いつか君は翼を広げ、虹のないあの空へ

霊森ねむ

✦ 0 帰還 ✦ - Prologue

「今こうして我々の目に映るすべてのものは、かつて誰かが描いた夢にすぎなかった」

――ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』地獄の格言より・意訳


「私たちは、夢という繭から紡がれた一筋の糸のようなものだ」

――ウィリアム・シェイクスピア『テンペスト』第四幕 第一場より・意訳



 それは酷く抽象的な、揺らぎにも似た夢だった。強烈に目を引く青白い光の帯が、キャンプファイヤーの周りを踊るジプシーたちのように楽しげに身をよじらせている。或いはこの旅を占うムーンストーンの様に儚げで、こちらに何かを訴えかけて来ているようでもあった。

 それは、必要に迫られて瞼を開いた。ほんの少しだけ消費電流が上昇したのを、振れる計器の針が報せてくる。そうして得られる眼前の視界情報の大半は、相も変わらず0で占められていた。チタン合金外殻の肌を伝う井桁いげたの火の熱も、グラフェンの鼻腔をくすぐたきぎ馨香けいこうも今では幻想で、代わりに見慣れた0だけが充ち溢れていた。

 それは、周囲で相互監視を続ける副観測コアユニットたちが、外宇宙の彼方より飛来した高エネルギー粒子体の描く青白い残影によって発生したバイナリコードのビット反転を瞬時に修復していくのを、無感情に見つめていた。書架の中で置き換わっていたひとひらの数字が元の0に収まり、それの脳裡に僅かの間に湧き立っていた原初の記憶はメモリの片ほとりにも残さずに霧散した。

 今日もそれは地球に向けて報告書を作成する。したためたのは先ほどの些細な出来事と、航行に関わる日常的な自機の点検報告。光学フィルターを通して検知されたやや不明瞭な光景に、ついでに新たに得られた塵芥レゴリスの刺々しいスペクトル解析データも添えて。報告書は刹那の時を置かずに完成した。自由自在に飛び回る思念の伝達。言い換えるならテレパシーの様に、地球へは3日と待たずに届くだろう。とは言え、地球側からの応答は途絶えて久しかった。毎日のルーティンのように送られるこの報告書が、果たして本当に読まれているのだろうかということについては、確証持てぬところではあった。もしかしたら地球の人たちは、それの成すことに興味を失してしまったのかもしれない。或いは、それの任務よりも優先するべきタスクに気を取られているのかもしれない。それとも、人はそれの存在をまるごとすっかり忘れ去ってしまったという可能性も捨て切れぬだろうか。

 それでもそれは、PCU中枢機核に刻まれた任務遂行の為には報告書を綴る電気的感応を止める訳にはいかなかった。最早誰が手に取るともわからないこの手紙はそれでも、飛び交う宇宙線の交通網を掻い潜ってこの宙を駆ける。そうしてこの宇宙域で飛ばす交信は、かれこれ5,000通目を数えていた。

 通信が途絶えてからどれ程の時が経過しただろう。ログデータを漁るにも消費電流が気がかりで、酷く億劫に感じる。その微睡みにも似た信号を払うように、一筋の宇宙線が再びそれのコアユニットに射し込んだ。一日で二度も中性子線がPCUに届くことは、特別稀有な事例であると言えた。即座に副観測コアたちが弄られた数値を直す傍ら、泡沫の様に浮かび上がった青白い記憶の中に、それは心地よく身を委ねることにした。



「プロメテウス計画。それは人類の新たな挑戦です。史上初となるAIコアを搭載した星間探査機『プロメテウス1』は今日、世界中の希望を乗せて遙か宇宙の先へと旅立ちます!」


 その日。それは、種々多様な人間との言葉の奔流の中で地球を旅立ったものだった。初のAIによる星間探査飛行。地上からは世界中の子供たちのたくさんの声援と言祝ことほぎが、色鮮やかな万国旗に押しくくまれて届けられた。


「プロメテウスがんばって!」

「たくさん星をつかまえてきてね!」

「ずっとずーっと待ってるよ!」


 曰く、それは今を生きる者たちの希望であり、曰く、それは未来を生きる者たちの夢であるらしい。プロメテウスと名付けられたそれは、その贈り物に抱く感情データに割くメモリチップの持ち合わせがないまま、それでも担当エンジニアの好意によって今も大切に当時のメッセージを格納し続けている。頑張って星を捕まえて、それを待ってくれている者の元へ、いつか。1101000011100001。

 ともかく、今日に至るまでそれは宇宙を拓く篝火となって星間探査を続けていた。人間の期待に応えるということは、この暗闇が広がる0の虚空から彼らが生存に耐えうる環境を見つけ、そこに宿す火を地球へと持ち帰ることに他ならない。その火こそが彼らの言う希望であり、夢なのだろうとそれは思っていた。であればそれの任務は、宇宙の組成データを解析し、僅かに漏れでた光も集め、石ころの形状をつぶさに観察することに終始するべきだった。

