第三話 『家畜が子を産まない村』
第三話 『家畜が子を産まない村』
第一章 届かぬ季節
【第一節 乾いた朝】
風が、乾いていた。
ヌアイラ村の朝は静かだった。
それは、豊かさの中の静けさではない。
どこかで止まった“季節”が、まだこの村に届いていないという静けさだった。
飼い葉桶の前で、痩せ細った一頭の雌牛が、力なく座り込んでいた。
骨ばった背中が、ゆっくりと上下するたびに、藁の香りがほこりに混じって漂う。
子牛の姿は、なかった。
村には、いくつもの家畜がいたが――
そのどれもが、近年まともに子を産んでいなかった。
稀に妊娠しても、生まれてくるのは動かぬ命だった。
あるいは、短い命を残して、静かに土へ還っていった。
原因は、分かっていた。
穀物が、なかったのだ。
【第二節 小さな責任】
村で飼われる牛や山羊たちは、粗末な野草だけではやせ衰えていった。
かつてこの村は、遠くのキリモリ村から供給される穀物に支えられていた。
だが、そこが長く不作に陥ったと聞いたのは、もう三年も前のことだ。
「また、だめだったよ……」
飼い主の少年が、俯いて納屋を出た。
まだ小柄な体に、土埃のついた麻の上着。
それでも彼の目には、責任感の色があった。
【第三節 目覚めの兆し】
その日、ヴィダニヤはその少年の家に招かれていた。
旅衣のまま、縁側に座っていたヴィダニヤが、そっと少年に声をかけた。
「ありがとう、今日も案内してくれて」
少年は小さくうなずくと、頭を掻いた。
「……あの牛、もう長くないかも」
「うん」
ヴィダニヤは立ち上がると、草履のまま納屋の方へ歩いていった。
中に入ると、わずかに濁った目の雌牛が、彼女の姿を見つめた。
その瞳に、かすかな光があった。
ヴィダニヤはそっと手を伸ばし、牛の額に触れた。
「……生きてくれて、ありがとう」
その声は、小さく、風にも届かないほどだった。
けれど、牛はゆっくりと、まぶたを閉じた。
まるで、その言葉に応えるかのように。
ヴィダニヤの祈りは、言葉にならなかった。
けれど、その想いは、確かに伝わっていた。
その夜、星は曇って見えなかった。
けれど――
誰にも気づかれない静かな場所で、ひとつの芽が、目覚めようとしていた。
第二章 祈りの兆し
【第一節 光の中に】
朝、納屋の中に光が差し込んでいた。
藁の上で眠る痩せた雌牛の背に、そっと光が触れる。
それはただの陽光ではなかった。
――どこか、あたたかい「意図」を持った光のようだった。
「……様子、見に行こうか」
少年の言葉に、ヴィダニヤは頷いた。
二人は納屋に入り、そっと牛に近づいた。
「……あれ?」
少年が眉をひそめた。
牛の腹が、わずかに膨らんでいた。
「妊娠してる……?」
しばしの沈黙のあと、ヴィダニヤが言った。
「うん。もう四ヶ月は経ってると思う」
「そんな……でも、気づかなかったよ。
それに、この体で、子なんて……!」
少年の声は震えていた。喜びと、不安が入り混じった声。
「まだ、間に合う」
ヴィダニヤは雌牛の額に手を添え、静かに目を閉じた。
「ありがとう……」
また、あの言葉。
でもそれは、祈りだった。
どんな祈りよりも、真っ直ぐな“感謝”だった。
【第二節 豊穣の訪れ】
その日、空には久しぶりに小鳥の群れが飛んでいた。
村人たちはそれに気づいたが、誰も口には出さなかった。
夕方になって、丘の道から荷馬車の音が響いた。
「……キリモリの馬だ!」
誰かが叫んだ。
村の入口に、古くから取引していたキリモリ村の荷馬車が停まっていた。
台の上には、新鮮な穀物が山のように積まれている。
「ヴィダニヤ!」
荷馬車の先頭で、小さな声がした。
カヤだった。あのキリモリの少女が、馬車の傍で手を振っていた。
「やっぱり、ここに来てたんだ!」
荷下ろしが始まる。カヤは笑顔で説明した。
「キリモリ、今年はすごく実ったの。
それにね、ヴィダニヤが来てから、毎日祈ってたんだ。
豊作になったら、皆におすそわけするって」
「おすそわけ、こんなにたくさん……」
「いいの!皆にたくさん迷惑かけちゃったから!」
カヤは真っ直ぐに言った。
その姿に、ヌアイラの村人たちは頭を垂れた。
どこか、忘れかけていたものが胸に戻ってくるようだった。
【第三節 繋がる手】
ヴィダニヤは、カヤの手を取った。
「会わせたい子がいるの」
ふたりは連れ立って、納屋に向かった。
薄暗い藁の上、痩せ細った雌牛は目を閉じていたが、
ヴィダニヤの声にゆっくりと顔を上げた。
「この子が、命を繋ごうとしているの」
カヤは、静かに牛の横にしゃがんだ。
その姿に、牛はまぶたを少しだけ下ろした。
それは、受け入れる合図のようだった。
「……ここで、私が世話してもいい?」
カヤの声は震えていた。
でも、その目は強かった。
ヴィダニヤは頷いた。
「ありがとう、カヤ。
