第2話 有機的な彼女 前編
#オーガニック小説
ミサキとは付き合って三年になる。
サッカーで進学した先の大学で膝を故障し、リハビリの甲斐なく競技を離れ、一般企業に就職して数年がすぎた頃の同窓会でたまたま同じテーブルになり、僕は彼女の凛とした佇まいに一目惚れしてしまった。同級生なので厳密には違うのかもしれないけれど、僕にとっては実質的にはそれが初めての出会いだった。
ずっと教室の後ろで本を読んでいるか、ノートに創作メモを書き続けている、孤立した化粧っ気のない女子。それがミサキだった。
サッカー部のレギュラーで、授業中はほとんど眠っているか、自分のトレーニングプラン、チームの強化や戦術ノート、対戦相手の分析に没頭し、授業が終われば終礼もそこそこに教室を飛び出していたような僕とは、まるで接点がなかった。
彼女にとっても僕はあまり好ましい印象はなかったようで、その場のノリでLINEの交換になった時も、彼女は億劫さを隠す様子もなく不機嫌そうに応じていた。
そこから僕の猛チャージに対して、彼女は最初のうちこそ迷惑そうにしていたが、徐々に打ち解け、やがて根負けして交際するようになった。それからすでに三年。僕らも三十歳手前になり、将来のことを考えるようになった。
「でも、今はまだ結婚は無理。売れない作家のまま終わりたくない。副業も辞めて、作家に専念しようか迷ってる」と彼女は言った。
「チャレンジするなら、応援するよ」と僕は無邪気に言った。「今はまだ無理」という言葉を「いずれ状況が整ったら結婚する」と、ポジティブに変換して受け止め、舞い上がっていたのかもしれない。
ミサキは几帳面で論理的な性格だった。大手のSI企業の事務職という本業(ミサキの認識では糊口を凌ぐ副業)があり、整然と片付いた部屋で、最新のスマートスピーカーやAIツールを駆使して効率的な生活を送っていた。
そんな彼女が書く小説なら、やっぱりきっとスマートで洗練されたものなんだろう。僕はそう信じて疑わなかった。
こんな僕でさえ体力と根性だけでなんとか職場に食らいついて少しずつ昇進しているのだ。才能のあるミサキならいずれ、大きな賞を取って人気作家になるだろうし、もしそれに時間がかかるのだとしても、いざとなれば生活面は僕が支えることだってできる。
「売れない作家」という彼女の自己評価が現実的にどういう意味合いなのか、文学に無縁の僕にはまるで分からなかった。
専門というのか分野というのか、つまり彼女が書いているライトノベルというものがどういう位置付けなのかさえ知らなかった。これまでに読んだ本といえば、サッカーのトレーニングや戦術に関するもの、故障したときに一縷の望みをかけて読んだリハビリ関連の書籍ぐらいだったからだ。
だから、僕は何も知らなかったのだ。彼女の世界を覆い尽くそうとしている、ドス黒く重く粘り気のある不吉な潮流のことを。ただただ、彼女との明るい希望に満ちた未来だけを思い描き、信じ込んでいた。
***
変化は、徐々に、しかし確実に訪れた。
最初の異変は、彼女の部屋だった。
昇進が決まり、新規事業の責任者に抜擢され、海外での二週間の研修を終えて帰国してみると、常に清浄に保たれていた彼女の部屋の空気が、妙に埃っぽく、湿り気を帯びていた。
デスクの上にあった大型モニターと高性能PCは姿を消し、代わりに大量の原稿用紙と、古びた万年筆、そして得体の知れないガラス瓶が散乱していた。
「PC、どうしたの?」
「捨てたわ。あんな『論理の塊』が部屋にあったら、純粋なインスピレーションが降りてこないもの」
ミサキは事もなげに言った。その目は、以前のような知的な輝きではなく、何か熱っぽい、焦点の合わない光を宿していた。じわり、と胸の奥に不安が広がった。
(続く)
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