プロローグ「華やかな夜の誘い」

プロローグ「華やかな夜の誘い」


クラブの扉を押し開けると、空気が甘く濃密だった。

シャンデリアの光は、まるで小さな星が瞬いているかのように、暗い室内を揺らめく。グラスが触れ合う音、低く響くジャズのベースライン、客たちの笑い声――すべてが喧騒の中で柔らかく包まれている。


「いやあ、久しぶりだね、神崎さん」


華山秀樹の声は、どこか懐かしく、そして滑らかだった。40代後半とは思えない若々しい声のトーンと、かすかな香水の匂い。神崎は思わず胸の奥がざわつくのを感じた。


「華山さん……ええ、久しぶりですね」


握手の手は温かく、しっかりとしている。目の奥には昔の自信と、いまだ衰えぬ好奇心がある。神崎は、言葉にできない焦燥感と期待が入り混じるのを感じながら、腰掛けた。


「今日は、君にぜひ見せたい話があるんだ」


華山はグラスを傾け、琥珀色の液体を口に含む。香り高いブランデーが喉を滑り、甘さと苦みが鼻腔に残る。神崎は自然と息を飲んだ。何か特別なことが起こる、そんな予感がした。


「医療関連の未公開株なんだけど……君、興味はあるかい?」


神崎は一瞬言葉を失った。

「未公開株……ですか?」


「そう、絶対に上場する会社の株だ。しかも、普通の人は手に入れられない」


華山の目がわずかに細められる。その奥には、かつてテレビで見せた笑顔の裏に隠された、策士の鋭さが光る。神崎は心臓の鼓動が早まるのを感じた。


「しかし……そんな話、簡単に手に入るものではないはずですが」


「君には特別に、少しだけ紹介する」


華山は肩をすくめ、楽しげに笑う。

「これも縁だろう。人脈というものは、使い方次第で宝にもなれば、鎖にもなる」


クラブの奥から、ピアノの高い音がひとつ、静かに響く。神崎は息を整えながら、舌先でグラスの縁を触った。冷たく、そして滑らかだ。目の前の男――華山――が何を意図しているのか、完全には見えない。それが余計に心をざわつかせる。


「で、具体的には……どのくらいの額を?」


「おお、遠慮はいらないよ。1株120万円。君が欲しければ、何株でも手に入る」


「……1株120万円……」


舌先が乾く。神崎は心の中で計算を始める。手が震えるほどの金額だ。だが同時に、胸の奥に熱い期待がこみ上げる。「もしかしたら、本当に大きな成功になるかもしれない」


「しかも、この株は君の会社にとって、未来の証明になる」


華山の言葉には魔力があった。信じたくなる何かが、音や光や香りを通して体に染み込む。神崎は思わず唇を噛む。頭では危険を理解しているのに、心はすでに誘惑に染まっていた。


「わかりました……一度、検討させてください」


「検討?」華山は驚いたように目を見開く。

「君は、もう決めているんだろう?」


その言葉に、神崎は微かに息を呑む。心の奥で、小さな理性の声が囁く。

「本当に大丈夫なのか……?」


しかし、五感がすべてを押し流す。シャンデリアの光、ブランデーの香り、ジャズの低音、華山の笑顔。全てが、**「信じろ」**と言っているようだった。


「……では、お願いします」


華山は笑みを広げ、グラスを掲げた。

「いい選択だ、神崎さん。未来の成功に乾杯だ」


グラス同士が触れ合う軽やかな音。神崎の耳に、胸の高鳴りと混じって、かすかな不安も混ざる。だがその瞬間、誰もそれが2億円の影に覆われた悪夢の始まりだとは知らなかった。


夜の空気は甘く、危険な香りを含み、そして何もかもが静かに回り始めた。


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