第34話 侯爵令嬢として 後半

 扉が閉まる音は、牢獄のそれではなかった。


 木が、静かに噛み合う音。鍵が回る音。重い鉄格子の響きでも、湿った地下の空気でもない。


 ……それなのに、私は捕虜として、死神領主様に捕えられた。


 ミアの非礼の代償として。


 あの方はフードを深く被り、鎌を持った死神のような領主様。


 私を「拘束する」と告げられて小屋へ案内された。


 ここは王国の土地ではない。彼は「ここは僕の土地だ」と言っていた。


 現に、森が従い、狼が従い、土と木の巨人が従った。


 誰の領地かを決めるのは、王都でも教会でもない。


 ……この霧の中では、あの方だ。


 私は背筋を伸ばしたまま、小屋の中を見回した。


 小屋、そう呼ぶには、あまりに整っている。


 机と椅子。柔らかそうな寝台。壁の隅には小さな扉。


 水場だろうか。布の束。鍋。奇妙な透明の瓶が並ぶ。


 そして、何より天井の、小さな光。


 魔力を注いでいないのに、灯っている。


「……これはどんな原理でできているのでしょうか?」


 息が漏れた。声が震えたのは恐怖ではない。理解不能の前で、人はこういう声を出すのだと知った。


 王都の貴族街でさえ、灯りは火か、限られた魔導具だけだ。しかも魔導具は高い。手入れもいる。魔力の供給もいる。


 なのに、この小屋はまるで、常に奇跡が続いているようだった。


 私は喉を鳴らし、ドレスの裾を握りしめた。


 泥が乾いて、布が硬くなっている。私が侯爵令嬢であることを、嫌でも思い出させる惨めさだ。……ミアは、どうなったのだろう。


 私を守るために大きな怪我をして、霧の中で膝をつき、泣いて、謝罪して、あの方に連れていかれた。


 あの時のミアの顔が、何度も目の裏に浮かぶ。

 誇りが折れた顔。怖さに負けた顔。


 私がここへ来ると決めたからだ。


 私が「見ておきたい」と言ったから。


 椅子に座るでもなく、机の端に指先を置いた。冷たい。なのに、湿っていない。木が乾いている。森の中の小屋なのに、変だ。


 胸の奥が、きり、と痛んだ。


 怖い。あの方が怖いのではない。王国の常識が、ここでは通じないことが怖い。


 そして、それを、私はどこかで嬉しいと感じている。


 最低だ、と自分に言い聞かせても、心は正直だった。


 王国の理屈で捨てられる子供たち。


 教会の言葉で無能者とされる命。


 見ないふりを強いられる現実。


 それを、狼が引き裂いていくのを見た。


 土と木の巨人が、槍を砕くのを見た。


 霧の中から、死神が現れて、たった一言で場を支配した。


 ――ここには、別の正しさがある。


 私はゆっくりと息を吸った。


 泣いている場合ではない。怯えている場合でもない。


 捕虜なら、捕虜らしく、価値を示すしかない。


 あの方は言った。


『今は、君を敵だと思っていない。だが、君がおかしなことをすれば——』


 その続きを、私は思い出して喉が乾いた。


 終わりだ、と。


 脅しではない。宣言だった。


 だからこそ、交渉するなら「敵ではない」を保つしかない。


 私は机の上の透明の瓶に手を伸ばした。


 中に、琥珀色の液体。


 瓶の側面に、細かい文字。読めない。王国の言葉ではない。異国の文字。けれど形が整っている。印刷……? 筆ではない。刻印でもない。


 栓の形も見慣れない。

 私は慎重に指を掛けた。……硬い。


「い、いった……!」


 思わず声が出た。指が痛い。栓がびくともしない。私は侯爵令嬢として、瓶の栓と戦ったことなどない。


 そもそも瓶が透明な時点で異常だ。ガラスだとしても、こんな薄さで割れないのか。魔力で強化しているのか。いや、彼は「僕の魔法だ」と言った。


 ……魔法なら、万能だ。私はもう一度、栓に挑んだ。


 ぐい、と力を込める。ぷしゅ。


「……っ!?」


 小さな音とともに、栓が開いた。中から冷たい空気が漏れるような感覚。匂いは……香ばしい。葉の香り。


 私は恐る恐る口をつけた。冷たい。冷たすぎる。


「……つ、冷たっ……!」


 思わずむせた。水場の魔導具ですら、冷やすには魔力がいる。氷室か、氷属性の魔法か、貴族の贅沢だ。


 それが、瓶の中に、当たり前のように入っている。


 私は目を見開いて、瓶を見つめた。


「……捕虜って、何かしら」


 声が漏れた。牢に入れられ、冷たい床で眠らされ、乾いたパンだけ渡される。


