目玉焼きって愛情やねん

米飯田小町

一話


 大宮から東京駅まで20分。東京駅から新大阪駅まで2時間30分。新大阪駅から和歌山駅まで1時間30分。和歌山駅から加太駅まで40分。

 待ち時間も含めて、約6時間。片道およそ1万9千円。


 中学生の家出にしては、本気を出しすぎたかもしれない。

 めでたいでんしゃの車窓から、海がちらちらと見え隠れするたびに、そんな考えが頭をよぎる。車体の外装は真っ赤で、車内には鯛のイラストが踊っていた。観光客向けの派手な装飾が、今の私にはちょっとだけ場違いに思える。


 財布の中身を確認する。

 残り約1万円。今までのお小遣いやお年玉を、こっそり貯めてきた私の全財産。あんなに大金だと思っていたのに、移動だけで半分以上が消えた。社会って、なにもかも高すぎる。財布の重みが減るたびに、胸の中の自信も一緒に軽くなっていく。

 これだけあれば自由だ。なんて思ってたのに、現実は甘くなかった。自分が思っていたほど私は大したことなかったみたい。


 キテレツな電車から降りると、他にも数人の観光客がぞろぞろとホームに降り立った。平日だからか、目立つのはおじいちゃんおばあちゃんばかり。杖をついていたり、日傘をさしていたり、みんなのんびりとした足取りで歩いている。

 家族連れの姿は見当たらないし、私みたいな年齢の子なんて、当然ながらゼロ。 

 うん、やっぱり場違い感がすごい。


 駅は思っていたよりもずっと小さかった。改札が二つだけある田舎によくある人気のない駅みたい。ホームの端に立って見渡しても、電車がもう一本来る気配は当分ない。

 改札を出ると、そこは観光地というより、ちょっと古びた町の玄関口。お土産屋さんも見当たらないし、駅前の道も静かで、車の音すら聞こえない。


 おじいちゃんたちの後ろを、なんとなくついて歩く。すると、駅のすぐそばにバスが一台止まっていた。

 運転席の窓から顔を出しているのは、これまた年季の入ったおじさん。おじいちゃんたちが雑談をのほほんと話しながらバスに乗り込んでいくのを、運転手さんがニコニコしながら見送っていた。


 そんな中、ポツンと一人で立っていた私に気づいたのか、おじさんが声をかけてきた。


「お嬢ちゃんも、○○かーい?」


 たぶんどこかの旅館か、温泉施設の名前だったんだろうけど、エンジン音がブオォォンと唸っていて、よく聞き取れなかった。


「ちがいまーす!」


 声を張って返すと、おじさんは「そっかそっか」と笑って、手をひらひら振ってくれた。バスはゆっくりと動き出し、砂埃を巻き上げながら、道の奥へと消えていった。


 残された私は、駅前にぽつん。

 誰もいない。蝉の声だけが、ミンミンと元気に鳴いている。陽射しは強くて、アスファルトがじりじりと焼ける音がしそうだった。

 あんまり地元と変わらないなって思った。人生二度目の加太は、そんな感想から始まった。


 ここにいても、当然することなんてない。

 駅前で立ち尽くしていても、誰かが声をかけてくれるわけでもないし、目的があるわけでもないので、とりあえず海を目指すことにした。地図も見ずに、勘だけを頼りに、道路沿いをてくてくと歩いていく。


 道中の街並みは、悪く言えばちょっと廃れていて、よく言えば昭和の面影がそのまま残っているような、そんな港町の風情があった。シャッターの下りた商店、色褪せた看板、軒先に干された洗濯物。どこか懐かしいような、でもやっぱり知らない場所の匂いだった。


 海までは、思っていたよりも距離があった。日差しは強いけど、都会みたいに湿気でまとわりつく感じはなくて、風が吹けば少しだけ涼しい。それでも、顔からはポタポタと汗が落ちて、服の襟元がじっとりと湿っていく。気だるさがじわじわと体にまとわりついて、歩くたびに前のめりになっていく。

 正直、かなりしんどい……既に六時間の旅を終えた後だから足が棒みたいになっている。でも引き返すのもなんだか負けた気がして、足を止めなかった。すると、少しずつ潮の匂いが近づいている気がした。


