捨て子から始まる『日嗣の巫女』 ~村を追放された私を拾ったのは都の皇子様でした。溺愛されていますが守られるだけじゃ嫌なので炎の指輪で彼を守って戦います~

ト音ソプラ

第1話 最期の日と、光る不審者

 香取海(かとりのうみ)から吹き付ける湿った海風が、朽ちかけたあばら家の隙間を抜け、少女の頬を容赦なく叩いた。


 少女の名は渚(なぎさ)。


 筵(むしろ)の上に力なく横たわる彼女の体は、枯れ木のように痩せ細っていた。呼吸をするたびに肺の奥からヒューヒューという頼りない音が漏れ、鉄錆のような味が口の中に広がる。


 彼女の首筋から腕にかけて、不吉な黒い斑点が浮き出ていた。「黒痣(くろあざ)病」。この辺りの寒村では、神の祟りとも、悪霊の仕業とも忌み嫌われる不治の病だ。


 村は、不気味なほど静まり返っていた。


 鶏の声も、赤子の泣き声も、働き手たちの掛け声もしない。


 無理もない。村人たちは皆、逃げ出したのだ。


 数日前から、「北の蝦夷(えみし)が攻めてくる」という噂がまことしやかに囁かれていた。飢えた蝦夷たちは略奪を繰り返し、抵抗する者は皆殺しにするという。


 村長は決断した。荷物をまとめ、南へ逃げると。


 そして、動けぬ病人は「足手まとい」として置き去りにされた。


 ――ああ、お腹すいたなぁ……


 死を目前にして渚が考えることは、高尚な人生の振り返りでも、家族への恨み言でもなかった。昨日、老婆が最後に恵んでくれた、薄い雑穀粥の味だった。あれは塩気が足りなかったけれど、温かかった。


 もう、指一本動かす気力もない。

 熱に浮かされた頭で、渚はぼんやりと思う。


 自分はこのまま、誰にも看取られず、蝦夷に見つかる前に飢えと寒さで死ぬのだろうか。それとも、蝦夷に見つかって殺されるのだろうか。


 できれば、痛いのは嫌だな。


 そんなことを考えていると、外からドカドカという乱暴な足音が近づいてきた。一人や二人ではない。地面を揺らすような、荒々しい気配。


 バンッ!!


 立て付けの悪い粗末な戸が、蹴破られた。


 夕日が逆光となり、入り口に立つ数人の男たちのシルエットを黒く浮かび上がらせる。獣の皮をまとい、手には錆びついた直刀や弓を持っている。髪は乱れ、異様な臭気を放っている。


 蝦夷だ。


「おい、誰もいねぇぞ! 食いモンも残ってねぇ!」


 先頭に立った大男が、土足で踏み込みながら唾を吐き捨てた。


「チッ、逃げ足の速いウジ虫どもだ。……ん? おい、あそこに何かいるぞ」


 男の視線が、筵の上の渚を捉えた。


 渚は身を縮こまらせようとしたが、体はピクリとも動かない。


「なんだ、死にかけのガキか。……おい、こいつ黒痣が出てやがるぞ。穢れてやがる」


「噂じゃあ、この村には『神』が隠されているって話だったが……まさか、この汚ぇガキが神ってわけじゃねぇだろうな?」


 男たちは下卑た笑い声を上げながら、渚を取り囲んだ。


「神なら拝んでやらねぇとなぁ。……冥土でな!」


 一人の男が剣を振り上げた。


 鈍く光る刃が、渚の瞳に映る。


 恐怖で叫ぼうとしたが、喉からは掠れた息しか出なかった。


 ――さよなら、私。来世があるなら、次はもっと健康で、お米がいっぱい食べられる家に生まれたい……


 渚がぎゅっと目を閉じた、その時だった。


「待て待て待てぇい!!」


 場違いなほど明るく、そして無駄によく通る声が、あばら家の中に響き渡った。


 振り下ろされようとしていた剣が、空中で止まる。


 蝦夷たちも、そして死を覚悟していた渚も、呆気にとられて入り口の方を見た。


 そこには、発光体――ではない、人間が立っていた。


 夕日を背に受けているせいだけではない。その男自身が、内側から発光しているかのようなオーラを放っていた。


 輝くような金髪を左右で束ね、透き通るような白い肌をしている。瞳は、この国の人間とは思えないほど鮮やかな碧眼(へきがん)。身につけているのは、見たこともないほど上質な赤い鎧と、金の首飾り。