 それが捕虜だと思っていた。でもここは、柔らかい寝台があり、冷たい飲み物があり、温かい鍋まである。


 ……しかも、私に着替えまで用意したと言った。あの方は淡々と。


『食事、飲み物、体を洗うお湯と、着替えも用意した。好きに使うといい』


 好きに、捕虜に向ける言葉ではない。


 私は、机の上の鍋の蓋をそっと開けた。湯気が立つ。匂いが、優しい。野菜の香り。肉の香り。腹が、情けなく鳴った。


 その瞬間、私は悟った。


 私はもう、あの方と交流を持たねばならない。


 ……絶対に! この「魔法」の正体を知りたい。


 この小屋を作れる力。

 森を従える力。

 狼を操る力。


 そして、あの沈黙の圧。


 王国の貴族が持つ「権威」とは別の種類だ。血でも爵位でもない。実力。支配。現象。


 大魔導士様、私はそう呼ぶことにした。


 領主様、と呼ぶべきだと分かっている。それでも、私の中では「大魔導士様」が一番近い。


 私が味方になれば、王国の理屈をひっくり返せるかもしれない。


 捨てられる子供たちを、救えるかもしれない。


 私は鍋の中身を匙で掬い、口に運んだ。


 熱い。熱いのに、優しい。


「……おいしい……」


 捕虜が、こんなものを食べていいのだろうか。


 いや、捕虜だからこそ食べねばならない。生きて、交渉して、連れ帰って、王国を案内して――あの方に王国を見せる。


 その未来を、私の手で作る。


 私は勢いよく立ち上がった。


 そして、次の瞬間。


 寝台の横にある小さな箱の存在に気づいた。


 白い陶器の椅子。妙に滑らかな形。蓋。取っ手のようなもの。


「……これは、何……?」


 嫌な汗が背中を伝った。まさか、王国の貴族が使う「便壺」ではないだろう。あれはもっと無骨だし、臭い対策で香草を入れるのが普通だ。


 私は恐る恐る近づき、蓋を上げた。


 ……中に水がある。


 水場? でも室内だ。


「……え?」


 理解が追いつかない。私は床を見た。水が流れる溝もない。桶もない。魔法陣もない。


 私は唇を噛み、取っ手を掴んだ。


 ……引いた。


 ごぼ、という音。


 そして水が、渦を巻いて消えた。


「ひっ……!?」


 私は一歩下がった。思わず杖を探しそうになった。私は魔法が使えない。杖など持っていない。なのに、目の前で水が消えた。


 しかも、すぐに新しい水が満ちてくる。


「……魔導具……? いえ、これは……」


 私は額に手を当てた。頭が痛い。


 捕虜の施設が、快適すぎて、恐怖が増すなど、聞いたことがない。


 そして、もう一つ恐ろしいことに気づく。


 この快適さは、私を弱くする。


 警戒を鈍らせる。


 「ここなら大丈夫」と思わせる。


 ……もし、これが意図なら。あの方は、やはり死神だ。


 私は口元を押さえた。


 笑いが、出そうになったからだ。


 どうして私は、こんな状況で笑いそうになっているの。


 恐ろしいのに、面白い。

 理解不能なのに、魅力的。


 私は深呼吸して、机に向き直った。


 交渉の準備をする。


 私はあの方に言うべき言葉を、頭の中で繰り返した。


 領主様。助けていただき、ありがとうございます。

 ミアの非礼は、私が償います。


 王国を知りたいのなら、私が案内します。ただし、子供たちを捨てる現状を変える力を、貸してください。


 そこまで考えて、私はふと止まった。


 ……違う。


 あの方は「貸す」など言葉を嫌う。


 彼は淡々と宣言する。


『二度目はない』

『変な真似をしたら終わりだ』

『命を助けるためだ』


 あの方に向けるのは、お願いではない。


 取引だ。


 私は背筋を伸ばし、侯爵令嬢としての声を作った。


「……私は、価値を示します」


 扉の向こうに、大魔導士様がいる。

 死神のような領主がいる。

 私は捕虜だ。だけど、捕虜だからこそ、近づける。


 王国の誰も触れられない力に、私は今、手が届く距離にいる。


 ……冷たい飲み物の瓶を握りしめながら。


「まずは……この栓、簡単に開けられるようにならないと」


 私はもう一度、ぷしゅ、と鳴る瓶を見つめて、小さく頷いた。


 大魔導士様との交流。


 その第一歩は、どうやら、捕虜生活の「快適さ」に慣れることから始まりそうだった。

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