返却完了
桃神かぐら
第1話 返却先未確認
帰り道、先生の声がまだ耳に残っていた。
「はい、これで“返却”は完了です。気をつけて帰りましょうね」
秋の空は高く、風は冷たい。玄関口の段差を下りるたびに、ランドセルが背中で小さく跳ねる。――ランドセル、と心の中で呼んだのは、そう呼ぶのが正しい気がしたからだ。中身が何であれ、肩に背負っている四角い重さは、誰かの“日常”に紛れ込むための形をしている。
家に着くと、母はいつも通りの声で「おかえり」と言った。鍋の湯気が台所に溜まっていて、醤油とだしの匂いが、今日という日を普通にする。
「ただいま」
僕が言うと、母は鍋の蓋をずらして中を覗き、うん、と頷いた。頷き方まで、いつも通りだった。
「今日はどうだった?」
「……たのしかった」
言葉が喉で一瞬、引っかかった。たのしかった、という感想は、何かを埋めるのに便利な言葉だ。楽しかったなら問題はない、そういうふうに会話はできている。僕はそれに慣れている。
食卓に座ると、椀が二つ並んだ。箸も二膳。母の手が一瞬、止まったのが分かった。止まって、すぐ動いた。あまりに自然に。
「……お父さんは?」
「遅いのよ。最近ね」
母はそれだけ言って、椀を僕の方へ寄せた。二つの椀の距離が、ほんの少しだけ縮まる。縮める必要なんてないのに。母の手は、何かを揃え直す癖がある。揃え直せば、間違いはなかったことになるから。
食べ始めると、味が薄い。薄いというより、味が“決まっていない”。だしは出ているのに、落ち着かない。僕は椀の縁を指でなぞり、じっと具を見た。白い豆腐。薄い油揚げ。ねぎ。いつもと同じ。
「おかわりいる?」
母が聞く。僕は首を振った。母は「そう」と言って、自分の椀を見た。まだ半分以上残っている。母は、残すのが嫌いだ。なのに今日は、箸が進んでいない。
玄関のチャイムが鳴った。
母が立ち上がるより早く、僕の身体が先に反応した。誰かが来る音に、肩が硬くなる。僕の中に、今日の“返却”の言葉が刺さったままだった。
母がドアを開ける。
「こんばんは。◇◇支所の者です」
男の人の声。丁寧で、温度がない。母の声はさらに低くなる。
「……何か?」
「確認です。返却後の状態に変化はありませんか」
母は一秒、黙った。黙って、笑った。笑う必要のないところで、笑った。
「ありません。いつも通りです」
「ありがとうございます。記録します」
ペンが紙を擦る音がした。僕はその音を、今日すでに一度聞いている気がした。教室の机の上で。先生の隣で。名前を呼ばれない、しゃべらない“先生”の手元で。
「念のため。対象は――」
男の人が言いかけて、母が被せる。
「……うちの子ですよね」
「はい。うちの、です」
言葉が一瞬、ずれた。“うちの子”と“うちの”の間に、誰のものでもない空白ができた。母はその空白を見ないふりをして、ドアを少し閉めた。僕の視界から、男の人の顔は見えなかった。ただ、靴だけが見えた。泥がついていない。外を歩いてきた靴の汚れじゃない。
母が戻ってくる。母は手を洗いながら言った。
「最近、変な確認が多いのよ。気にしないで」
「うん」
僕は頷いた。頷きは、返事より簡単だ。頷けば、話は終わる。終われば、記録になる。記録になれば、問題はない。
母が箸を置き、僕を見た。
「ねえ。今日、誰と行ったの?」
その質問だけが、急に生身だった。僕は答えようとして、答えられなかった。誰と、という問いの“誰”が、僕の頭の中で形にならない。友だちの顔が浮かぶ。浮かぶのに、名前が出てこない。出てこないのに、喉の奥に「いる」という感覚だけが残る。
「……みんな」
僕はそう言った。“みんな”は便利だ。数を曖昧にしてくれる。母はまた笑った。笑って、目を逸らした。
その夜、僕は布団に入った。部屋の暗さに慣れてくると、机の上のプリントが見える。今日配られた紙。題名は太字で、まっすぐに印刷されている。
《返却完了のお知らせ》
紙の下の方に、小さな文字で注意書きがある。
――返却後に生じた変化については、記録しません。
僕はその一文を読んで、なぜか安心した。記録しないなら、起きても起きなくても同じだ。起きたことは、起きていないことになる。起きていないなら、僕はここにいていい。
安心したまま目を閉じようとして、ふと気づく。
プリントは一枚だけだった。
なのに、机の角に、もう一枚の白い紙が重なっている。端だけが見える。僕は手を伸ばして、その紙を引き出した。
同じ題名。印刷の位置も同じ。文字も同じ。
ただ、宛名だけが違った。
《保護責任者 各位》ではなく、
《返却先 各位》と書かれていた。
僕はそれを見て、息を止めた。返却先、という言葉は、家のことじゃない。家だと思った瞬間に、そう思った自分が間違いだと分かる言葉だ。
それでも、母は「おかえり」と言った。鍋は湯気を立てた。箸は二膳あった。いつも通りに、全部が揃っていた。
揃っているのに。
揃っているからこそ。
僕はその紙を、静かにランドセルの底に戻した。明日も学校へ行く。そう思えた。そう思えることが、いちばん怖い。
その夜、夢は見なかった。
夢を見る必要がないくらい、世界はちゃんと、記録通りだった。
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