第十二話 川の恵みと、師の教え
第十二話 川の恵みと、師の教え
第一章 清流のきらめき
第一節
山道を三日歩き続けた後、ヴィダニヤはようやく人の気配のない、静かな森の奥深くへとたどり着いていた。穀物や豆だけでは、さすがに幼い身体の芯から力が湧いてこないのを感じていた。
(お腹、すいたな……)
とてとてと後をついてくるむるぎーも、心なしか元気がなく見える。
その時、彼女の耳に、せせらぎの音が届いた。木々の間を抜けると、そこには陽の光を浴びて水晶のようにきらめく、清らかな川が流れていた。川底の石の一つ一つが見えるほどに、水は澄み切っている。
そして、ヴィダニヤの目は、水の中をすいすいと泳ぐ、銀色の影を捉えた。
魚だった。
体長は人の手のひらほど。陽光を反射して、きらり、きらりと鱗が輝く。
その光景を前に、ヴィダニヤの口元が、自然と綻んだ。
「むるぎー、見て。今夜は、ごちそうだよ」
第二節
魚の姿を見つめるヴィダニヤの脳裏に、ヒマラヤの道場で過ごした日々の、懐かしい記憶が蘇った。
まだ幼いヴィダニヤを、師であるスワーミ・ティロカーナが、裏山の沢へと連れ出した日のことだった。
「よいか、ヴィダニヤ。我らは巡礼の旅で、多くの恵みをいただく。だが、時には自ら、他の命をいただかねばならぬ時もある」
師はおもむろに、懐から一本の釣り糸と、小さな釣り針を取り出した。
「穀物だけでは、お前のような小さい体は健やかに育たん。魚や鳥の命をいただくことは、決して罪ではない。それは、自然の巡りの一部。我らもまた、その大きな巡りの中で生かされているのだからな」
師は、ミミズを餌に、いともたやすく一匹の魚を釣り上げてみせた。
「大切なのは、命をいただくことへの、感謝を忘れないことだ。『私の命になってくれて、ありがとう』。そう祈りながら、綺麗に、残さずいただく。それが、我らにできる、命への礼儀だ」
第三節
「お師さま……」
ヴィダニヤは、師の言葉を胸の中で反芻すると、懐から、彼に分け与えられた釣り糸と釣り針を大切に取り出した。
師の教え通り、近くの湿った土を掘り返し、餌となる虫を見つける。それを小さな釣り針につけると、彼女は川岸の岩に静かに腰を下ろした。
深く、息を吸う。
心を無にし、川の流れ、魚の気配、水の音と一体になる。
彼女は釣り糸を、そっと清流の中へと垂らした。
むるぎーも、ヴィダニヤの集中を感じ取ったのか、少し離れた場所で、静かにその様子を見守っている。
第四節
数分の静寂。
ヴィダニヤの指先に、かすかな、しかし確かな振動が伝わった。
「……!」
師の教え通り、焦らず、しかし一瞬の好機を逃さず、彼女はしなやかに腕を引き上げる。
銀色の弧が、空に舞った。
釣り上げられた魚は、草の上に落ち、ぴちぴちと元気よく跳ねている。透き通るような体に、黒い斑点が美しい、見事な川魚だった。
「一匹……」
ヴィダニヤは、同じようにして、立て続けに三匹の魚を釣り上げた。
「ありがとう、川の精霊さま。あなたの子供たちを、今夜の糧にさせていただきます」
彼女は、草の上でまだ命の光を宿している三匹の魚に向かい、静かに、そして深く、手を合わせた。
第二章 聖なる焔(ほむら)
第一節
陽が傾き、森が夕暮れの色に染まり始める。
ヴィダニヤは、川辺の少し開けた場所に、その夜の寝床を決めた。
「ありがとう、森の木々たち。あなたの命を、少しだけ分けてくださいね」
森に一礼すると、彼女は乾いた落ち枝を丁寧に拾い集める。焚き火の準備だ。
彼女は旅の道具の中から、小さな木の箱――『火口箱』を取り出した。中には、火打金(ひうちがね)と火打石、そして師が作ってくれた、布の『消し炭』が大切に仕舞われている。
乾いた葉の上に消し炭を置き、石と金を打ち合わせる。カチッ、カチッ。数度目の火花が、黒い布の上に落ちると、じわりと赤い点が灯った。その火種を枯れ草でそっと包み、優しく息を吹きかけると、頼りなげな炎が生まれた。
第二節
炎が薪へと移り、パチパチと穏やかな音を立て始める頃には、ヴィダニヤは魚の下ごしらえを終えていた。
師の教え通り、腹を裂き、内臓を丁寧に取り出す。その身は、近くの沢の冷たい水で綺麗に清めた。
次に、森で拾ってきた、なるべくまっすぐな細い枝を探す。その先端を石で鋭く削り、即席の串を作った。
魚の口から尾へと、慎重に串を刺していく。三匹の魚が、三本の串に刺された。
最後に、小さな布袋から、貴重な粗塩を指でひとつまみ取り、魚の表面に、ぱらぱらと振りかけた。
準備は、すべて整った。
第三節
ヴィダニヤは、三本の串を、焚き火を囲むようにして、地面にぐっと突き立てた。
火との距離、角度。全てが、焼き魚を一番美味しくするための、完璧な位置だった。
じりじり、と。
魚の表面から水分が飛び、皮が焼ける音が、静かな森に響き渡る。
やがて、たまらなく香ばしい匂いが、あたりに立ち上り始めた。塩と、川魚の脂が焼ける、食欲をそそる香り。
その匂いにつられたのか、むるぎーが焚き火のそばに近寄り、不思議そうに首をかしげている。
第四節
あたりは、すっかり夜の闇に包まれていた。
焚き火の炎だけが、ヴィダニヤの小さな顔を、オレンジ色に照らし出している。
リーン、リーン、と虫たちが奏でる鳴き声が、まるで美しい音楽のように響く。
魚の皮は、きつね色を通り越し、少し焦げ目がつくくらいに、ぱりっと焼き上がっていた。滴り落ちる脂が、焚き火の炎に落ちて、じゅっ、と音を立てる。
(……今だ)
ヴィダニヤは、これ以上ないという最高のタイミングで、一番おいしそうに焼けた一本を、火から引き抜いた。
第三章 命をいただくということ
第一節
「あちちっ…!」
焼きたての魚を、串から直接、指でつまみ上げようとして、ヴィダニヤは思わず声を上げた。指先が、じんじんと熱い。それでも、彼女の顔は、喜びで輝いていた。
ふうふうと息を吹きかけ、少し冷ます。そして、ぱりっと焼けた皮にかぶりついた。
サクッ、という軽やかな音。
その瞬間、ヴィダニヤの大きな瞳が、幸福に見開かれた。
(……おいしい……!)
