第4話 放送初日の朝

放送室を出て、廊下を歩いている途中。


「長谷川くん」


 名前を呼ばれて、振り向く。


 夕方の光が差し込む窓の横で、

 羽鳥が立ち止まっていた。


「色々教えてくれてありがとう」


「いや、たいしたことしてないよ」


「ううん」


 彼女は、首を横に振った。


「こういうの、私、けっこう不安で」


「不安?」


「仕事でカメラの前に立つのは、もう慣れてるんだけど……“学校のみんな”に向けて何かするのは、初めてで緊張してしまう」


 ぽつぽつと言うその言葉は、噂で聞いていた「男嫌いの高嶺の花」とは、少し違う印象だった。


「だから、ちゃんと教えてくれる人がいて、よかった」


「……そっか」


 何て返せばいいのか分からなくて、

 とりあえずそう言う。


「次の当番の日も、一緒に練習してくれる?」


「え、あ、うん」


「……よろしくね」


 彼女は手を軽く振って、スタスタと教室の方へ歩いていく。


 残された僕は、窓から外を見た。


 夕焼け空の端っこに、薄い雲がかかっている。


 僕の声を「すごい」と言ってくれた。


 男嫌いで、男子には壁が厚いはずの彼女が。


「……よし」


 小さく呟いて、拳を握る。



 僕と羽鳥さんは、金曜日の放送担当になった。


 週に一度だけ、朝・昼・放課後の三回。


 金曜日になるたび、放送室に二人で通うことになる。


 その、初日。


 金曜日の朝。


 始業前の校舎は、まだ少し静かで、廊下には誰かの足音が時々響くだけだった。


 朝の放送は、ホームルームの少し前 

 八時二十五分から始まる。


 僕は三十分前、八時前には放送室の前に着いていた。


 職員室の隣の、小さなドア。


 「放送室」と書かれたプレートを見上げて、一度深呼吸する。


(よし……)


 ドアをそっと開けると、ほんのり冷たい空気と、古い機械の匂いが鼻に入った。


 そして、その真ん中。


 放送机の前の椅子に、羽鳥さんが座っていた。


 うつむいて、眠っていた。


「……え?」


 思わず声が出そうになって、慌てて口を押さえる。


 制服姿のまま、椅子に腰かけて、机に肘をついて、腕に頬を預けるような格好。


 長い髪が前に流れて、少しだけ顔が隠れている。


 その手元には、一冊の分厚い台本が開かれていた。


 びっしりと付箋が貼ってある。


 色の違う付箋が、何十枚も。


 ページの上や横から飛び出していて、一目で「読み込んでるな」と分かるくらいだった。


(……すげ)


 思わず息を飲む。


 テレビやポスターで見る「芸能活動」なんて、正直、キラキラしたイメージばかりだった。


 でも、目の前にあるのは、その裏側だ。


 セリフごとに付箋。


 ト書きのところにも書き込み。


 何度も開いたのか、角が少し丸くなっているページ。


(毎日、稽古って言ってたの……本当なんだ)


 昨日の昼休みの会話が、頭に浮かぶ。


 あのとき、軽く言っていたけれど。


 この台本を見れば分かる。


 羽鳥さんは、ちゃんと「本気」で仕事をしている。


 ……それにしても。


 眠っている顔は、反則だった。


 普段はきりっとしている目元が、少しゆるんでいる。


 長いまつげが影を落とし、口元はほんの少しだけ開いていて。


 さっきまで、台本に向かっていた真剣な表情からは、想像もできないくらい無防備だ。


(……天使か)


 心の中で、誰にも聞こえないツッコミを入れる。


 さっきまで「努力家なんだな」と感心していたのに、

 その次の瞬間には「可愛い」と思ってしまう自分が、もうどうしようもない。


 見つめるな。


 見るな。


 分かっているのに、目が離せない。


 こんな距離で、こんな顔を見るなんて、ずるい。


 そのときだった。


 ぱち、と。


 まつげが震えた。


 ゆっくりと瞼が持ち上がって、黒い瞳がこちらを向く。


 目が合った。


「っ……!」


 僕は、条件反射で視線をそらした。


「あ、お、おはよう……」


 声がちょっと裏返る。


 心臓が、うるさい。


 絶対、顔が赤い。


 さっきまで見惚れていたの、バレてないよな……?


 自己嫌悪と不安が頭の中を駆け巡る。


「……おはよう」


 羽鳥さんは、ほんの少しだけ首を傾げて、あくびを噛み殺すみたいに口元を押さえた。


「早いね」


「いや、その……初日だし、遅れるの嫌だから」


「まじめ」


 短くそう言って、彼女は一度大きく伸びをした。


 長い髪がさらっと揺れる。


 さっきまで寝ていたとは思えないくらい、すぐに表情が引き締まる。


 机の上の台本をそっと閉じて、カバンにしまう。


「ごめん、寝てたの、見てた?」


「え」


 心臓が止まりかける。


「……すこしだけ」


「そっか」


 羽鳥さんは、少しだけ頬をかいた。


「恥ずかしいから、あんまり言いふらさないで」


「い、言わない言わない!」


 ていうか、誰にも言えるわけがない。


 こんなシーン、心の中にロックしておくしかない。


「じゃ、朝の原稿、ちょっと練習しよっか」


 そう言って、彼女はすっと放送机の前に立った。

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