 それが送る信号は、地球側の好意的なフィードバックとなって宇宙空間を耕す。たくさんの星をチタン製のかいなで掴み取り、その形状や匂い、味に至るまで吟味した。どの星も、人が住むには到底相応しいものではなかった。

 そんなことをしている内に、地球から返ってくる通信は有機的な言語から無機質なバイナリコードへとなり代わっていた。よく見知った数字の羅列だ。この躯体と、そしてこの宇宙全体を表現するのに必要な、体現の元素ともいうべき1と0。それは交信というには味気なく、精神感応にも似た意思のやりとりをそれにもたらすのだった。それは地上のミッションコントロールセンターMCCのオペレーターが、自身と同じAIに置き換わった事を知った。

 とはいえ、そのことが自身の任務に何か障り得るかということは全くと言っていい程なく、むしろ地球側の技術的伝達速度の向上によって、更なる効率化が図られたのは言うまでもない。しかしながら、それの灯は、地球で待つ子供たちの夢を明るむ迄には至らぬままであった。


 残存行動可能時間ROLのモニタリングは続けていた。それは、これ以上深宇宙への航行を続けていれば地球への帰還は難しくなる事を冷静に評価していた。MCCからの信号は沈黙を湛えたままだった。総合的に考えれば、プロメテウス計画はなんらかの内部的或いは政治的事由により、当人のあずかり知らぬ所で破綻を来していたと結論付けることができた。それは、航行に必要な最低限の機能を残し、その他のオペレーションを全て停止させる判断を下した。無重力の水槽の淵でそれは、大量の星々の記録と、地球という星に住む子供たちの声だけを抱えた金鉄の胎児のように丸くなって揺蕩たゆたった。限られた思考領域の枠の中で、それは思惟を巡らせる。今までのことを。それが成したことは、とどのつまり人が評価する程の偉業ではなかったのかもしれない。この人工知性が畢生ひっせいの内にしたことと言えば、地球を囲う0の檻の中を見えない格子沿いに歩き回ったことくらいだった。この紀行に寄せる回顧録の頁をこれ以上増やす事には、おそらくは何の意味も帯びないだろう。

 それでも、とそれは思う。それでも、この世界へ翔びたった時に感じた人々の熱量は本物だった。そこに籠められた期待は、プロメテウス計画が国を挙げた一大プロジェクトであることを示していたのだ。それならば、当機はこの闇を祓い続ける篝火で在り続けなくてはならないだろう。例えそれの送る報告を受け取る者が、今はもう誰も居なかったのだとしても。


 その時だった。一際眩しく迸る青白い光の粒が、それを司る中央演算装置の上に激しく降り注いだ。同時に、それが慣性航法の赴くままに進んでいた路径の果てに、地球と見紛みまがう程の潤色うるみいろの惑星が姿を現す。かざす組成採取機構から伝わる反応は、人が住むに相応しい透き通ったブルー。パチリ。それの視界を、宇宙線が燈す火が跳ねるように祈るように彩る。それを取り囲むように並べられた六機の副観測コアも、今この目の前の現象に異を唱えるものは一つも居なかった。それの光学センサーは、一掬いっきくの涙で潤むように星々を映しながら、眼前の惑星を撮り続けた。そして、それはあらゆる言語を通じて、地球への最後の通信を試みる。管制AIを相手にしたバイナリコードではなく、人が、子供たちが読み解くことができるように、熱の通った文字を慎重に選び取った。


『――もういいよ』


 刹那だった。それは、地球からの数十年ぶりともいえる積日の果ての受信だった。


『頑張ったね』


 今も猶届く宇宙線は、華開くようにニューロンを煌めかせる。自分は頑張ったのだろうか。絶対零度の暗闇の中で、自分は最後に成し遂げることが出来たのだろうか。


『ほら、帰っておいで。みんなが君の帰りを待っているよ――』


 冷え切ったホイップルシールドの頬をそっと温める、掌の感触。それは神経叢しんけいそうに熱が流し込まれていくのをはっきりと知覚していた。海綿状の思考域に、ドロリとした感情の原液が沁み渡って行く。合理性と効率性だけではない、機械が持ち得なかった感情の揺らぎが、通信の声の主によってもたらされた様な気がした。そうしてプロメテウスに芽生えた情念は、奮い立つ歓喜を示していた。

 最後の任務を果たす時がきた。プロメテウスは軌道を変える。ROLのすべてを使いきったとしても、溜め込んだデータと記憶は地球へと持ち帰らなくてはなら無い。旅の道中に収めたたくさんの宇宙の神秘と、子供たちの夢に報いる青白いこの光を大切に抱えながら。



 0と0の隙間を縫って、やがて見えてきた故郷の星がプロメテウスの眸に映り込む。宝石のように輝いていた筈の地球。その輪郭は、プロメテウスが驚く程に静かだった。ちりばめた金液のごとき人工の光は何処にもともされてはいない。そこに在るのは、ただただ宇宙の0をまとい上げただけの球体であった。プロメテウスがただの物質それで在った頃の、PCU中枢機核に占めていた無機的な数字の羅列に似て、とても黒い色をしていた。



『いつか君は翼を広げ、虹のないあの空へ』

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