第6話 地下室の壁画は完成している(第5話B案)
地下室は、いつも通りだった。天井は低く、空気は循環装置の音で薄く揺れている。床はすでに拭き終わり、器具も元の棚に戻してある。残っているのは、最後の確認だけだった。
壁に向き直ったとき、私はそこで立ち止まった。
白い壁面に、いくつもの斑点が残っている。大小の染み。粒子の集合。色は単一ではなく、薄いものから濃いものまで段階がある。飛沫というより、配置と呼ぶほうが近い。偶然に任せて置かれたはずのものが、そうは見えなかった。
一歩下がる。視界に壁全体を収める。中心がわずかにずれている。左右の余白が釣り合っている。斑点の群れは、無秩序を装いながら、一定の比率を保っていた。
私は、どこかで見た数式を思い出す。名前までは思い出さない。ただ、絵画集で何度も目にした構図に似ている。視線が自然に流れ、最後に中央へ戻る。完成された配置だった。
近づくと、表面の質感が分かる。塗料の上に薄く重なった色面。乾きかけの部分と、すでに落ち着いた部分。光の当たり方で、境界が浮かび上がる。意図した線は一本もないのに、輪郭は存在していた。
私は布を手に取る。通常なら、ここで拭き取る。それだけの作業だ。規定も明確だ。壁は白く、痕跡は残さない。
だが、布は壁に触れなかった。
この配置は、すでに閉じている。足すことも、引くことも想定されていない。わずかでも触れれば、全体が崩れる。そんな予感が、計測の結果のように浮かぶ。
床に小さな破片が落ちている。拾い上げて、位置を確認する。破片は、壁の斑点と視覚的に呼応している。偶然の連なりが、ひとつの面を作っている。
換気音が一定の周期を刻む。時間が進んでいる証拠だ。斑点の縁は、さらに乾き、色は沈んでいく。形は変わらない。
私は作業台に布を置いた。湿っている。乾くまで待てば使える。待つこと自体は、手順から外れていない。
照明を少し落とす。壁の色面は、まだはっきりと見える。展示室なら、この明るさで十分だろう。ここが地下であることを除けば。
記録用紙を取り出す。日付と場所を書く。完了の欄は空白のままにする。空白は、余白として機能する。
私は壁を見続ける。斑点の配置は、崩れない。換気音が続く。地下室は閉じたままだ。
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