神様、有給休暇をとる

森元博隆

第一部:深夜の遭遇と、カップ麺の衝撃

午前二時、東京の片隅。深夜の静寂を破るのは、自分の足音と、不健康な咳払いだけだ。


築三十年の安アパートの共用廊下は、切れる寸前の蛍光灯が点滅を繰り返しており、まるでホラー映画の舞台セットのようだった。


だが、今の俺——佐藤健さとうたける、二十八歳、独身、職業システムエンジニアにとって、幽霊よりも恐ろしいのは納期と仕様変更である。


「…はやくシャワー浴びなきゃ」


独り言が口癖になって久しい。三日ぶりの帰宅だ。プロジェクトが炎上してからは、会社に泊まり込むか、こうしてシャワーを浴びるためだけに帰るかの二択しかない。


重たい瞼を擦りながら、二〇三号室の前に立つ。鍵を取り出そうとして、俺は動きを止めた。


ドアの前に、誰かいる。


最初は、隣の部屋の学生が鍵を失くして座り込んでいるのかと思った。あるいは、ついに過労による幻覚が見え始めたか。だが、目を凝らしてみると、そのどれとも違っていた。


そこにいたのは、少年だった。年齢は十歳前後だろうか。色素の薄い茶色の髪に、透き通るような白い肌。そして何より異様なのは、その服装だ。


平安時代の貴族が着るような、白い狩衣かりぎぬに、紫色の《さしぬき》。時代劇か神社の祭りでしか見かけない格好である。


少年は膝を抱えてうずくまり、俺の足音に気づくと、ゆっくりと顔を上げた。その瞳が、黄金色に光った気がした。


「……遅いぞ、人の子よ」


鈴を転がすような、涼やかな声だった。俺は呆然と鍵を握りしめたまま、しわがれた声で返す。


「は?」


「我は腹が減った。供物はないか?」


「……えっと」


思考回路がショートする。


迷子? コスプレ? それとも新手の宗教勧誘? 深夜二時に狩衣を着た美少年が、俺のアパートの前で供物を要求している。


バグだ。現実世界のコードに重大なバグが発生している。


「あの、ここ、俺の家なんですけど。君、どこの子? 親は?」


「親などおらぬ。我はこの地を統べる土着の神、白兼しらかねである」


少年——白兼と名乗った彼は、ふん、と鼻を鳴らして立ち上がった。身長は俺の腰ほどしかないが、態度はやたらと尊大だ。


「しらかね……って、まさか裏山の白兼神社の?」


「いかにも。日頃から其方の信仰心には感心しておった。時折、我の社の前で手を合わせているであろう?」


確かに、俺は通勤路にある神社の前を通る際、一瞬だけ立ち止まって手を合わせる習慣がある。


「今日もバグが出ませんように」「サーバーが落ちませんように」と、極めて現世利益的な願いと共に。だが、まさかその神様本人が、アパートの玄関前にデリバリーされるとは聞いていない。


「で、その神様が、こんなところで何をしてるんですか」


「家出だ」


きっぱりと言い放たれた言葉に、俺はめまいを覚えた。


「家出?」


「うむ。有給休暇をとることにした」


「……神様って、労基法の適用内なんですか?」


「知らぬが、とにかく休みだ! もう嫌なのじゃ!」


少年神は、地団駄を踏み始めた。

狩衣の袖がバサバサと揺れる。


「来る日も来る日も『金が欲しい』だの『恋人が欲しい』だの『痩せたい』だの! 人の子の欲望は底なし沼か! 聞いているだけで肩が凝るし、神威しんいもすり減る! この数百年、一日たりとも休んでおらぬのだぞ! ブラックもいいところであろう!?」