 背景に大輪の薔薇の花でも背負っているのかと錯覚するほどの美青年が、入り口でビシッとポーズを決めていたのである。


「な、なんだテメェは!?」


 蝦夷たちが動揺するのも無理はない。この泥と黴(かび)の臭いが充満する薄汚れた漁村に、天界から降りてきたようなキラキラしい男が現れたのだから。


 青年はふっと前髪をかき上げ、白い歯を見せて爽やかに笑った。


「通りすがりの、ただの美しき皇子だ」


「自分で言うな!」


 蝦夷のツッコミが的確に入った。渚も心の中で同意した。


 青年は大和の皇子、白髪皇子(しらかのみこ)だった。彼は、手にした直刀を構えることなく、優雅に歩み寄る。その足取りは、戦場というよりは舞踏会のそれだった。


「そこをどきたまえ。その子は私が拾う」


「あぁ? 何言ってやがる! 頭のイカれた貴族崩れが、俺たちの獲物に手を出すんじゃねぇ!」


 リーダー格の蝦夷が、顔を真っ赤にして怒鳴った。


「やれ! 身ぐるみ剥いで、その綺麗なツラを拝ませてもらおうじゃねぇか!」


 三人の蝦夷が一斉に斬りかかった。


 渚は悲鳴を上げそうになった。いくら美形でも、丸腰に近い状態で武装した男たちに勝てるはずがない。


 だが、白髪皇子は慌てる素振りすらなかった。


「やれやれ。野蛮な振る舞いは美しくないな」


 皇子の姿が、陽炎のように揺らめいた。


 次の瞬間、ドッ、ドッ、ドッ、という鈍い音が連続して響いた。


 斬りかかったはずの蝦夷たちが、白目を剥いて次々と地面に崩れ落ちていく。


 皇子はいつの間にか彼らの背後に回っていた。剣を抜いた様子はない。


「な、なにをした……?」


 残った蝦夷たちが後ずさる。


「鳩尾(みぞおち)を少々、愛でさせてもらった。心配するな、峰打ち……ですらない、拳(こぶし)打ちだ」


 皇子はポンポンと自分の拳を払った。


 強い。


 渚は目を丸くした。この変な人、見た目だけでなく腕も立つらしい。


 皇子は残りの蝦夷たちに、極上の笑顔を向けた。


「さて、まだ踊り足りないかな? 私は構わないが、この子が埃っぽくて迷惑そうにしている」


 蝦夷たちは顔を見合わせると、「ば、化け物だ!」と叫んで逃げ出した。彼らの判断は賢明だったと言えるだろう。


 静寂が戻ったあばら家の中で、皇子はツカツカと渚の元へ歩み寄ってきた。


 そして、泥だらけの筵の前に躊躇なく片膝をつき、渚の顔を覗き込んだ。


 至近距離で見ると、その美貌はもはや暴力に近い。長いまつ毛、通った鼻筋、そして吸い込まれそうな青い瞳。


「生きてるか?」


「……は、はい」


「ふむ。ひどい顔色だ。泥だらけで、まるで捨てられた子犬のようだな」


 皇子はふむふむと頷いた。


「だが、磨けば光るかもしれん。私は目利きには自信があるのだ。前回拾った『伝説の錆びた剣』は、ただの農具だったがな」


「……節穴じゃないですか」


 渚は蚊の鳴くような声でツッコミを入れた。


「ハッハッハ! 死にかけの割に口が減らないな。合格だ」


 皇子は笑い飛ばすと、渚の体に手を伸ばした。


「行くぞ。私の家には風呂がある。まずはその泥を落として、人間らしい姿に戻るのだ」


「え、あ、ちょっと……私、病気が……うつりますよ……?」


 渚は身をよじろうとした。黒痣病は触れればうつると言われている。だから村人たちも、最後は渚に触れようとしなかった。


 だが、皇子は全く気にする素振りを見せなかった。


「病気? ああ、この黒いシミのことか」


 彼は無造作に、渚の痣のある腕を掴んだ。


「こんなもの、私の輝きで吹き飛ばしてやる。安心しろ、私は病魔に愛されるほど軟弱ではない」


 根拠のない自信に満ちた言葉と共に、皇子は渚を軽々と「お姫様抱っこ」した。


 ふわりと体が浮く。


 皇子の体からは、戦いの汗臭さではなく、どこか高貴な香木の香りがした。


 あばら家の外に出ると、夕日はすでに沈みかけ、空は茜色から群青色へと変わりつつあった。


 冷たい風が吹いたが、皇子の腕の中は不思議と温かかった。


「しっかし、軽いな。ちゃんと飯を食っているのか?」


「……捨てられて、三日、何も……」


「それはよくない。私の屋敷に帰ったら、腹一杯食わせてやろう。猪の丸焼きはどうだ?」


「……お粥がいいです」


「贅沢なやつだ」


 こうして、捨てられた病の少女・渚は、変な光る皇子に「拾われる」こととなった。


 これが、渚の運命が大きく、そして騒がしく狂い出した最初の日だった。

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