第9話 偽薬効果(プラシーボ)と情報非対称性

「……無理です。勝てません」


夜明け前、セリアの声が震えていた。

眼下には、無残に破壊された「自動処理ライン」の残骸が転がっている。昨日の爆発で敵を撃退したものの、それは「虎の子の設備」を自爆させたに過ぎない。我々は今、丸裸だった。


「偵察からの報告では、敵の第二波が再編成中。規模はおよそ300。……対して、こちらの防壁は崩壊。兵士たちは『魔法の機械』を失ってパニック状態です」


セリアが悔しげに唇を噛む。

兵士たちの視線は泳ぎ、手足は震えている。昨日まで「賭け」に興じていた威勢の良さはどこへやら。彼らは本来、敗残兵の集まりなのだ。楽をして勝つ味を覚えた分、現実への耐性が下がっている。


「物理的な戦力差は10倍。地形効果なし。……全滅ですね」

「計算が雑だな、セリア」


カイは壊れた機械の残骸に腰掛け、新しいタバコに火をつけた。


「戦力差なんてのは、スペック表の数字じゃない。『相手がどう思っているか』で決まる」

「精神論ですか? カイ様らしくもない」

「精神論じゃない。『情報戦』だ」


カイは懐から、毒々しい赤色の錠剤が入った小瓶を取り出した。


「バルト!」

「へいへい、旦那。お待ちかねの『アレ』、届いてますぜ」


バルトが荷車から運び出したのは、同じような赤い錠剤が詰まった木箱だった。


「なんだ、それは?」

「王都の裏ルートで手に入れた『狂戦士の薬(バーサーク・ピル)』だ。飲むと一時的に痛覚が遮断され、筋リミッターが外れる。死ぬまで戦い続ける無敵の兵士の出来上がりだ」


セリアが息を呑む。


「そ、そんな非人道的な……! 副作用があるはずです!」

「ああ。効果が切れたら反動で死ぬか、廃人になる。……だが、今ここでオークに食い殺されるよりはマシだろ?」


カイは冷酷に告げると、怯える兵士たちを集合させた。

そして、演説をぶつ。


「聞け! 敵はすぐそこだ。逃げ場はない。だが、この薬を飲めばお前らは鬼神になれる。痛みはなくなり、恐怖も消える。その代わり――寿命の前借りをしてもらう」


兵士たちがざわめく。

だが、沈黙を破ったのは、昨日大穴を当てて金貨を手にした若者だった。


「……どうせ死ぬなら、金持ちのまま英雄として死んでやる!」


彼は錠剤をひったくると、一気に飲み込んだ。

すると、どうだ。

数秒後、彼の顔から怯えが消えた。目が血走り、全身から湯気が立ち上る(ように見える)。


「う、うおおおお! 力が……力が湧いてくるぞぉおお!」


それを見た他の兵士たちも、先を争って薬を飲み始めた。


「俺もくれ!」「俺もだ!」


数分のうちに、デッド・エンドの守備隊は、奇声を上げて武器を振り回す狂気の集団へと変貌した。


「……準備完了だ。セリア、お前も飲んでおくか?」


カイが小瓶を差し出す。

セリアは拒絶するように首を振った。


「私は騎士です。薬物に頼ってまで戦うくらいなら、誇り高く死にます」

「そうか。なら、その『正気』な顔で演技をしてくれ」


カイはニヤリと笑い、崩れ落ちた城壁の「真ん中」に椅子を置かせた。


---


「……妙だな」


北の森の陰。

魔王軍の参謀、グラスは眼鏡の位置を直しながら、遠見の魔法でデッド・エンドの様子を観察していた。


昨日の「爆発」には驚かされた。人間にしては潔い損切りと、罠の運用。ゆえにグラスは慎重を期し、夜襲を避けて明け方の総攻撃を選んだ。相手の設備が壊れている今が好機のはずだ。


