第3話 テディベアと忘れてはいけない

 1. 抉り取られた寂しさ



 暦は最近、仕事の疲れを感じていた。他人から流れ込む強い後悔の感情に触れ続けることは、論理で武装していても、精神を削る行為だった。湊が淹れてくれた温かいカフェオレを手に、暦は休憩していた。


 その日届いた三つ目の落とし物は、これまでの品と雰囲気が大きく異なっていた。


 届いたのは、片目の取れた、くたびれたテディベア。手作りらしく縫い目が不揃いで、全体的に古びて毛羽立っているが、抱きしめられた跡や、何度も手入れされた形跡があり、大事にされていたことがわかる。


 暦がテディベアに触れた瞬間、彼女の心に流れ込んできたのは、これまでの焦燥や悲しみとは違う、鋭く、純粋な「見捨てられた寂しさ」だった。それは、幼い子どもの絶望に近い感情だった。


「これは……すごく孤独な感情だわ」


 暦はテディベアを抱きしめるように胸に当てた。


「この子は、持ち主にとって大切な存在だったのに、持ち主は、この子を失ったことを、強く後悔している」


 湊がテディベアの小さな体に触れた。


「大事にされていた証拠だね。それにしても、目が片方ないのは……」


 暦は虫眼鏡を取り出し、片目がない部分を検分した。


「これは、自然に取れたんじゃない。糸が解けたんじゃなくて、ハサミのような鋭利なもので、意図的に抉り取られた跡よ」


 テディベアの目に強い衝撃を加えた持ち主の感情は、一体何だったのか。愛する対象を傷つけるという行為には、愛情の裏返しにある、激しい怒りが潜んでいる。


 暦は、テディベアの布地や使われている綿の質、縫い目から、手芸品の知識を総動員して分析を試みたが、素材が一般的すぎて特定できなかった。


 その時だった。店の隅に、水無月 希が、いつものように曖昧な光の中で立っていた。


「やあ、預かり所係さん。今度の落とし物は、『愛の形』だね」


「希。あなた、この素材について何か知っている?」


 暦は藁にもすがる思いで尋ねた。


 希はテディベアに近づき、片目のない部分を指差した。


「素材はね、近くのデパートの手芸コーナーで、七年前の夏に、共同制作キットとして、期間限定で売られていたものだよ。失われた目は、お母さんの時間だったね」


 そう言い残し、希は瞬く間に姿を消した。


「七年前の夏……共同制作キット」


 暦はメモを取りながら呟いた。


「このテディベアは、親子が一緒に作るはずだったものだ」



 2. 仕事と家族の選択


 湊がデパートの情報を確認し、七年前の顧客記録をたどった結果、持ち主らしき人物を特定した。


 篠崎 雅美(しのざき まさみ)。40代の会社の役員。仕事一筋で、現在も多忙を極めている女性だ。


 後日、スケジュールの合間を縫って喫茶店に現れた篠崎は、全身から張り詰めた緊張感を放っていた。彼女はテディベアを見て、顔色を変えた。


「これは……娘が、作ったもの」


 篠崎は、七年前の夏、娘の誕生日プレゼントとして、この共同制作キットを購入したことを語った。娘はベアの片目を付けたところで、残りは母親と一緒に作ると楽しみにしていた。しかし、篠崎はその日に、海外出張が入った。


「娘との約束より、仕事の成功を選びました。泣いて私を引き止める娘を振り切って、空港へ向かったんです」


 その日の夜、娘は高熱を出し倒れた。出張から帰国後も、篠崎は娘の看病を秘書に任せ、仕事に没頭した。結果、娘との関係は冷え切り、今では会話もほとんどないという。


「あのテディベアは、娘の部屋に置き去りにされていました。私への怒りと、寂しさを込めて、娘が私の目の部分を抉り取ったのだと思っています」


「私の後悔は、あの時、なぜ娘との約束を優先できなかったのか。成功と引き換えに、一番大切なものを失ってしまったことです」


 篠崎は、涙を流す代わりに、硬い表情でそう言い切った。



 3. 母親の目


 暦は、篠崎の抱える後悔と、自分が祖父の苦悩から目を背けた過去が重なり、胸が締め付けられるのを感じた。


「あの時、ああしていれば」という後悔は、過去への執着を生む。暦は、感情的になりそうになるのを抑え、希の言葉と、テディベアの「抉られた目」の痕跡に論理を集中させた。


「篠崎さん。娘さんが本当に欲しかったのは、完成したテディベアですか?」


「いいえ。私と一緒に作る時間です」


「では、娘さんが抉り取った『目』は何を意味しているのでしょう?」


 篠崎は答えに詰まった。


 暦は静かに語り始めた。


「娘さんは、お母さんの目を欲しがっていたのです。自分だけを見てくれる、愛情のこもった目を。しかし、あなたが空港へ向かった時、娘さんは、『私より仕事を見つめている、母親の目』に裏切られたと感じた」


「そして、あなたが帰国後も仕事ばかり見つめ、自分を見てくれなかったことで、娘さんは絶望した。だから、テディベアから、『あなた(母親)の象徴』である目を抉り取ったのです」


 テディベアは、母親が自分を見てくれるという「未来の約束」の象徴だった。それが反故にされたからこそ、テディベアは「落とし物」としてここに届いたのだ。


「あなたが戻りたいと願ったのは、七年前のあの夏、仕事を選んだ『選択の瞬間』。そして、娘さんが本当に返してほしいのは、『失われた目』ではありません。今からでも、あなただけを見てくれる『未来の母親の目』ではないでしょうか」


 篠崎は、その言葉を聞き、初めて硬い表情を崩し、堰を切ったように涙を流し始めた。彼女は、仕事の成功を捨ててでも過去に戻りたいと願っていたが、本当に必要なのは、過去を受け入れた上で、現在の娘と新しい関係を結ぶ勇気だと悟った。



 4. 新しい約束


 暦はテディベアを篠崎に手渡した。


「このテディベアは、あなたの失敗の証拠ではなく、娘さんとの間に、『まだ、やり直す余地がある』という希望の証拠です。娘さんの部屋に置き去りにされていたということは、娘さんは、あなたがこれを見つけてくれるのを待っていたんですよ」


 テディベアは篠崎の手に渡ると、すぐに体温のような温かさを取り戻した。寂しさの感情は薄れ、代わりに強い「希望」の感情が宿り始めた。


 篠崎は「ありがとうございます」とだけ言い、テディベアを抱きしめて帰路についた。彼女は会社に戻り、役員職を辞任するのではなく、仕事の優先度を家族とバランスの取れる位置まで見直し、娘に新しい共同制作の約束を申し出ることを決意する。



 暦は、誰もいなくなった預かり所で、自身の両手をじっと見つめていた。


「あのテディベアから目を抉り取った娘の怒り……、それは、私が祖父の苦悩から目を背けた時の、祖父の静かな悲しみと、同じだった」


 暦は自問する。自分は予備校講師を辞めたことを後悔していると思っていたが、本当に逃げたかったのは、祖父が重い過去を抱えていることを知りながら、「私は子どもだから」と見て見ぬふりをした、自分の弱さだったのではないか。


 その時、彼女の視線が、自然と祖父の書斎の奥にある、鍵のかかった古びた扉に向けられた。


(あの鍵は、どこにあるんだろう。もし、あの扉を開けたら……私は、自分自身の後悔と向き合えるのだろうか)


 暦の胸の中で、祖父との約束の記憶が、より鮮明に、強く脈打ち始めた。そして、彼女は、次の落とし物は、自分自身の物語に繋がっているのではないかという、強い予感に囚われるのだった。

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