杯を押し返した。


「……それ以上でも、それ以下でもない」


若い頃から、そうだった。


「小町」


名を呼ばれるたび、

期待が、肌にまとわりつく。


「……はい」


返事をすると、

相手は必ず、少し落胆する。


「……声まで、美しいとは」


「……残念ですね」


私は、静かに言う。


「声は、飾りではありません」


ある夜。


「……歌を」


男が言った。


「……今すぐ」


「……なぜ」


「……あなたの歌は、人を狂わせる」


私は、少し笑った。


「……それは、歌のせいではありません」


筆を取る。


墨の匂いが、指に移る。


「……狂う準備が、

すでにある人にしか、

歌は届きません」


声に出して詠む。


 花の色は

 移りにけりな

 いたづらに


言葉が、空気を切る。


「……何を、失った歌だ」


男が言う。


「……若さですか」


「……いいえ」


私は、目を伏せる。


「……“見られること”です」


日が経ち、

視線は増え、

噂は膨らむ。


「……小町は、冷たい」


「……男を、選り好みする」


私は、独りごちる。


「……選ばせてください」


「……私の心は、

国のものではありません」


ある日。


「……老いは、怖くないのか」


若い女に、問われた。


「……あなたほど美しければ」


私は、しばらく考える。


夕暮れの匂い。

土の冷たさ。


「……怖いですよ」


正直に言う。


「……けれど」


目を上げる。


「……老いは、

私から“奪う”だけではありません」


「……何を、残すのですか」


「……言葉です」


夜。


鏡の前で、呟く。


「……小町」


自分の名を呼ぶ。


「……あなたは、

いつまで、見られる?」


鏡の中の顔は、

少しずつ、変わっている。


「……でも」


指で、唇に触れる。


「……まだ、詠める」


人が減る。


訪ねる者が、減る。


「……静かですね」


侍女が言う。


「……ええ」


私は、頷く。


「……やっと、静かです」


虫の音が、夜に満ちる。


「……今なら」


私は、息を吸う。


「……誰の期待もなく、

言葉を出せます」


晩年。


「……小町さま」


通りすがりの男が、言う。


「……あなたが、

かつての絶世の美女だと」


私は、笑った。


「……それで?」


「……今は、

ただの老婆だ」


「……そうですね」


私は、地面を見つめる。


乾いた土の感触。


「……でも」


顔を上げる。


「……あなたは、

今、私の言葉を聞いています」


男は、黙る。


最後に、私は言った。


「……美しさは、

見る者の中に生まれます」


「……私は、

それを、借りていただけ」


風が、髪を揺らす。


「……けれど」


声を、強める。


「……言葉は、

私のものです」


後に、人は言った。


――絶世の美女。

――恋多き女。

――老いて乞う者。


けれど、その時、

小野小町は、沈黙していなかった。


見られ、

語られ、

消費され、

それでも――


最後まで、

自分の言葉で、

世界を切り取っていた。


小野小町。


それが、

美しさよりも先に、

言葉を選んだ女の名。


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