第32話 人命救助

 ハーティーの世話を終えた、僕はミアの元に戻った。


 リアによって、鎧を脱がされてジャージに着替えさせられている。


 肩の傷は塞がっているが、呼吸は浅く、熱がある。失った血は戻らない。肌の色も、唇の色も、現実を突きつけてくる。


 僕はコンソールを開いた。迷ってる時間はない。


「……行くぞ」


 僕は軽トラの助手席に、ミアを乗せて日本へ戻った。


 ただ、ミアを見れば赤い髪に小柄な体。まだ十代の少女だ。瞳も赤い。人間に見える。けど、色が異質すぎる。


 那須の山の空気は、冷たいのに乾いていた。


 境界ゲートを抜けた瞬間、まず耳に入るのは、いつもの静けさだった。


 反射で肩が強張った。前に一度、黒いワンボックスに追われた。あれが一度きりとは限らない。


 僕はミアを抱えたまま、軽トラに向かうふりをして、周囲を確認する。


 コンソールを「頭の中」で開く。


【領地境界:警戒】


・日本側:追尾反応 なし

・周辺視線:不特定 低

・異常接近:なし


「……いない」


 少なくとも「僕を狙って張り付いているやつ」は、今この瞬間は見当たらない。


 胸の奥の冷たい塊が、ほんの少しだけ溶ける。


 でも、安心はしない。油断した瞬間にやられる。


 僕はミアを助手席に寝かせ、シートベルトを軽く回した。首が折れないようにタオルを噛ませる。


「悪い。揺れる」


 返事はない。エンジンをかけ、山道を下り、町の診療所へ向かった。



 町の小さな医院は、看板の色が少し褪せていた。駐車場も狭い。だけど、ここが一番近い。


 受付のガラス越しに顔を出した瞬間、事務のおばさんが僕とミアを見て目を丸くした。


「ちょ、ちょっと! どうしたの、その人!?」

「事故です! 出血がひどくて……意識がありません!」


 僕が叫ぶと、すぐに奥から白衣の高齢の医者が出てきた。


 年季の入った眼鏡。皺の深い顔。だけど目が鋭い。


「運びなさい! こっち!」


 診察台に寝かせた瞬間、医者がミアの顔を見て固まった。


「……外国の方か? 赤毛……いや、これは……」

「観光客です。山で転んで……!」


 嘘を吐く。吐きながら喉が痛い。医者は迷わなかった。聴診器を当て、瞳孔を覗き、指で頸動脈を確認して、すぐに怒鳴った。


「血圧が落ちてる! 救急要請――いや、ここでできることをやる! 輸血と点滴!」


 看護師さんが走り回る。ベッドの車輪が鳴る。医者が僕を見る。


「あなた、家族か?」

「……友人です」

「輸血が要るかもしれん。血液型は?」

「わかりません」

「なら検査だ。今すぐ!」


 僕は頷くしかなかった。


 検査。採血。点滴。酸素。


 時間が伸びる。伸びるたび、頭の中で最悪の可能性が増える。


 もし、ここで死んだら、異世界に連れてきた僕のせいになる。

 リアの魔法でも間に合わなかった、ってことになる。


 絶対に助けたい。医者が短く息を吐いた。


「貧血どころじゃない。急性失血だ。輸血する。適合血、手配できる分だけやる」


 点滴の袋が吊られる。血の袋も。


 透明な管を、赤が流れていく。


 生々しい色、ミアの唇の色が、ほんの少しだけ戻った気がした。



 数時間後。


 医者は僕を診察室に呼び、椅子に座らせた。机の上にカルテ。


「命はつないだ。だが、意識が戻るかは別だ。体力も落ちている。普通なら、入院させる。最低でも数日、点滴と経過観察が必要だ」

「……入院、ですか」


 頭が真っ白になる。


 入院させたら、彼女は日本に残る。説明できない。身元も、戸籍も、保険も。赤い髪と赤い目の外人が突然現れて、意識不明で入院は困る。


 医者が僕の顔色を見て眉をひそめた。


「事情がある顔だな。警察沙汰になる前に言っておく。無理に連れ出すな。今の状態で移動は危険だ」

「……わかっています」


 わかってる。でも、選べない。僕は頭を下げた。


「せめて……点滴が一段落するまで、ここで看てもらえませんか。輸血と、栄養の点滴を終えたら……必ず、連れて帰ります」

「帰るって、どこへだ」

「……山です。彼女の身内がいます」


 医者は数秒、黙って僕を見た。


 嘘を見抜く目。けど、追い詰める目じゃない。人を救う側の目だった。


「……いいだろう。だが、約束しなさい。点滴が終わった時点で、意識が戻らなくても呼吸が安定していなければ、移動はさせない。救急搬送が必要になる」

「はい」


 僕は頭を下げ続けた。


 夜、ミアはまだ眠っている。呼吸は落ち着いた。点滴の滴が、規則正しく落ちる。


 僕は椅子に座り、窓の外を見た。


 駐車場。道路。街灯。誰かが見ている気配はない。でも、確信が持てない。日本で僕を監視していたやつらが、いずれまた現れる。それは間違いない。


「……今しかない」


 点滴が終わったタイミングで、医者が再度確認しに来た。


「バイタルは持ってる。だが、危ない橋だぞ」

「……ありがとうございます」


 僕は深く頭を下げた。


 医者はため息をついて、最後に言った。


「あなたの事情は聞かん。だが、命は軽く扱うな」

「はい」


 ミアの腕からルートを外してもらい、止血テープを貼る。


 僕はミアを抱き上げた。体が軽すぎて、怖い。


 ジャージの袖から覗く腕は細く、手は冷たい。


 外に出る。軽トラに乗せる。揺らさないように。急がないように。


 そして、山へ戻る。



 ゲートの前で、僕は一度だけ止まった。


 振り返って、暗い林道を見た。


 追ってくる車はいない。


 それでも、背中が落ち着かない。


「……見つかるなよ」


 誰に言ったのか、自分でもわからない。


 僕はミアを抱えたまま、境界を越えた。


 霧の匂いが戻る。

 土の冷たさが戻る。


 領地の空気に触れた瞬間、胸の奥が「帰ってきた」と言った。


 リアが、家から飛び出してきた。


「領主様!」

「戻った。……輸血はできた。点滴も入った。命はつないだよ」

「……よかった……!」


 リアの声が震えた。僕はミアを寝かせるベッドへ運ぶ。リアが布団を整え、額に手を当てた。淡い緑の光が灯る。


「魔力の流れは……弱いけれど、途切れていません。生きています」


 僕は息を吐いた。長すぎる息。


 ようやく、肺が空になった気がした。


「……日本に置いておくことはできなかった」

「はい。領主様の判断で良いと思います」

「うん。だから、次は」


 次の言葉が、喉で詰まった。


 守れた。救えた。でも、これで終わりじゃない。むしろ始まった。


 僕はミアの眠る顔を見て、フードを深く被り直した。


「……目を覚ましたら、交渉の続きだ」


 僕はハーティーとの交渉に向かう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る