第2話 新妻ごっこ開演 ASMR配信、始まります
数分後。
再びスマホが震える。
通知タイトルは──『ASMR配信その1 新妻風』。
新妻「風」って何だよ、とツッコミを入れつつも、胸は期待でざわついている。
エプロンはしないって言ってたけど、声だけでどこまで“新妻”やれるのか。
イヤホンを奥まで差し込んでから、リンクをタップする。
「お、おかえり……。先、晩酌始めちゃってるよ……」
画面切り替えとほぼ同時に、耳をくすぐる声が落ちてきた。
さっきの雑談枠よりもワントーン低く、少しだけ掠れたダウナー系。
カラリ、とグラスで氷が踊る音。
銀髪ロングの立ち絵はそのままだけど、表情差分が変わっている。
頬がほんのり赤くて、とろんとした目元。
黒ニットの肩がゆるっと落ち気味なのが、妙に色っぽい。
「ねぇ、今日、何時くらいに帰ってくるかなって時計ばっかり見ちゃってさぁ……。結局、我慢できなくて一人で晩酌始めちゃった……ごめんね?」
申し訳なさそうに笑う声。
ほんの少しだけ、舌足らず。
「でもね? おつまみはまだ何も作ってないの。だって、お酒はひとりでも飲めるけど、おつまみはキミと一緒に食べたくて……」
息を含んだ声が、イヤホンの中でじんわり広がる。
チャット欄は当然騒がしい。
『出だしから破壊力高すぎる』
『これが無料なの怖い』
『一人晩酌フラグも尊い』
その全てを無視するように、レンは淡々とシチュエーションを進めていく。
「じゃあ、今から作ろっか。簡単なのしかできないけどさ。……あ、キッチンついてきて? んふふ、見てるだけでいいから」
ゴソゴソと椅子から立ち上がる布擦れ音。
立ち絵は変わらないのに、足音が聞こえた瞬間、本当に一緒に移動している気になるから怖い。
トトッ、トトト……。
スリッパが床を叩くリズム。
キッチンへ向かう短い道のりが、妙に長く感じる。
「えっとね、まずは……きゅうり」
ゴソ、と冷蔵庫が開く音。
ビニール袋がこすれる音。
「ほら、シャキシャキしてそうでしょ? ……あ、見えないか。ふふっ」
からかう声が可愛くて、意味もなくうなずいてしまう。
「まな板、出してっと」
コン、と木のまな板が置かれる音。
そのすぐあとに、包丁を持ち上げる小さな金属音。
「でもね、今日はね~……包丁はあんまり使わないの。
ストレス解消も兼ねて、こうする」
ドスッ。
鈍い音が一発。
ドスドスッ、ドスッ。
リズミカルに続く、きゅうり殴打音。
「はぁ~、スッキリ。……あ、ちょっとスッキリし過ぎたかも」
くす、と笑う声。
完全に、きゅうりには同情しかない。
「で、塩をね、こうやって……」
スリ、スリスリ……。
きゅうりの表面を塩でこすっているらしい。
耳だけなのに、青臭さまで伝わってくる気がする。
「ほら、シャッキシャキになぁれ……って」
手のひらで転がす音が、ころころと弾む。
「あ、冷蔵庫から塩昆布取ってもらっていい?うん、右のポケットのとこ。ありがと。……卵も二つ、ついでに」
こちらに話しかけるような口調なのに、返事を挟む隙を与えてくれない。
ただ、声だけはまっすぐこっちに向かっている。
ボウルを取り出すガチャリという音。
「きゅうりと塩昆布入れて、ごま油をちょ~っと。混ぜ混ぜして……はい、きゅうりのたたき、塩昆布和え~」
カチャカチャという箸の音のあと、コトン、と皿が置かれる音。
「見た目はアレだけど、味は保証するよ? ほら、匂いもいいでしょ?」
匂いまではさすがに届かない。
届かないはずなのに、頭の中ではしっかり再生されているから不思議だ。
「じゃ、そろそろキミのお酒も用意しよっか」
ゴソゴソ、と缶を探す音。
