終電逃したら、推しがいた件につい て
緋室井 茜音
第1話
――終電を逃した。よりによって、火曜日の夜に。
明日も大学があるし、どこかに泊まるあてもない。
しかも、なんのドラマもない。
──ただ、ぼんやり歩いていただけだった。
駅のホームを見下ろす階段の途中で、僕は立ち尽くす。
改札を出る勇気もなくて、スマホで時刻表を確認しても、やっぱり電車はもう来なかった。
「……はぁ」
冷たい夜風に背中を押されるようにして、なんとなく雑居ビルに足を向けた。渋谷のはずれにある、ネットカフェとカラオケが合体した、24時間営業の便利なやつ。夜をやり過ごすには──まあ、悪くない。
「申し訳ありません、カラオケブースは現在満室でして……相席になりますが、よろしいですか?」
受付の男性が、気まずそうに頭を下げる。
「……あ、はい。大丈夫です」
断る理由もなかったし、酔っていたせいか判断がゆるくなってたのかもしれない。
案内されたのは、通路のいちばん奥の、ちょっと古びた個室ブースだった。
扉を開けた瞬間、ほんのりと紅茶の香りがした。
中には先客がひとり。
ソファの隅に座った、小柄な女の子。フードを深くかぶっていて、顔はよく見えなかったけど、スマホの画面をじっと見つめてた。
一瞬だけ、ちらりとこっちを見る。──でも、声はない。
「あ、えっと……よろしくお願いします」
返事はなかった。けれど、拒まれた感じでもない。
僕は空いていた反対側の席にそっと腰を下ろした。
部屋には静かな呼吸音と、アールグレイっぽい香りだけが漂ってる。
……気まずい。無言でこの距離はさすがに緊張する。
それに、なんとなく負けた気がして、僕はリモコンに手を伸ばした。
せめて空気を変えようと選んだのは、昔よく聴いてたバンドのアップテンポな曲。
曲が始まると同時に、意を決してマイクを持った。
──が。
「──あ、やべ……っ」
想像の三倍くらい、音量がデカかった。
ガラスが震えそうな爆音に慌ててマイクを引き離す。振り返ると、彼女がこっちを見ていた。
大きくはないけど、真っ直ぐな目。
……怒っては、いない。
ただ──ほんの一瞬だけ。
口元が、動いたように見えた。
……笑った? いや、まさか。気のせいだろう。
僕はそっとマイクを置いて、小さな声で謝った。
「ごめん……ちょっと、うるさかったよね」
そのとき、彼女のフードの奥から、確かに声がこぼれた。
「──ちょっと、じゃない」
静かで、でもよく通る声だった。
まるで──歌の入りみたいに、澄んでいた。
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