第54章:大黒柱のプレッシャーと、長女の辛口な祝福

 2月下旬。

 瑠奈の東京入試より少し前、俺、雨宮 聖次の志望する地元大学の合格発表日がやってきた。


 午前10時前。

 橘家のリビングは、葬式のような……いや、爆弾処理班のような重苦しい空気に包まれていた。


「……聖次さん。お水、飲みますか? それとも胃薬?」

「い、いえ。大丈夫です、遥さん」


 俺はダイニングテーブルに置いたノートパソコンの前で、ガチガチに固まっていた。

 口では大丈夫と言ったが、正直、心臓が口から飛び出しそうだ。


(……落ちるわけにはいかない。絶対に)


 俺はただの高校生ではない。

 春からは遥さんと結婚し、二人の娘(同年代)を持つ父親になる男だ。

 就職を視野に入れた経営学部。ここを滑ったら、高卒でフリーターをしながら妻子を養うというイバラの道が待っている。

 そんな甲斐性のない男に、遥さんを任せるわけにはいかないのだ。


「……あと、30秒です」


 背後で、詩織さんが腕時計を見ながらカウントダウンを始めた。

 彼女は腕組みをして仁王立ちしている。

 その視線は「もし落ちたら、長女としてどう処分を下すか」をシミュレートしているようで、背筋が凍る。


「うぅ……私が見るの怖い……! 神様、仏様、聖次様ぁ……!」


 遥さんはクッションを抱きしめ、ソファの隅で震えている。

 俺より緊張しているかもしれない。


「……時間です。アクセスしてください」


 詩織さんの冷徹な号令。

 俺は震える指でマウスを握り、更新ボタンをクリックした。

 一瞬のロード時間が、永遠のように長く感じる。


 パッ、と画面が切り替わった。

 ずらりと並ぶ数字の羅列。

 俺は自分の受験番号を探して、画面をスクロールする。


 ない。……ない。……あった。


「…………あ」


 俺の声が漏れるより先に、詩織さんが俺の肩越しに画面を覗き込み、眼鏡の位置をクイッと直した。


「……ありましたね。番号」


 そこには、俺の受験番号がしっかりと表示されていた。

 合格だ。


「……っ、はぁぁぁ……」


 全身の力が抜け、俺は椅子の上で崩れ落ちそうになった。

 よかった。首の皮一枚繋がった。これで無職のまま結婚という最悪の事態は回避できた。


「嘘!? あったの!? やったぁぁぁぁ!! おめでとう聖次さんっ!!」


 弾かれたようにソファから飛び出した遥さんが、俺の背中にタックル気味に抱きついてきた。


「よかったぁ! 本当によかったぁ! 聖次さんが大学生よぉ! キャンパスライフよぉ!」

「ぐぇっ、く、苦しいです遥さん……!」

「だってぇ、心配だったんだもん……! もしダメだったら、私が馬車馬のように働いて養わなきゃって覚悟してたのよ!?」

「そんな覚悟させちゃってすみません……」


 涙目で喜ぶ遥さんをなだめていると、詩織さんがキッチンへと歩き出し、冷蔵庫から冷たい麦茶を取り出した。

 コトッ、と俺の前にグラスを置く。


「……ふぅ。とりあえず、最低限のラインはクリアですね」


 詩織さんの声色は相変わらずクールだが、グラスを持つ指先からは力が抜けていた。


「もし落ちていたら、母との結婚を再考するよう進言するところでした」

「……厳しいな、長女」

「当然です。一家の大黒柱になる男が、この程度のハードルで躓いてもらっては困りますから」


 彼女なりの、捻くれた祝福だ。

 俺は苦笑いしながら麦茶を一口飲んだ。冷たさが乾いた喉に染み渡る。


「……でも」


 詩織さんは視線を少し逸らし、ボソリと付け加えた。


「……家事もこなしながらの勉強、大変だったと思います。……お疲れ様でした、お父さん」


 その言葉に、俺は不覚にも目頭が熱くなった。

 一番近くで見ていてくれた彼女からの「合格点」。それは大学の合格通知よりも嬉しかったかもしれない。


「……ありがとう、詩織さん」


 俺たちが安堵の空気に包まれていると、二階からドタドタと足音が聞こえてきた。

 ドアが開き、ボサボサ頭の瑠奈が顔を出す。


「……うるさいんだけど。何騒いでんの?」

「あ、瑠奈! 聖次さんが受かったのよ!」

「……は? そんだけ?」


 瑠奈はつまらなそうにあくびをした。


「当たり前じゃん。アタシが選んだ男が、そこのFラン(失礼)ごとき落ちるわけないし」

「お前なぁ……俺は必死だったんだぞ」

「はいはい。おめでと。……これでアタシも、心置きなく東京行けるわ」


 瑠奈はニッと不敵に笑うと、「ジュースもらい」と冷蔵庫を開けた。

 その強気な態度は、彼女自身の合格への自信の裏返しのように見えた。


「……さて。次は瑠奈ですね」


 詩織さんの視線が、ジュースを飲む妹に向けられる。

 俺の合格は、あくまで前座。

 本番はこれからだ。


「ああ。絶対受かるさ」


 俺は確信を込めて言った。

 俺が道を切り開いたんだ。次は娘が続く番だ。

 俺たちは新たな緊張感と共に、来るべき「その時」を待つことにした。


(続く)

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