恋人じゃないのに、同棲してるのはおかしいらしい

Song

第1話 : 同棲してるけど、恋人じゃない(らしい)

 目覚ましが鳴る前に目が覚めた。

 正確には、鳴る直前の「音がない数秒」で。


 天井を見上げたまま、息を整える。

 時計を見なくても、だいたい分かる。こういうの、体が勝手に覚えてる。


 スマホを取って確認する。六時五十八分。


(うん。予定どおり。……いや、予定どおりって何だよ。起床に予定とかある?)


 ベッドを出る。

 隣は、もう空いている。


 さっきまで誰かがいた気配だけが残っていて、布団は妙に整っていた。寝起きのぼんやりした頭でも分かる。「先に起きた」っていう、あの感じ。


 廊下を歩く。

 足音を立てないようにしているつもりはないのに、自然と静かになる。家の空気が、すでに“朝”に切り替わっているからだ。


 キッチンの明かりは、もう点いていた。


 冷蔵庫の扉が開く音。

 中身を確認するための、ほんの短い間。


「……牛乳、少ない」


 振り向かずに言う声。淡々としていて、報告の体裁をしている。

 でも、この家においてその報告は、わりと重大だ。


「昨日、使ったからな」


 返事をしながらキッチンに入ると、彼女は冷蔵庫の前に立ったまま、微動だにしない。部屋着。髪は軽くまとめている。寝起きのはずなのに、生活の手順だけが先に起きているみたいな動きだ。


 狭い空間のカウンターには、マグカップが二つ並んでいた。


 片方は、俺の。

 もう片方は――たぶん、彼女の。


(……いつ置かれた?)


 気づいたときには、最初からそこにあったみたいに“完成している”。

 朝って、こういう小さな「最初から決まってた感」で殴ってくる。


 彼女は何も言わず、コーヒーの準備に手を伸ばす。

 俺は横で、戸棚を開ける。動線が被らない。ぶつからない。無駄がない。


 まるで、何度も何度も繰り返して最適化された同居生活――


(いや、同居って言うな。まだ何も言ってない)


 心の中で自分にツッコミを入れたところで、トースターが小さく鳴った。


 湯気の立つ匂いが、部屋に広がる。

 朝の匂いだ。理由は分からないのに、体が「いつもの朝」と判断してしまう。


 彼女はマグカップの片方を手に取り――当然のように、砂糖を入れない。


(そこ、俺の好みなんだよな……)


 言葉にすると、急に全部が説明を求めてきそうで怖い。

 だから俺は、何も言わずに皿を取った。


 そして、その瞬間。


「今日、ゴミ出し――」


 彼女の声が、当たり前みたいに続こうとして。


 俺はなぜか、「また始まる」と思ってしまった。


「今日、ゴミ出し――」


 彼女の言葉は、途中で止まったわけじゃない。

 自然に、最後まで続く前提の音量だった。


「燃えるやつだよね」


「うん」


 俺が答えると、彼女は小さく頷いた。

 それだけで会話は成立してしまう。


「袋、もう替えてある」


「……いつ?」


「昨日の夜」


 昨日の夜。

 その時間帯、俺は確か――いや、思い出すのをやめた。こういうのは、思い出そうとすると逆に怖い。


 彼女は流しに手を伸ばし、水を出す。

 コップを軽くすすぎ、伏せて置く。


 その位置が、俺の癖と同じなのに気づいて、視線を逸らした。


(いや、たまたまだ。たまたま)


 洗面所の方から、歯ブラシの立てる音がした。

 俺のと、彼女のが、並んでいる。


 どっちが左で、どっちが右か。

 その配置を「いつからそうだったか」考えるのは、朝には向いていない。


「今日は、一限から?」


 彼女が、何気なく聞いてくる。


「そうだけど」


「じゃあ、家出るの七時三十五分」


 断定だった。

 確認じゃない。


「……なんで?」


「逆算」


「何を?」


「全部」


 全部、って言葉を、こんな軽く使う人を俺は他に知らない。

 しかも、それを当然みたいに言う。


 トーストが皿に置かれていた。

 ジャムは片方にだけ塗られている。


 どっちに塗られているかを見て、俺は自分の席を選んだ。


(……これ、俺のだよな)


 誰が用意したのかは分からない。

 でも、俺が取ることを前提に置かれている。


 その前提が、一番おかしい。


「帰りは?」


「部活あるから、少し遅い」


「了解」


 了解、って。

 それ、共有事項なのか?


 彼女はマグカップを持ち、俺の前を横切る。

 距離が近い。肩が触れそうで、触れない。


 触れない、けど――


(近い)


 思わず意識した瞬間、彼女が足を止めた。


「……何?」


「いや、何でも」


 視線が一瞬だけ合う。

 すぐに逸れる。


 そのやり取りに、特別な意味はない。

 少なくとも、彼女の顔にはそう書いてある。


 時計を見る。七時十五分。


「そろそろ」


 彼女が言う。


 何が、とは言わない。

 でも、二人とも同じことを考えている。


 玄関に向かう途中、俺はふと疑問を覚えた。


(……俺たち、今、何してるんだ?)


 答えは出ない。

 出ないまま、靴を履く。


 鍵の位置も、傘の配置も、全部“決まっている”。


 決まっているのに、誰も決めた覚えがない。


 そして――

 この流れの先に、きっと「あの一言」が来る。


 そう思ったところで、彼女が息を吸った。


 玄関で、彼女が一度だけ立ち止まった。


 靴を履き終えた俺は、鍵に手を伸ばしかけて、その動きが止まる。

 この間。

 ほんの一秒にも満たないのに、やけに慣れている。


「……勘違いしないで」


 彼女は、こちらを見ないまま言った。


 声は低く、淡々としている。

 怒っているわけでも、照れているわけでもない。

 注意喚起というより、定期的なメンテナンスみたいな口調だった。


「私たち、恋人じゃないから」


 その言葉は、玄関に静かに落ちた。

 靴箱の上にも、ドアノブにも、特別な反応はない。


「分かってる」


 俺は、すぐに答えた。

 驚きもしなかったし、否定もしなかった。


 それが、この会話の正解だと知っているみたいに。


 彼女は一瞬だけ、こちらを見る。

 何かを確認するような視線。


 それから、何も言わずにドアを開けた。


 外の空気が流れ込む。

 朝の匂い。少し冷たくて、まだ眠りきっていない感じ。


「鍵、お願い」


「了解」


 鍵を受け取り、施錠する。

 その動作も、考えなくてもできるくらい自然だった。


 駅までは、途中まで一緒だ。

 並んで歩く距離も、歩幅も、ほとんど同じ。


 でも、改札の手前で、自然に足が止まる。


「じゃ」


「うん」


 それだけ。

 手も振らないし、見送りもしない。


 彼女はそのまま別の方向へ歩き出す。

 俺も、反対側へ向かう。


 学校では、話さない。

 視線も、合わせない。


 それが、いつものことだった。


 背中を見送るわけでもなく、

 振り返ることもなく、

 俺は改札を抜ける。


 特別なことは、何も起きていない。

 確認も、約束も、進展もない。


 ただ、朝が終わっただけだ。


 この日常は、今日も何の問題もなく続いている。


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