 ようやく海辺にたどり着いたとき、目の前に広がったのは、視界いっぱいの青。 堤防の傍に立って、胸いっぱいに潮風を吸い込む。

 ああ、これは……なんか、健康に良さそう。

 おじいちゃんおばあちゃんが多いのも、ちょっと納得してしまう。海って、こんなに心地いいんだ。


 気分がよくなって、そのまま海沿いを歩いていく。

 波の音が、足音に重なって心地いいリズムを作ってくれる。

 海の傍には人もちらほらいる。釣りをする人。港に停まった船でなにかしている人。人がいるだけで、こんなに心強くなるだなんて思わなかった。

 しばらく歩くと、赤い鳥居が見えてきた。「淡嶋神社」と書かれた石碑が立っていて、どうやらこの辺では有名な観光地らしい。スマホで軽く調べてみると、人形供養で知られている神社だとか。ちょっと不思議な雰囲気。

 そうそうこれこれ。フラッと歩いていたら、物珍しいものに出会う。私が求めていた家出の旅が、ようやく始まったようだ。


 神社の前には、小さな飲食店がぽつんと建っていた。ほんとに祭りの屋台をそのまま常設にしたような、こぢんまりとしたお店。手書きのメニュー看板には「みたらし団子」「わかめうどん」「ところてん」なんて文字が並んでいて、どれも素朴で、田舎っぽい雰囲気だった。


 朝から移動ばかりで、まともにご飯を食べていなかったせいか、胃がきゅうっと鳴った。くぅくぅ、って、まるで自分の中に小さな動物が住んでるみたいな音。でも、食べるのはあとにしよう。せっかくここまで来たんだし、まずは神社を見ておきたい。なんとなく、そんな気分だった。


 私は鳥居の前で一礼して、赤い柱の下をくぐった。

 その瞬間、胸の奥がふっとざわついた。なんだろうこの感じ。懐かしいような、ちょっと怖いような……デジャブ?


 境内に足を踏み入れると、空気がすっと変わった気がした。

 境内に植栽された樹木の枝分かれした枝葉が何層も重なって、天井を作っている。ここだけまるで別の世界みたいだった。

 そして、目の前に広がったのは───おびただしい数の人形たち。


 正直、ちょっとびっくりした。ホラー映画で見たことのあるような日本人形。リアルな黒の目がこちらを見ているような気がして、思わず視線をそらす。その隣には、今どきの着せ替え人形や、外国の人形も並んでいて、まるで世界中の人形たちがここに集まってきたみたいだった。


 神社という神聖な場所だからか、怖いというよりは、不思議な感じ。

 でも、もし夜にここに来てたら……うん、全力で泣いて逃げ出してたと思う。


 そしてふと、思い出した。

 私、ここに来たことがある。まだ小さかった頃。私達家族が、まだ一緒に暮らしていた頃。私はお父さんに抱っこされていて、人形たちが怖くて、しがみついて泣いていた。お父さんのシャツの匂いと、背中をとんとんしてくれた手の感触が、急にリアルによみがえった。


 懐かしいなぁ。あの頃の私は、こんな遠くまで来るなんて思ってなかっただろうな。まさか、家出して、またここに来るなんて。


 私は手を合わせて、そっと目を閉じた。

 何を祈ったのか、自分でもよくわからない。


 そして、神社をあとにした。お腹の中のくぅくぅが、また主張を始める。さて、次はうどんかな。


 さっきの店に戻って、うどんを注文した。

 店内は、想像していた通りの簡素さ。テーブル席が三つに、カウンターがちょこっと。壁には色あせたメニュー表。やっぱり、まんま露店って感じの小さなお店だった。


 店主のおばちゃんは、ふくよかで、笑うと目が線になるような人。私の注文を丁寧に聞いてくれて、「少しだけ待ってね」と、にこっと笑ってくれた。その笑顔が、なんだかほっとする。優しい人って、どこにいても好きだなって思う。


 しばらくして、湯気を立てたうどんが運ばれてきた。細く切られた揚げさんに、わかめ、そしてたっぷりのネギ。見た目はシンプルで、どこにでもあるようなうどん。 でも、空腹は最高のスパイスってやつで、ひと口すすった瞬間、体の芯から「生き返る〜」って声が出そうになった。味はまあ、普通だけど、今の私にはそれがちょうどよかった。


 ズルズルと音を立ててうどんを啜っていると、店の前に軽トラが一台止まった。 運転席から降りてきたのは、若い女の人。Tシャツにジーンズ、髪は後ろでざっくり束ねていて、なんだかサバサバした雰囲気。荷台から段ボールをひょいっと持ち上げて、店の中に入ってきた。