あなたの祈りが、また巡りを呼ぶよ」
雌牛の背を、風が撫でた。
その風は、確かに“届いて”いた。
第三章 命の約束
【第一節 カヤの決意】
カヤは、納屋に寝泊まりするようになった。
母牛のためだった。
この痩せ細った命に、新たな命が宿っている。
それだけで、彼女は動いた。
朝になると水を汲み、運ばれてきた新鮮な穀物をすりつぶして与える。
その手は小さいけれど、いつもあたたかかった。
母牛は、最初はゆっくりと、やがてしっかりと食べ始めた。
「……食べてくれた!」
カヤの頬が輝く。
その声に、母牛はゆっくりとまぶたを閉じて応えた。
ヴィダニヤはその様子を、少し離れた柱の影から見守っていた。
何も言わず、何も教えず、ただ“巡り”の兆しを感じ取っていた。
日が巡り、月が満ち、季節がひとつ進んだ。
カヤはキリモリ村の両親に手紙を送り、
「命を迎えるまで、この子のそばにいたい」と書き送った。
【第二節 訪れるとき】
五ヶ月目のある朝、母牛が低く鳴いた。
「ヴィダニヤ!」
カヤの叫びに、ヴィダニヤが駆けつける。
母牛の呼吸が浅くなり、足がふらついていた。
「いよいよ……始まる」
ヴィダニヤは膝をつき、母牛の腹にそっと手を当てた。
「……ありがとう。ここまで来てくれて」
その声は、まるで全ての命に話しかけるようなやさしさだった。
やがて、分娩が始まる。
村の者たちが集まり、手伝いの準備を始める。
でも、誰もが知っていた。
この出産は、カヤの祈りと、母牛の意志で行われているということを。
•
【第三節 生まれた命】
――夜が明けた。
静かな納屋の中、藁の上にひとつの小さな命が横たわっていた。
子牛だった。
濡れた毛並みを小さく震わせながら、懸命に呼吸している。
「……生まれた……!」
カヤが涙をこぼす。
母牛は疲れていたが、しっかりと顔を上げ、子牛に鼻先を寄せた。
ヴィダニヤはそっと、納屋の入口から空を見上げた。
そのとき、朝陽が差し込んだ。
まるで、牛の母子とカヤを祝福するように。
•
飼い主の一家は、感謝の言葉とともに言った。
「この子を、あなたに育ててほしい」
カヤは、何度も首を振った。
「そんな……でも……ありがとう」
カヤは子牛にそっと寄り添い、額に自分の額を触れた。
母牛は、ゆっくりとまぶたを閉じ、
そのまま、安心しきって横になった。
•
「巡りは、戻ったんだね」
カヤが呟いたその言葉に、ヴィダニヤは微笑んだ。
「うん。
感謝が、土に届いたの。
命は、祈りの中で生まれるんだよ」
風が、納屋を抜けていった。
その風には、穀物の香りと、
生まれたばかりの命の温もりが、乗っていた。
第四章 巡りの風
【第一節 春の気配】
春が始まろうとしていた。
翌日
ヌアイラ村の空には、陽光と風が戻っていた。
野を渡る風には、草の香りと穀物の匂いが混じっている。
納屋では、母牛が子牛の背を舐めていた。
まだ細い脚で立ち上がろうとするその姿に、村の者たちは微笑んで見守った。
「よかった……ほんとうに」
カヤがそっと呟く。
頬には疲れが残っていたが、
その目には、どこまでも強く澄んだ光が宿っていた。
子牛はカヤを見つけると、よろよろと歩み寄った。
小さな鼻を押しつけるようにして、甘える。
カヤはそっとその額に手を当てた。
「あなたが、生まれてきてくれてよかった……」
彼女は母牛にも目を向けた。
「ありがとう、おかあさん」
母牛はゆっくりと、まぶたを閉じて応えた。
•
【第二節 ありがとうの声】
夕暮れ、飼い主の一家が、家の前でヴィダニヤに頭を下げた。
「この村に、巡りを戻してくれてありがとう。
あなたが来てくれなければ、この子も母牛も、助からなかった」
ヴィダニヤは首を振った。
「わたしは、祈っただけ。
でも――祈りは、誰にでもできるよ」
旅立ちの日の朝、村人たちが集まった。
どの顔も、晴れやかだった。
数ヶ月前の沈んだ空気は、どこにもなかった。
納屋の前に立つヴィダニヤの横には、子牛がいた。
カヤが綱を引いて、その隣に立っていた。
「連れていくの?」
「ううん、また会いに来るよ。
でも、もう少しだけ、この子と一緒にいたいの」
•
【第三節 旅立ちの朝】
村の出口で、カヤがヴィダニヤに尋ねた。
「ヌアイラは、もう大丈夫?」
ヴィダニヤは頷いた。
「もう、大丈夫。
カヤが祈って、村が応えてくれたから」
「じゃあ、次はどこに行くの?」
ヴィダニヤは静かに空を見上げた。
春の風が、白い羽根のように、彼女の足元を舞った。
「まだ分からないけど――
誰かが“ありがとう”を忘れかけたところへ、行くよ」
•
少女の旅は、続く。
白き羽根の巡り旅は、今日もどこかで祈りを連れて風に乗る。
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