第18話 お市

お市


「……兄上、風が冷とうございます」


城の縁側でそう言うと、琵琶湖から吹き上げる湿った風が、袖の中まで入り込んだ。

春だというのに、骨の奥が冷える。


「お市、城の女は寒さに慣れよ」


兄――織田信長は、振り向きもせず言った。

鎧の金具がかすかに鳴る。

その音は、いつも決断の音だった。


「……はい」


返事はした。

けれど、慣れたことなど、一度もない。


「市」


母が、そっと声をかける。


「今日から、浅井殿のもとへ行く」


胸が、ひくりと鳴った。


「……浅井長政さま」


「良い方だと聞いております」


母の声は優しい。

それが、余計に怖い。


「……私は」


言葉を探す。


「……兄上の、役に立つのでしょうか」


母は、しばらく黙ってから言った。


「女はね、役に立たなくても、嫁ぐのよ」


その言葉が、胸に残った。


婚儀の日。


「……重い」


私は、小さく呟いた。

白粉の匂いが鼻を刺し、息が浅くなる。


「お美しゅうございます」


侍女が、鏡の前で言う。


鏡の中の私は、よく知る顔なのに、

笑い方だけが、分からない。


「市」


長政さまは、静かな声の人だった。


「寒くはないか」


「……はい」


「……嘘だな」


そう言って、笑う。


その笑顔に、胸が緩んだ。


「……兄上の妹で、すまない」


思わず言ってしまう。


長政さまは、首を振った。


「あなたは、あなたです」


その一言が、胸の奥に落ちた。


――ああ。

――ここなら、息ができる。


夜。


「市」


「……はい」


灯りの下で、長政さまが言う。


「もし……」


言葉を選ぶ間。


「もし、織田と浅井が、敵になったら」


胸が、きゅっと縮む。


「……私は」


声が、震える。


「……兄の妹です」


「……それでも」


長政さまは、私を見る。


「あなたは、私の妻だ」


沈黙。


「……どちらかを、選ばねばならぬ時が来る」


その言葉が、胸に刺さった。


数年後。


「市」


長政さまの声が、低い。


「……信長殿が、攻めてくる」


音が、遠のいた。


「……兄上が?」


「……そうだ」


私は、袖を握りしめた。


「……私は」


息を吸う。


「……城を、守ります」


長政さまは、目を細めた。


「……あなたは、逃げよ」


「嫌です」


即答だった。


「私は、浅井の妻です」


長政さまは、何も言わなかった。


夜。


「……兄上」


私は、空に向かって呟く。


「どうして……」


焚き火の匂いが、夜に溶ける。


「私は、兄上の妹ですよ」


涙が、頬を伝う。


落城の日。


「市!」


長政さまが、私の肩を掴む。


「……もう、終わりだ」


「……私も……」


「だめだ」


強い声。


「子を連れて、逃げよ」


「……では、あなたは?」


長政さまは、静かに笑った。


「私は、ここに残る」


胸が、裂ける。


「……嫌です」


声が、壊れる。


「……一緒に……」


長政さまは、首を振った。


「子らを、頼む」


その一言で、すべてが決まった。


「母上!」


娘たちが、泣きながらしがみつく。


「……大丈夫」


私は、必死に笑った。


「……母は、ここにいます」


けれど、心は、城に置いてきた。


兄のもとへ戻る道。


「……市」


信長が、私を見る。


「……よく、生きていたな」


その声は、優しくも、冷たくもあった。


「……兄上」


私は、膝をついた。


「……私は……」


言葉が、詰まる。


「……浅井の妻でした」


信長は、目を逸らした。


「……もう、終わったことだ」


その言葉が、刃だった。


数年後。


「……また、嫁げと?」


私は、信長を見た。


「……柴田殿に」


「……兄上」


声が、震える。


「……私、もう……」


信長は、短く言った。


「政だ」


その一言で、拒めなくなる。


北ノ庄。


「……勝家さま」


柴田勝家は、実直な人だった。


「……市殿」


「……この身、重ねて嫁ぐことを、お許しください」


勝家は、首を振った。


「……あなたは、何も悪くない」


その言葉に、胸が痛んだ。


最後の夜。


「市」


勝家が言う。


「……逃げよ」


「……嫌です」


私は、静かに答えた。


「……もう、逃げません」


炎の匂いが、近づく。


「……子らは?」


「……すでに」


私は、頷く。


「……兄上へ、行かせました」


勝家は、目を閉じた。


「……すまぬ」


「……いいえ」


私は、微笑んだ。


「……私は、選びました」


炎が、城を包む。


熱が、頬を焼く。


「……兄上」


心の中で呼ぶ。


「……私は、あなたの妹で」


「……誰かの妻で」


「……母でした」


最後に、息を吸う。


「……それで、十分です」


後に、人は言う。


――戦国一の美女。

――悲劇の女。


けれど、その夜、

お市は、泣き叫ばなかった。


愛し、

選び、

別れ、

それでも――


自分の足で、炎の中に立っていた。


お市。


それが、

誰かの影では終わらなかった女の名。


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