「エミさーん。真琴まことやでー」

「あー、いつもありがとう」


 おばちゃんが笑顔で迎えると、女の人は、段ボールをカウンターの奥に置いた。


「あ、お金ちょっと待ってや」

「ゆっくりでええよ。どうせ次、勝さんとこやし」


 私はうどんを啜りながら、そのやりとりをぼんやり眺めていた。なんというか、田舎の会話って、こういう感じなんだなぁって思う。軽いというか、ゆるいというか。


 そんなことを考えていたら、その女の人がふと私の方を見て、にこっと笑った。


「こんにちはー」

「こ、こんにちは」


 ちょっとびっくりして、でもなんとか返事をする。笑った顔が、思ってたよりずっと美人で、ちょっとだけドキッとした。


「可愛らしいなぁ。学生さん?」

「中二です」

「中二? わっかーーええなー!」


 その人は、わざとらしいくらい大げさにリアクションして、なんだかお芝居みたいだった。 そして、きょろきょろと店内を見渡したかと思うと、急に真顔で聞いてきた。


「君一人? おかあさんとか……」


 その瞬間、カウンターの奥からおばちゃんの声が飛んできた。


「ほら真琴ちゃん。またお客さんに絡んで、迷惑やろ? なぁ?」


 いや、私に振られても……。どう返せばいいのか分からず、ただ曖昧に笑ってごまかす。


「しもたしもた。ごめんね。ゆっくりしていってな」


 そう言ってまるで自分の店かのように振舞い、彼女は軽トラに乗り込んで去っていった。


 ……なんだったんだ、あの人。



 店の時計ではもう17時を少し過ぎていた。店を出ると、空はすっかり茜色に染まっていた。陽が傾き始めて、私の影が長く伸びている。まるで、どこまでも続いていくような影。それを見ていたら、なんだか自分がとても小さく思えた。


 神社を出て、また海辺を歩いてみる。でも、さっきみたいに気持ちは軽くならなかった。人の姿はさらに減って、道を通る車も一台も見かけない。聞こえるのは、波の音だけ。さざなみが静かに、でも確かに岸を打つ音。それが、やけに大きく響いた。


 さっきまであんなに暑かったのに、風が少し冷たく感じる。日が沈むと、空気の色も温度も変わる。いつもなら、こういう涼しさは心地よくて好きなのに、今日は違った。気温が下がるにつれて、心の中まで冷えていくような気がした。なんだろう、この感じ。

 

 寂しい、って言葉だけじゃ足りない。


 でも私の気持ちなんて関係なく、時間はどんどん進んでいく。山の上に見える民宿の窓に、ぽつぽつと灯りがともり始めた。海辺にいた釣り人たちも、竿をたたんで帰る準備をしている。一人、また一人と、静かにこの場所からいなくなっていく。


 ふと、帰り道のことを考えてしまった。

 ここから片道6時間。今から帰ったとしても、家に着くのは深夜を過ぎる。というか、そもそもお金が足りない。財布の中の残高はもう1万円を切っていた。どうやって帰ればいいんだろう。誰かに頼る? でも、誰に? そもそも……帰れるのかな。


 私は足を止めて、目の前に広がる夜の海を見つめた。昼間とはまるで違う顔をしている。空と海の境界線が、もう分からない。ただ、そこにあるのは、完全な闇。目を凝らしても、向こう側は見えない。どこまで行けば海が終わるのかも、始まるのかも分からない。でも不思議と、海が私を待っているような気がした。波の音が、規則正しく、一定のリズムで響いてくる。その静けさが、逆に不気味だった。


 私は防波堤によじ登って、身を丸めて座った。膝を抱えて、体を小さくする。そうすると、なんだか余計に心細くなった。まるで、自分が世界から切り離されたみたいだった。


「帰りたい……」


 言葉が、ぽつりと零れた。誰に向けたわけでもない。ただ、口から勝手に出てしまった。


 家出して、まだ一日も経っていない。それなのに、もうこんな気持ちになるなんて。自分が情けなくて、悔しくて、でもどうしようもなくて。涙は出なかったけど、胸の奥がぎゅうっと締めつけられるようだった。


 そんな時だった。


 遠くから、車の音が聞こえてきた。

 この静かな海辺には不釣り合いな、エンジンの低い唸り。最初は気のせいかと思ったけど、音はどんどん近づいてきて、やがてすぐそこで止まった。ブレーキの音とともに、ヘッドライトの白い光が私を照らす。眩しくて、思わず顔をそむけた。光が、夜の闇に慣れた目にはうっとおしく感じた。


 ゆっくりと振り向くと、そこには一台の軽トラが停まっていた。

 どこかで見たような、見てないような……いや、見た。ついさっき、うどん屋で。


「君ー。さっきの子やろ。どないしたん?」


 運転席の窓から顔を覗かせていたのは、あの変な人───真琴まことという、女の人だった。



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