皮は香ばしく、中の白身は、驚くほどふっくらとしていて、ほくほく柔らかい。噛むほどに、川魚の持つ上品な旨味と、清流の香りが、口いっぱいに広がっていく。ほんの少しの塩が、その味を極限まで引き立てていた。
第二節
あまりの美味しさに、ヴィダニヤは夢中で魚を食べ進めた。
目を閉じ、一口一口、じっくりと味わう。
(…私、生きてる……)
心の中から、しみじみと、そんな言葉が湧き上がってきた。
厳しい旅の疲れも、孤独も、この一口がすべて溶かしてくれるようだった。父と母を失い、師と別れ、たった一人で歩き続ける日々。だが、こうして自然の恵みをいただき、その命を自分の命へと繋いでいく。その実感こそが、彼女が「生きている」ということの、何よりの証だった。
彼女は、師の教え通り、魚をとても丁寧に食べた。身はもちろん、ぱりぱりに焼けた頭も、骨も、よく噛んで、何一つ残さない。命を余すところなくいただく。それが、彼女にできる、最高の感謝の形だった。
第三節
「はい、むるぎー。あなたもどうぞ」
ヴィダニヤは、二匹目の魚の、一番身の厚い部分を、自分の応量器に取り分けた。そして、熱心に、小さな骨の一本一本まで、丁寧に取り除いていく。
鶏は雑食で魚も食べることを、彼女は知っていた。
「コ、コッコッ!」
骨がなくなった白身を、むるぎーは嬉しそうに突いた。その姿を見て、ヴィダニヤはまた、幸せな気持ちになった。
一人と一羽の、ささやかで、しかし完璧な晩餐。
焚き火の光の中で、二つの影が、幸せそうに揺れていた。
第四節
三匹の魚を、綺麗に食べ終える頃には、ヴィダニヤのお腹は、ぽんぽこりんに膨れていた。
こんなに満腹になったのは、いつ以来だろうか。
彼女は、魚の骨一本残らなかった串を、感謝の気持ちを込めて、そっと焚き火の中へとくべた。
(お魚さん、わたしの命になってくれて、ほんとうに、ありがとう)
心の中で、深く、深く、祈った。
それは、他の誰でもない、たった今、彼女の血肉となってくれた命への、心からの感謝だった。
第四章 星空の子守唄
第一節
食事が終わると、ヴィダニヤは川のほとりで応量器を丁寧に清めた。
食器に残った魚の匂いを、清流が優しく洗い流していく。
焚き火の炎も、もうほとんど熾火になっていた。
夜は、さらに深くなっている。
ヴィダニヤは、いつものように薄い毛布を取り出すと、焚き火の温もりが残る地面に、それを敷いた。
第二節
毛布の上に、ちょこんと座る。
そして、空を見上げた。
そこには、手が届きそうなほど近くに、満天の星空が広がっていた。凍てつくように澄み切った夜空に、無数の星が、宝石をちりばめたように瞬いている。天の川が、白い帯となって、空を横断しているのがはっきりと見えた。
その、あまりの美しさに、ヴィダニヤは思わず息をのむ。
一つ一つの星のまたたきが、まるで命の鼓動のように感じられた。
第三節
ヴィダニヤは、自然と、胸の前でそっと手を合わせた。
「ありがとう、お魚さん。ありがとう、川の精霊さま。ありがとう、火をくれた森の木々たち」
「ありがとう、いつも一緒にいてくれる、むるぎー」
「ありがとう、お師さま。わたし、ちゃんと、生きています」
そして、彼女は、世界のどこかで祈り続ける、あの優しい存在を思った。
「シージーさま。わたしは今、とても幸せです。この温かな気持ちが、あなたの心にも、少しだけ届きますように」
第四節
祈りを終えると、ヴィダニヤは毛布にくるまり、横になった。
お腹はいっぱいで、体はぽかぽかしている。隣では、むるぎーが彼女に寄り添い、小さな寝息を立てていた。
焚き火の最後の熾火が、子守唄のように、穏やかに明滅している。
満天の星空に見守られながら、少女は、深い安らぎの中、あっという間に眠りに落ちていった。
その小さな寝顔は、この世のどんな宝物よりも、幸せに満ちて輝いていた。
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