バベルの余白
銀 護力(しろがね もりよし)
第一章 定義されぬ喉の渇き
給水塔の影が、錆びついた路地を切り裂くように伸びている。午後二時の陽光は白く、硬質で、まるで漂白剤のように街の色彩を奪っていた。
レンは、路地の隅に設置された旧式の自動販売機の前で立ち尽くしていた。指先が震えているのは、アルコールの欠乏からではない。言葉の欠乏からだ。
網膜に投影されたインターフェースが、無機質な明滅を繰り返している。彼は乾いた唇を舐め、喉の奥から、自らの思考を「通貨」として吐き出す準備をした。
「……夜明け前の静寂のような、冷たくて、意識の底を打つ液体を」
レンが呟いた言葉は、空気中のマイクに拾われ、瞬時に構文解析される。販売機の冷却ファンが低い唸り声を上げ、処理中のインジケーターが赤く回転した。
数秒の沈黙。永遠とも思える断絶。
やがて、合成音声が事務的に宣告する。
『定義不足です。成分、温度、粘度、および抽出プロセスを数値的に記述してください。現在のプロンプトにおける解像度は〇・〇二パーセント。提供可能な製品は存在しません』
ガチャン、という金属音が虚しく響き、取り出し口には何も落ちてこなかった。レンは溜息をつく。その呼気さえも、この街では無駄な排出物(エミッション)として計測されているような気がした。
この世界は、あまりに正確すぎた。
数千年前、神は人々の言葉を乱し、世界を混沌へ突き落としたという。だが現代の神――遍在する高度AIシステム――は、その逆を行った。言葉を極限まで統制し、曖昧さを排除し、全てを「正解」へと導いたのだ。
ここでは、パン一つ手に入れるのにも、小麦の品種から焼き加減のグラデーションまでを論理的に定義する言語能力(プロンプト・スキル)が求められる。
正確な言葉は富を生み、詩的な言葉はエラーを生む。
レンのような音楽家や、彼の同居人のような画家は、この都市のバグだった。システムが認識できないノイズ。社会の余白にこびりついた、汚れのような存在。
何も入っていないポケットに手を突っ込み、レンは踵を返した。
視線の先には、都市の中央に聳え立つ「管理中枢塔(セントラル・スパイア)」が見える。ガラスと光ファイバーで織り上げられたその巨塔は、かつての煉瓦造りの塔とは似ても似つかない。けれど、それが天を衝く傲慢さの象徴であることに変わりはなかった。
あの中で、選ばれた「言葉の魔術師」たちが、世界を回すための呪文を記述している。彼らが「光あれ」と入力すれば、街の電力供給は最適化され、「富め」と記述すれば、株価は物理法則のように上昇するのだ。
住処である集合住宅は、都市の再開発区画から取り残された、コンクリートの墓標のような場所にあった。
エレベーターは先月から「稼働意義の消失」を理由に停止している。レンは七階までの階段を、重力に逆らうように登った。肺が軋み、鉄の味がする。
重い鉄扉を押し開けると、油絵具と薄荷(ハッカ)の匂いが鼻孔を掠めた。
狭いワンルーム。壁の一面は防音材代わりに古い雑誌の束で埋め尽くされている。窓から差し込む光の中に、埃が微粒子となって舞っていた。
部屋の中央、古びたイーゼルの前に、スイが座っていた。
彼女は痩せた背中を丸め、キャンバスに向かっている。作業着の裾は絵具で汚れ、切りっぱなしの髪が首筋に張り付いていた。
レンが帰ってきたことに気づいているはずだが、筆は止まらない。彼女にとって、描くことは呼吸と同義であり、他者の介入を許さない聖域だった。
レンは音を立てぬよう靴を脱ぎ、部屋の隅にある年代物のシンセサイザーの前に腰を下ろした。
「……また、拒絶されたの?」
背中越しの問いかけ。スイの声は、雨の日に窓ガラスを叩く水滴のように静かで、少し湿り気を帯びている。
レンは苦笑し、鍵盤の上に指を置いた。電源は入っていない。叩いても音は出ない。ただ、プラスチックの冷たい感触だけがある。
「俺の言葉じゃ、泥水一杯も恵んでもらえないらしい。機械たちは『隠喩』がお嫌いなんだ」
「かわいそうに。機械には、夜明け前の静けさが味がしないのね」
スイは筆を止め、空中に漂う塵を見つめるように目を細めた。
「AIがすべてを数値化する少し前までは、ワインの味を『草原を渡る風』だなんて表現するのが、風流としてもてはやされていたそうよ。そんな時代に生まれていれば、あなたも幸福だったでしょうに」
スイが筆を置き、ゆっくりとこちらを振り向いた。その瞳は、都市のネオンサインよりもずっと深く、複雑な色彩を宿している。だが、街の認証スキャナーは、彼女の瞳をただの「虹彩データ」としてしか読み取らない。
「コーヒーの代わりにはならないけれど」
スイはマグカップを差し出した。中身はただの白湯だ。
レンはそれを受け取り、一口含む。
微かな温かさ。それは、三年前、廃棄区画の吹きっさらしで初めて出会った夜、彼女と分け合った雨水の温度によく似ていた。
「仕事の依頼が来たわ」
唐突な言葉だった。レンはカップを止める。
スイはイーゼルの脇に放り出されていたタブレット端末を指差した。画面には、政府公認の紋章である「二重螺旋の蛇」が浮かび上がっている。
「政府? 俺たちにか?」
「ええ。しかも、特A級の案件。報酬額は、私たちが死ぬまで遊んで暮らせる桁数よ」
レンは眉を顰めた。
論理と言語の信奉者たちが、なぜ、言葉足らずの音楽家と、定義不能な絵描きに用があるというのか。
端末を手に取る。ディスプレイの冷たい光が、レンの顔を青白く照らし出した。
そこに記されていたのは、あまりにも皮肉で、そして残酷な依頼内容だった。
『新規システムサーバールームの内装における、非言語的意匠の構築。求む、論理的解釈を拒絶する情動。即ち――無意味なる魂』
レンは顔を上げ、スイを見た。彼女は薄く笑っていた。それは諦めにも、自嘲にも見えた。
システムの最深部に、システムが理解できないものを飾る。
それはまるで、神殿の壁に、神を殺すためのナイフを祀るような所業ではないか。
「皮肉な話だ」レンは呟く。「言葉で世界を支配した連中が、最後に欲しがったのが『言葉にできないもの』だなんて」
「どうする?」
スイの問いに、レンは沈黙した。
窓の外では、巨大なホログラム広告が、新製品の栄養食の成分表を高速で羅列している。あの光の洪水の中に、自分たちの居場所はない。
だが、この仕事を受ければ――自分たちの「言葉にならない魂」を切り売りすれば、あの光の一部になれるかもしれない。あるいは、その光を内側から食い破ることができるかもしれない。
レンはシンセサイザーの電源スイッチに手を伸ばした。
カチリ、という小さな音が、静寂な部屋に銃声のように響いた。
「行こう」レンは言った。「俺たちのノイズを、神様の耳元で鳴らしてやるんだ」
スイが頷き、筆を洗う水に、鮮やかな赤色が滲んで広がっていく。それはまるで、これから二人が流すことになる血の色のように見えた。
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