名探偵の結論
瀬川の言葉に、村田刑事は困惑の表情を浮かべた。
「事故……ですか?」
「ええ。他殺ではありません」
瀬川は淡々と答える。
「ですが、密室で死体が発見され、争った形跡もあって……」
「それは錯覚です」
瀬川は現場を指差し、説明を始めた。
「まず、密室について。これは本物の密室です。トリックではありません。ドアも窓も、内側から正常に施錠されています」
「では、犯人は?」
「犯人はいません。大森氏は一人でした」
瀬川はデスクに近づく。
「次に、争った形跡について。確かに椅子は倒れ、書類は散乱し、コップも転がっています。しかしこれは争いの痕跡ではありません」
「では何なんですか?」
「転倒の痕跡です」
瀬川は遺体の位置を確認しながら続ける。
「大森氏は昨夜、書斎で仕事をしていました。その際、ウイスキーを飲んでいた。床に転がったコップからも、匂いが確認できます」
村田刑事はコップを見た。
「そして、何かを考えながら、あのメモを書いた」
瀬川は『もう限界だ』と書かれたメモを指差す。
「これは遺書ではありません。おそらく、仕事上の悩みを吐露したものです。筆跡鑑定で大森氏のものと確認されるでしょう」
「それで……」
「大森氏は立ち上がろうとしました。しかし、酒に酔っていたためバランスを崩した」
瀬川は椅子の位置を示す。
「椅子が倒れたのはその時です。立ち上がる際に椅子を押し、後ろに倒れた」
「なるほど……」
「そして、大森氏は前によろめきました。床の絨毯が捲れ上がっていたため、躓いたのです」
瀬川は絨毯を指差す。
「この絨毯、普段から端が捲れやすかったはずです。奥様に確認すれば分かります」
「それで、デスクに……」
「ええ。頭からデスクの角に激突した。この角は鋭く、致命傷になるには十分です」
瀬川は血痕を見つめる。
「書類が散乱しているのは、倒れる際に腕がデスクに当たったからです。コップが転がったのも同じ理由です」
「では、本当に事故だと……」
「間違いありません。これは不慮の事故です。他殺ではありません」
村田刑事は呆然とした。
「そんな……。私はてっきり殺人事件だと……」
「密室だったからですか?」
霧島が静かに尋ねる。
「はい。密室で死体があれば、通常は他殺を疑います」
「ですが、完全なる密室だからこそ、他殺ではないのです」
瀬川は窓を見つめる。
「もし他殺なら、犯人はどうやって脱出したのか。トリックを使ったのか?しかし、この部屋にはその痕跡はありません」
「つまり、最初から犯人などいなかった……」
「その通りです」
瀬川は村田刑事を見た。
「これは事故です。大森氏が酒に酔って転倒し、不運にもデスクの角に頭をぶつけた。それだけです」
村田刑事は深く息を吐いた。
「わかりました。奥様にもそうお伝えします」
*
再び応接室で、静子に事故であることを伝える。
「事故……だったんですか」
静子は呆然としている。
「はい。ご主人は書斎で転倒し、デスクに頭をぶつけました。他殺ではありません」
村田刑事が説明する。
「そんな……」
静子は顔を覆った。
「絨毯のことですが、普段から端が捲れやすかったのでは?」
瀬川が尋ねる。
「はい……。何度か直そうと思ったのですが、夫が『気にするな』と言ったので……」
静子は後悔の色を浮かべる。
「それが原因だったんですね……」
「奥様の責任ではありません。これは不慮の事故です」
瀬川は穏やかに告げた。
*
大森家を後にする瀬川と霧島。
車に乗り込むと、霧島が小さく息を吐いた。
「事故、でしたね」
「ああ」
「密室だったので、私も最初は他殺かと思いました」
「密室は、必ずしも他殺を意味しない」
瀬川はエンジンをかけた。
「むしろそうである事の方が珍しい。フィクションじゃないんだから」
「……それもそうですね」
霧島は窓の外を見た。
「村田刑事、少しがっかりしていましたね」
「殺人事件だと思っていたからだろ」
「瀬川さんは?」
「何が?」
「事件ではなかったことに、がっかりしませんでしたか?」
瀬川は少し考えて答えた。
「いや。真実が明らかになれば、それでいい」
「そうですか」
霧島は小さく微笑む。
そして静かに呟いた。
「……無駄な時間でしたね」
瀬川は眉をひそめる。
「無駄……?」
「事件ではなかったんですから。探偵を呼ぶ必要もなかった」
「……そうかもしれないな」
瀬川は淡々と答える。
「だが、真実を確認する作業は必要だった。それは無駄ではない。そうだろ?」
「……そうですね」
霧島は手帳を閉じた。
車は静かに、大森家を離れていった。
青空の下、探偵と助手を乗せた車は、次の目的地へと向かう。
だが、瀬川はまだ気づいていなかった。
自分が呼ばれる「事件」が、これからどんな展開を見せるのか。
――第一章 終――
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