音楽共感覚〜横浜元町ティーサロン・ムジコの相談録〜
春日あざみ
箱入り娘のための紅茶
少し前なら、束の間の癒しの時間になっていたはずなのに。
休日の繁華街。歩道に設置されたベンチに腰をおろした佐々木夢子は、ひどく憔悴していた。
街中で鮮やかな映像を流すデジタルサイネージが怖い。
ショップの雰囲気を彩る音楽が怖い。
家電量販店にテレビが展示されているのを見るとゾッとする。
なぜこんなことになってしまったんだろう。何も悪いことなんてしていないのに。
夜中に仲間と連れ立って心霊スポットに行った?
毎日何本もタバコを吸って、溢れるほど酒を飲んだ?
どこかに思い切り頭をぶつけた?
どれもノーだ。狂った現象の原因となるようなことには、まったく接点がない。
毎日決まった時間に起き、きちんと身支度をして、会社では目立たないように、ただし、与えられた仕事はしっかりとこなす。派手なネイルも服装もせず、危ない橋は渡らず、平凡な人生を送ってきた。それなのに。
頭を締め付けるような頭痛がする。寝不足のせいか眩暈もしていた。
不調の元凶は、題名も知らない歌唱曲である。
きっかけは思い出せないが、この曲を聴くと、反射的に涙が止まらなくなるようになってしまった。その曲自体に強いトラウマを抱くような出来事があったわけでもなく、特段情緒不安定になるような出来事もなかったように思う。
「ああもう最悪。また鼻水出てきた……」
カバンからポケットティッシュを取り出し、ちん、と鼻をかむ。涙が洪水のように襲ってくるのに場所は問わない。そのためいつでも大量のポケットティッシュを常備していた。
女性が伸びやかな声で紡がれる歌詞は日本語ではない。これが日本語の歌詞だったら、ウェブサイトで検索して曲名の特定ができるかもしれないのだが。
はあ、と深いため息をつく。
買い物は諦めて早く家に帰ろう。そう考えて駅に向かって歩き出す。
聞いたことはある曲だが、では今流行りの曲かといえばそうではない。
本来ならそう耳にする曲でもないのだが、ある大手電機メーカーがテレビCMに起用してしまったのである。
今売り出し中のアイドルが出演しているためか、そのCMも、テーマ曲も、あらゆる場所で流れていた。
「なんでまたこのタイミングで」
あの曲さえ聞こえなければ、普段の生活は何ら問題ないのに。
「病気なんじゃない?」
職場の同僚、牧本みきは、弁当のおかずを飲み込んだあと、そう言った。
「だとしたらなんの病気だと思う?」
彼女は大して興味もなさそうに眉根を歪め、自分の意見を補足する。
「音楽がきっかけで泣いちゃうってことを考えたら、やっぱり心の病気じゃないの? なんかトラウマと結びついててー、とか。別にその音楽じゃなくても、実は単に悲しげな曲に反応してるだけとか」
「もっと悲壮感漂う曲も聴いてみたりしたけど。その時は涙出なかったもん」
「でも行ってみてもいいかもよ、病院。行ってダメなら通うのやめたらいいじゃん。悩んでんでしょ?」
「まあ、そうなんだけど……」
正論を突きつけられ、いささかショックを受けた。
病気。その可能性を考えなかったわけではない。
でも、そう断定されてしまう手前で、何かできる策がないかと相談したのに。
もしかしたら今の自分は、大変だねー、辛いねーとか言って、同情して欲しかっただけなのかもしれない。
だが、この症状を改善したいのは事実であるので、彼女の意見は間違っていないのだ。
「それか、単純に疲れてるのかもよ? 一日くらいさ、病院休んで旅行でもしてみたら?」
あまりの落ち込みように、自分の発言の不用意さを自覚したのだろうか。みきはトーンを抑えて、意見の方向性を変えてきた。
——旅行。
ちょっとだけ、気持ちが上向く。新しい、これまでしてこなかったことをしてみる。それは魅力的な意見に思えた。
「でも、派遣社員にそんな金銭的余裕ないし」
だがすぐ、新しい何かを否定する気持ちがもたげる。仕方がない。これが自分の特性である。
「近場だっていいじゃん」
「でも」
「あーもー。でも、でも、って。夢ちゃんはいっつもそればっか。やらない理由を自分で見つけようとしてんの。現状を改善するつもりがあるなら、なんか行動しないと!」
もうこの話は聞かないからね! と、ピシャリと言われ、夢子は閉口する。
みきは行動力もあって、頭もいいからそういうことが言える。先日派遣から正社員に登用されたし、自分より稼いでいるから。だから旅行なんていう発想になる。
「わかったよ、もうこの話はしない」
不満を胸に押し込んで、夢子は弁当の卵焼きを口に運んだ。
みきの態度に憤慨しつつも、夢子は思っている。
自分も、彼女みたいに、自分の思うままに行動できる人間になれればいいのに、と。
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