その叫びは、悲しいほどに俺の心に響いた。数百年の連勤。それは確かに、ブラック企業どころの騒ぎではない。俺の三徹など、彼の前では赤子のようなものだ。


「……分かりました。とりあえず、中に入りますか」


「うむ。苦しゅうない」


俺は溜息をつき、鍵穴に鍵を差し込んだ。


こうして、社畜SEと家出神様の、奇妙な同居生活が幕を開けたのである。


六畳一間のワンルーム。脱ぎ散らかした服と、読みかけの技術書、そしてコンビニ弁当の空き容器が散乱する、男の独り暮らしの典型的な部屋だ。


白兼少年は、部屋に入るなり眉をひそめた。


「……けがれておるな」


「物理的な汚れです。お祓いじゃ落ちませんよ」


俺は床の服を足で端に寄せ、座るスペースを作った。


さて、どうしたものか。目の前に座る自称・神様は、ちょこんと正座をして俺を見上げている。見た目はどう見ても小学生だ。深夜に子どもを連れ込んだと通報されたら、俺の人生はジ・エンドである。


「それで、供物は?」


「……ああ、腹減ってるんでしたっけ」


冷蔵庫を開ける。中身は空っぽだ。ビールと保冷剤しかない。


戸棚を漁ると、買い置きのカップ麺――『激辛シーフード味』が一つだけ出てきた。


「お湯を入れるだけの麺ならありますけど」


「麺か。よかろう。奉納せよ」


俺は電気ケトルで湯を沸かし、カップ麺に注ぐ。三分待ち、蓋をめくって箸を添えて差し出した。


白兼は、湯気の立つカップをまじまじと見つめた。


「なんとも奇妙な器じゃ。これが現代の膳か」


「まあ、底辺の膳ですけどね。熱いんで気をつけて」


彼は恐る恐る箸を取り、不器用な手つきで麺をすすった。その瞬間、黄金色の瞳が見開かれた。


「……!!」


「どうしました?」


「な、なんじゃこれは……!」


白兼は震える手でカップを掲げた。


「美味い! 美味すぎるぞ!」


「え、そこまで?」


「この刺激的な辛み! 舌を刺すような塩気! そして何より、この謎の肉のような具材! 高天原たかまがはらの宴でも、これほどパンチの効いた料理は出たことがない!」


「謎肉、気に入ったんですか……」


神様は猛然と麺を啜り始めた。ズズズ、と行儀の悪い音が部屋に響くが、本人は気にする様子もない。


あっという間に麺を平らげ、スープまで飲み干し、最後には「ぷはーっ」と親父くさい吐息を漏らした。


「見事であった。人の子の叡智、恐るべし」


「それはどうも」


「気に入った。我はこの部屋を仮のやしろと定める」


「はい?」


「しばらくここに滞在してやる、と言っておるのだ。光栄に思え」


満足げに腹をさする神様を見下ろしながら、俺は頭を抱えた。明日も朝から出社だ。バグの修正報告書を出さなきゃいけない。クライアントとの定例会議もある。それなのに。


「あのさ、神様」


「なんじゃ」


「俺、明日も仕事なんですよ。寝かせてくれませんか」


「許す。我も眠い」


白兼は俺の万年床——煎餅布団の上にごろりと横になった。


「ちょ、そこ俺の!」


「布団は一つしかないではないか。神と共に寝られるのだ、ご利益があるぞ」


「寝相悪かったら祟られそうだな……」


抵抗する気力もなく、俺は諦めて隣に横になった。狭い。そして、妙に暖かい。隣から聞こえる規則正しい寝息を聞いていると、不思議と張り詰めていた神経が緩んでいくのを感じた。


「……有給、か」


天井の染みを見つめながら呟く。最後に有給をとったのはいつだったか。いや、そもそも申請した記憶すらない。神様ですら休むんだ。人間が休めないなんて、どう考えてもおかしいよな。


そんな当たり前のことに気づいた数秒後、俺は泥のような眠りに落ちていた。


翌朝、目覚めた俺が見たのは、俺のタブレットを勝手に操作してガチャを回している神様の姿だった——。

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