だが。


「なんだ、あれは?」


崩壊した城壁の前。防御陣形を組むこともなく、人間たちが「踊って」いた。

いや、暴れている。味方同士で殴り合い、奇声を上げ、中には自分の体を剣で傷つけて笑っている者さえいる。

そして、その中心で、領主とおぼしき男が優雅に茶を飲んでいる。


「……狂乱状態? いや、士気が異常に高い」


グラスの横に控えていたオーク隊長が唸る。


「参謀殿! 人間どもは乱心したようです! 今すぐ突撃して踏み潰しましょう!」

「待て」


グラスは制止した。

彼の高度な知性が、警鐘を鳴らしている。

昨日の「罠」といい、あの領主はただの人間ではない。防御設備が壊れた翌日に、あえて城壁の外で待ち構える? しかも、兵士たちは明らかに常軌を逸した「強化」が施されている。


「……『囮(ベイト)』だ」


グラスは結論づけた。


「あれは、我々を誘い込むための餌だ。あの兵士たちは、何らかの禁呪か薬物で『生きた爆弾』にされている可能性が高い。不用意に近づけば、昨日の比ではない被害が出るぞ」

「し、しかし……」

「それに、あの領主の態度。……『待っている』顔だ。奥にまだ、何か隠している」


情報の非対称性。

グラスはカイを知らない。だが、「昨日、高価な設備を惜しげもなく自爆させた男」という情報は持っている。そんな男が、無策で立っているはずがない。

論理的であればあるほど、カイの仕掛けた「非論理的な光景」は、深読みの迷宮へと誘う毒となる。


「……撤退だ。リスクが見合わない」

「は、はい!?」

「再調査を行う。あの『強化兵』の持続時間と副作用を見極めるまでは、手出し無用だ」


魔王軍が、音もなく森の奥へと消えていく。

その撤退の手際の良さは、彼らが烏合の衆ではなく、洗練された軍隊であることを証明していた。


---


「……行っちゃいましたね」


セリアが呆然と呟く。

敵の姿が完全に見えなくなると、カイは手に持っていたティーカップを置き、大きく息を吐いた。


「ふぅ。……ビビらせやがって。やっぱり相手の指揮官は『賢い』な」

「賢いからこそ、深読みしてくれたんですね」


セリアは、周囲でまだ「うおおお!」と叫んで素振りをしている兵士たちを見回した。

そして、恐る恐るカイに尋ねる。


「あ、あの……彼らは大丈夫なのですか? その……副作用で死ぬとか……」

「死ぬわけないだろ」


カイは空になった小瓶を放り投げた。


「中身はただの『赤い砂糖菓子』と『小麦粉』だ」

「……はい?」

「バルトに作らせた偽薬(プラシーボ)だよ。『興奮作用がある』と信じ込ませて飲ませれば、人間は案外その気になるもんだ」


セリアは絶句した。

眼の前で、肌を紅潮させて咆哮している兵士たち。彼らは全員、ただの「思い込み」でハイになっているだけなのか。恐怖で動けなくなるよりはマシだが、タネを知ってしまうと滑稽極まりない。


「……あなたは、本当に……」

「詐欺師だと言いたいか?」


カイは立ち上がり、兵士たちに声をかけた。


「おい、野郎ども! 敵はビビって逃げたぞ! お前らの気迫勝ちだ!」


おおおおお! と歓声が上がる。

勝利の興奮が、偽薬の効果をさらに高め、彼らは自分たちが無敵だと本気で信じているようだ。


「これで時間は稼いだ。だが、次は通用しない」


カイはタバコの煙を目に染み込ませながら、北の空を見上げた。

敵の指揮官は、必ず戻ってくる。今度は、このイカサマを見破った上で。


「……バルト。例の『アレ』の発行準備を急げ」

「へい。輪転機はフル稼働させてやす」

「セリア、次の戦いは『剣』も『罠』も使わない」


カイは懐から、一枚の羊皮紙を取り出した。

そこには、デッド・エンド領の紋章ではなく、カイが独自にデザインした奇妙なマークが描かれていた。


「次はこの紙切れで、奴らを殴り倒す」


国家を破産させるための、真の武器。

『独自通貨』の発行が、間近に迫っていた。


(第9話 完)

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