「えぇっとね、キミの好きなやつ……あった。これこれ。今日のために、ちょっとだけいいやつ買っておいたんだよ?」
缶を軽く指で弾く、小さなコンコンという音。
「ほら、グラス持って。注ぐよ?」
とぷ、とぷぷ……。
炭酸がグラスの内側を打つ、柔らかい水音。
「いつもお仕事お疲れさま。今日もえらいね。……かんぱーい」
カチン。
グラスと缶がぶつかる小さな音でも、心に響き方が違う。
「んぐ、んぐっ……んん~……ぷはぁ~。……幸せ」
喉越しと吐息が混ざる瞬間、こっちもつられてグラスを傾けてしまう。
ただのチューハイなのに、妙に甘く感じるのは気のせいではない。
「きゅうりも食べてね? キミのために作ったんだから。私はね、もうちょっとだけおつまみ作るよ。次は……なーんだ」
卵がパカン、と割れる音。
とぷっ、とボウルに落ちる。
「正解は~……だし巻き卵! キミ、甘いの好きでしょ?」
箸でカシャカシャと卵液を混ぜる音。
「ちょっとだけ砂糖入れて……だしも入れて……。うん、こんなもんかな」
フライパンがコンロに置かれる音。
ボッ、とガスが点火する音。
「油ひいて……キミ、ちょっと下がって? 跳ねるから。服汚れちゃうよ」
じゅわぁぁ……。
熱した油に卵液が流れ込む音が、耳の中に濃厚に広がる。
ジュッ、ジュワッ、とところどころ音が変わるのが妙にリアルだ。
「端っこから、くるくる~っと巻いて……。あ、ちょっと失敗したかも」
箸がフライパンに当たる、カチャカチャッという音。
「あ、でも。こうやって重ねていけば……。うん、形はなんとかなった。……たぶん」
フライパンから皿に移す、トンッという控えめな衝撃音。
「はい、完成。だし巻き卵~。キミ好みに、甘めにしてみたよ」
皿がテーブルに置かれ、箸が添えられる。
「はい、あ~ん」
スッ、と何かがこちらに差し出される気配。
もちろん現実には何もないけど、
思わず口を開けそうになる自分が情けない。
「……どう? おいしい?」
答えを待っているような間。
何も言わないまま、レンが続ける。
「そっか。よかった。甘いの、ちょっと練習したんだよ? キミのこと、大好きだからね」
耳の奥で、心臓が跳ねる。
「──さて、と。もう一品くらい作ろっかな」
コンロの火が止ませられる音。
「でも、その前に……」
グラスが持ち上げられ、氷がカランと鳴る。
「今日のキミは、ちょっと頑張りすぎだから。もう少しだけ甘やかしてあげたいんだよね~」
レンの声が、ふっと近づく。
「ねぇ、キミさ。……私のこと、好き?」
唐突な質問。
けれど、唐突だからこそ、心臓に直撃する。
「私はねぇ……好きだよ。いつも配信見に来てくれるし、ランクのこと心配してくれるし。キミがいるから、こうやって新妻ごっこなんてやろうって思えたんだもん」
笑い混じりにそう言いながら、氷がグラスの中でまた小さく鳴った。
「……じゃ、もうちょい続きはさ。次の枠でやろっか」
レンが、少しだけ声のトーンを上げる。
「このままキッチンで酔っ払っててもいいけど、どうせなら、ベッドまで付き合ってほしいしね?」
ベッド。
その単語に、チャット欄が一斉に騒ぎ出す。
『おいベッドって言ったぞ』
『完全に殺しにきてる』
『今日寝かせる気ないな?』
「あはは、どんな意味かは想像にお任せします。というわけで、一旦この枠はおしまい。次は──“添い寝”いくよ?」
プツッ、と配信が切れる音がして、画面が暗転した。
イヤホンを外す間もなく、心臓だけがうるさく鳴り続けていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます